そのユリア・ジュエという名を目にして、ファリアは目眩を感じた。 よろりと傾いた彼女の身体をバティスタが支える。その手の指は震えていた。 それを見てファリアは少し安心する。恐る恐る顔を上げ、続きに目を通した。 預言は確実に起こる未来のことのはずである。 そこには2000年の歴史が綴られていた。とうの昔に起きた出来事。 預言を歴史は実直に辿っている。それに少し気を持ち直した。 そして、そのモニターの前でティアは沈黙している。 他の仲間が動揺し、ユリアの名を呟きローレライに祈りを捧げている中で異質だった。 ファリアはティアが預言もローレライも何とも思っていないことに気づいていた。 ティアは徹底的な現実主義者だった。神の奇跡にありがたみなど感じない。 むしろその奇跡と呼ばれる事象を解析し、拝む人間を観察していた。 普通、障気をどうにかしようなど考えつかないものである。 ローレライの力を利用しようなど思いつきもしない。 その発想力に対して科学者として羨ましいと思うと同時に、恐ろしいとも感じていた。 ファリアはティアの子供らしい一面を見つけては、内心安堵さえしていた。 ティアがユリアの子孫でなければ、とっくの昔に投獄されていただろう。 手を伸ばせば届くというのに、ファリアにはティアがとても遠く感じた。 預言の存在に疑問を持つなんて、その考えは異端すぎる。以前から感じていた違和感が明確な形となってきた。 ティアはいったい何を考えているのか。ティアは預言に疑問を持っていたのだろうか。 私たちは預言を守るために外殻大地を降下しようとしてきたのに……。 その想いは、一緒ではなかったのだろうか。 ファリアは疑惑の眼差しでティアを見つめていた。 そんなファリアの様子を気にも留めず、ティアはオズに問いかける。「第七譜石の内容を教えてくれないかしら?」 そこには、繁栄が詠まれているはずだった。 ユリアが約束した、私たちの楽園。私たちが守ろうとしているもの。 オズの読みあげる単調な声が消え、静寂が辺りに立ち込める。 その未来は血と死臭と怨嗟にまみれている。 約束された繁栄は滅亡を前にしての最後の宴なのだ。 死に逝く者への餞。滅びの目前にしてのささやかな慈悲。 部屋は静かだった。 誰かの息遣いが耳障りである。 ファリアは夫の手を強く握り、その手が暖かいことに絶望した。 これは夢ではない。虚構ではないのだ。 やがて来る繁栄と滅亡。 何を信じればいいのか。 何をすればいいのか。 未来は、私たちの手をひいて導いてくれた預言は何なのか。 約束された繁栄は仮初のものなのか。 困惑と不安と混乱と……。 だが、否定したくとも目の前の文字は変わらず、救いは見当たらなかった。「嘘よっ! こんなの嘘に決まってるわっ! ティア。あなたはユリアの子孫でしょう? 嘘だって、預言は繁栄を導くものだって、そう言ってよっ!」 甲高い声が響く。だがその言葉は皆の気持ちを代弁していた。 若い女性が膝をついて年下の少女に縋りついている。その姿は聖女に慈悲を求めているようだ。 ティアが聖女ならばその細い肩を抱き「大丈夫ですよ」とでも囁くのだろう。 けれどもティアが与えたのは残酷な真実だった。無言で首を横に振るティアに皆、最後の希望が断たれたのを知る。 ティアは腕を掴み離さない彼女の手を取り、「もう時間だわ」と言い荷物を纏めた。 余りにも予想外の事態に皆、戸惑っているというのに彼女だけは一人冷静に見える。 オズにこれらのデータの一切の持ち出し禁止を告げ、祖父に落ち着いた者が報せるようにと言い残して出て行った。 誰もその背に声をかけることができず、誰かの嗚咽がティアを見送る。 ティアが去った後も余りのことに皆、呆然としておりバティスタが休憩を告げるまで立ち竦んだままであった。 ティアが外殻にとんぼ返りをした後、オズのデータ、秘預言を前に三人は顔を合わせた。 テオドーロは秘預言の内容に驚きはしたものの、うろたえたりはしなかった。 その反応の薄さに二人が疑問に思ったのを察すると、テオドーロはオズを見上げながら懐かしそうに目を細める。「ティアが此処に私を連れてきたのは7年前のことだった。そのとき私は預言通りにいかなかった世界を想像してしまったのだよ。 それから崩落の可能性を目の前にして、預言とは何なのか考えずにはいられなかった」 誰にともなくテオドーロは心情を吐露するように言葉を紡ぐ。 それにバティスタとファリアは耳を傾けていた。心の整理をしたかった。「500年前の混乱でこの街は多くのものを失った。監視者の役割、オズの存在。そして、このユリアの遺言も。 忘れ去られた扉を開いたのがティアだったのは、ユリアの導きだったのかもしれないな」 テオドーロは過去に思いを馳せる。そして、ユリアの願いを推し量ろうとした。 1503年の第二次国境戦争は、ユリアの預言の真偽を巡って起こった。そう伝えられているだけで詳細は不明である。 だが、当時の混乱は、この事実を知ったものが引き起こしたのかもしれない。 滅亡の未来を回避する聖なる焔の光という手段が見つからなければ、あるいは私たちも戦争を望んでいたかもしれない。 多くの人が500年前に亡くなった。その爪痕は深い。私たちは住んでいる街のことすら理解できなくなっている。 隠されていたはずのユリアの血筋は露呈し、今は二人を残すのみである。 もしも彼らがホドの滅亡と共にしていたら封呪を解ける者が居らず、ただ最期を受け入れるしかなかっただろう。 何も知らずに繁栄を謳歌していたかもしれない。それが永遠に続くものだと信じて。 テオドーロはあれから7年という月日の中で少しずつ考えを改めていった。 外殻の崩落という危機を目の前にして何もしないという選択肢はなかった。 その方法が外殻大地の降下という途方のない話であったとしても、ローレライに縋ってでもある。 大詠師派を警戒し、教団に対して秘密裏に動いていることに対してテオドーロは引け目を感じていた。 預言に詠まれていない行動をして、預言の通りの未来を目指す。 それでも必要なのだと言い聞かせながら指示を出した。だが、考えずにはいられなかった。(もしも、私たちが何もしなかったら?) 外殻降下計画の試案ができたときには、既にテオドーロは預言に疑問を持っていた。 少なくとも絶対的な預言という考えは打ち壊されていた。矛盾は時間が進めば進むほど明確になってくる。 聖なる焔の光を巡る矛盾。 予期される崩落と立ち塞がる預言。 それはテオドーロに選択を迫る。預言と繁栄と崩落と滅亡と……。 それはテオドーロにとって過去の自分を引き裂くようなことだった。しかしだからと言って考えるのを放棄するわけにはいかない。 ずっと悩んでいたからこそ彼はユリアからのメッセージを読んでも、滅亡と言う未来を詠まれても然程動じなかった。 そうなのかと何処か納得した部分もあった。そして足を踏み出すことにした。 テオドーロは頭上のユリアの名を見上げ微笑む。聖女は今でも私たちを見守ってくれている。「私は人の世が滅亡を迎えると知って安穏としていられない。私は市長として市民を守らなければならない。詠師として人々に救いを与えなければならない。 預言は絶対ではない。ユリアの言葉をいま一番理解できるのは私たちだ。未来は、繁栄か滅亡かは私たちの心次第だ」 テオドーロは、はっきりと預言からの脱却を此処に宣言した。 テオドーロの力強い言葉にバティスタは深い感銘を受けていた。 バティスタ・ディエゴは幼い時分に親を亡くし、幾分かひねくれて魔界で育った。 子供を大事にしているとはいえ狭い社会である。彼は早々に手に職をつけ外殻へ出ていった。 そして教団で研究員として細々と生活し、ようやく認められてきたころ同僚に研究成果を盗まれた。 勢い殴り込みに行くと、10年来の友人は馬鹿にしたような笑みを浮かべて言い放つ。「誕生日に詠まれたんだ。あなたの願いが叶う。友が力を貸してくれるでしょうって。お前は俺のトモダチだろ?」 へらへらと笑って彼は腫れあがった頬をさすり、唾を吐く。醜悪だった。バティスタは何も言わず友人だった人間の部屋を後にする。 雨が降りしきる帰り道、濡れ鼠の物乞いの孤児が目に止まった。ここは聖都だというのに、貧しいものはいつまでも貧しい。 あの子にはどんな預言が詠まれているのだろうか。幸せを詠まれているのだろうか。 預言に詠まれたからとあいつは俺を裏切った。預言に死ぬと詠まれたらその通りに死ぬのだろうか。 もちろん預言で死に関する物事を詠むことは禁止されている。だが実際詠まれたらどうするのだろうか。 一度芽生えた疑問はなかなか消えなかった。 バティスタは負け犬のように故郷に戻り、やさぐれていたところをファリアが研究に誘った。 外殻が崩落する。それは科学的根拠からいえば、預言以上に確実な未来だった。 気落ちしている暇はないとバティスタは奮戦した。いつのまにかチーフとなり、妻と結婚し娘ができた。 一児の親として、科学者として、人として外殻の崩落は避けなければならない。 外殻が崩落すれば多くの人間が死んでしまう。預言が一可能性に過ぎないのなら、俺たちがしていることにも意味がある。 オズに遺されていたユリアの言葉はバティスタの背を押した。 「外殻の崩落も、その後の滅亡も、俺たちの動き次第で防げるということですね?」「ああ、もちろんだ。ユリアも回避できると言っている」「大地が崩れたらたくさんの人が死ぬ。俺はそれを止めたいです」 バティスタはテオドーロに賛同の意を表した。 意気投合する二人にファリアは疎外感を抱く。 ローレライ教団の熱心な信者である彼女は、二人のように簡単に割り切れなかった。 何故、そんなに簡単に信仰を変えられるのだろうか。 あの言葉の信憑性も疑わしいのに、どうしてそう思い切れるのだろうか。 ファリアは預言を捨てることなど考えたこともなかった。預言を守るために今まで外殻降下計画に協力していたのである。 ティアも目の前の二人も、ファリアには理解できなかった。二人ならティアの考えも分かるのだろうか。そう思いファリアは尋ねてみる。「ティアは、……ティアは何を考えているのでしょうか?」「あの子はユリアの遺志を守りたいのだよ」 そのファリアの問いにテオドーロは少し驚き、そして悲しそうな顔をして答えた。 その市長の表情にバティスタは疑問を持つ。「何か問題でもあるんですか?」「あの子はいつも一人だ。誰かの理解を得ようとしない」 ファリアはテオドーロの言葉に心の中で頷いた。思い出せばいつもそう。 ティアは障気中和薬を作ると言い張り、だが一方で頑なに理由を言わなかった。 アウル博士の弟子になると告げたときも同じである。ティアの秘密主義は今に始まったことではない。 ファリアが不安になるのも仕方がないだろう。そう思いながらも孫のことがテオドーロは心配になる。 ティアがいなければ全ては始まらなかった。それ故にどれだけの重荷を背負っているのか。 幼いころから大人顔負けの態度で研究をして、その後は計画のために奔走している。 人身御供のように外殻に一人赴き、そこでもディスト博士と接触し様々な情報を手に入れている。 それ以上にユリアの子孫であるティアがこの計画に賛同的であるという事実が、関係者の心の支えになっている。 テオドーロでさえ軸がぶれないティアの姿勢に励まされたことがある。 テオドーロはため息をついてうつむいた。 バティスタはその弱気なテオドーロの姿に意外だと思い、励まそうと声をかける。「彼女の一番の理解者である市長がいるじゃないですか」 彼の一番という言葉にテオドーロは苦笑した。そういえば彼はヴァンと入れ替わるようにして帰ってきたか。「ティアの一番はいつだって兄のヴァンだよ。私はせいぜい二番目だ。 しかし、ティアが家族の次に心を開いた君がそう感じているのか。あの子はもう少し人に頼るということを覚えた方が良いのだろうな」 同時にテオドーロは動揺している仲間を落ち着かせるために、ティアが欠かせないだろうと考える。 頼ってもらいたいと思った矢先に此れである。どれだけ負担をかければいいのか。 ティアは子供でいられなかったのだろう。そうさせた自分が不甲斐ないと思った。 一方ファリアはティアの考えも二人の考えも分からず、ますます内に閉じこもった。 ファリアと彼らとの間には、育った環境の違いがあった。ユリアシティの人間はユリアに対する畏敬の念が強い。 彼らの信仰はローレライと預言に対するものというよりは、聖女ユリアに対するものである。 それ故にユリア・ジュエのメッセージの影響力は大きかった。聖女が可能性と告げたのならば、預言を捨てるのもやぶさかではない。 だがファリアは外殻生まれ、19歳まで外殻で育った。 教団の教えを守り、ローレライを神として信仰していたのである。聖女の言葉では預言に対する絶対的な信頼は拭えなかった。 さらに言えば、ファリアはユリアシティに住んでいても監視者としての義務感は持ち合わせていなかった。 その違いはこんな事態にならなければ発覚しないものだったが、それを魔界に生まれた二人は認識できなかったのである。 ファリアは預言とは何なのかと一人悩むことになった。