「あなたは倒れていたんですよ」 目を覚ましたティアにディストは声をかけた。 これといった外傷は見当たらなかったのでディストはティアをソファに寝かせておいた。 第五師団の悪い噂は聞かなかったので、ディストはそこまで心配していなかった。だが、実際にはティアは倒れている。 倒れるまで仕事をしているのだろうか。ディストはあとでシンクを問い質すことにした。「……ディ、スト?」「身体の方は大丈夫ですか?」 不思議そうに見上げてくるティアにディストは問いかけた。 ティアは身を起して少し身体を動かしてみる。「痛むところはないわ。一応ヒールでもしておこうかしら」 ディストは向かいの椅子に腰かけ、変わりないティアの様子に喜んでいいのか少し悩んだ。 良いところも、悪いところも全く変わっていない。特定のこと以外には基本的に無頓着。 視野が狭いというよりは、それ以外は目に入れるつもりが無い人間だった。それを何処か危ういとディストは感じていた。 ティアは自分にヒールをかけて首を回す。バキッと音が鳴った以外はおかしなところはないようである。「ディストが私を訪ねてくるなんて、どうかしたの?」 尤もな質問をティアはディストにした。目を覚ますと疎遠になっていた元上司がいたのである。 彼が訪ねてくる予定などなかった。あの暇な時間があれば研究をしているようなディストが研究室から出て訪ねて来ている。 それだけでティアにとっては大事だった。 ティアの問いにディストは左手で眼鏡をかけ直し苦笑する。「どうかした。確かに私はどうかしたんでしょうね。あれから私はずっと考えていたんですよ。 私がネビリム先生を生き返らせてまで取り戻したいものは、なんなのだろうかと。私はずっとあの輝かしい日々を取り戻したかったのだと考えていました」 ディストは静かに組んだ足の上で指を動かしながら、過去を回想する。 唐突に話し出したディストの言葉の続きをティアは待つ。ティアはソファに座り直し、話を聞く姿勢になった。「……私がネビリム先生にこだわったのは、ジェイドが彼女にこだわっていたからです」 ディストは幼少のころを思い浮かべる。あの頃の自分の世界はとても狭かった。 両親は私に見向きもせず、いつまでもどこまでも白い雪のように私は真っ白で空虚だと感じていた。 そこまで雪に似ているなら、いっそのこと溶けて消えるところまで真似できればと一日中窓の外を眺めた。 そんな暇を持て余していたときに出会ったのが譜業で、そんな私に近づいてきたのはジェイドだけだった。「ケテルブルクにいた頃、私たち二人は共同で発明していました。ジェイドが発案し、私がそれを譜業という形にする。 まさに理想の関係でした。……けれども、ジェイドの興味は譜業だけには留まらず、譜術にも手を出し始めた。 私に興味を持ってくれたのはジェイドだけでした。それも私が譜業の天才だったからです。ジェイドが私を必要としなくなったらと思うと、怖かった。 だからネビリム先生にジェイドが興味を持ったとき、私は終に恐れていたときが来たのだと、いつも以上にジェイドの後をついて回りました。そして――」 ディストはちょっと口を噤んだ。やはり、少し躊躇ってしまう。 脳裏をあの日の光景がよぎる。白すぎる雪と、その雪を染める真っ赤な鮮血。 今思えば動揺していたジェイドと泣きじゃくることしかできなかった自分がいた。愚かで無力だった。 ティアはただじっとディストの声に耳を傾けていた。 それに後押しされて、ディストはもう変えることのできない過去の過ちを懺悔する。「あの日、ジェイドが第七音素を暴走させてしまったとき、ネビリム先生を瀕死に追いやって、結果的に殺してしまったとき、私はすかさず約束しました。 必ずレプリカ技術でネビリム先生を生き返らせようと。ジェイドが私を必要とするように、楔を打ち込んだのですよ。 当時のジェイドのネビリム先生に対する執着は、私が言うのも何ですが、凄まじかったですからね。 そう言えばジェイドは私を手放さない。私は必死でした。ジェイドだけが私を必要としてくれると思っていましたから」 ディストは自嘲するように笑った。そしてふと疑問に思う。 ジェイドが研究を止めると言ったのは、ネビリム先生を諦めたからなのだろうか。 本当は私のこの歪んだ依存心に気づいたからではないだろうか。 本当に自分勝手な過去に嫌気がさしてくる。今となっては、どちらでも構わない。 ジェイドと私の道はもう重なってなどいない。重なったと思っていた過去も錯覚だったのかもしれない。 ディストは今までむきになっていた自分が滑稽に見えてきた。 過去のことを過去として語るディストの変化に気づいたティアは、そっと問いかける。「今は昔と違うのね?」「ええ。あの雪に閉ざされた街で、私の譜業を理解してくれる人はジェイドだけでした。 けれども、此処には多くの技手がいます。私の素晴らしさを皆、理解しているのです!」 ディストは胸を張って答える。それは自称、薔薇のディストの姿であった。 サフィールが昔ジェイドに固執していたのは、彼だけが自分を理解したからである。 譜業を弄っていたサフィールは、どうやったら窓の外で無邪気に遊んでいる子供たちと友達になれるか分からなかった。 羨ましそうに窓の外を眺めて、譜業相手に独り言を呟く。そんなサフィールを外に連れ出してくれたのが彼だった。 それから彼はサフィールにとって絶対の存在となる。彼が興味を持ってくれた譜業にも俄然、熱が入る。 譜業はサフィールにとっての唯一のコミュニケーション手段だった。 それが彼に通じなくなりかけたとき、サフィールは考えた。もっと凄い譜業を作ればいいんだと。 そしてジェイドが居なくなった後も、さらに譜業に入れ込んだ。それしか方法を知らなかったのである。 一度、ティアに冷や水を浴びせられ、ディストは自分を見つめ直した。 すると周囲にはディストと会話できる人間がたくさんいたのである。彼らはディストに認められたいと話しかけてくる。 ディストは嬉しかった。ジェイドには劣るが、多くのトモダチが出来たのだから。「しつこいので仕方なく相手をしてあげたんですよっ。私は天才ですからね! 私は素晴らしい譜業を発明するのです。そしてあの陰険ジェイドにぎゃふんと言わせて見せるんですっ!」 拳を握りしめ、ディストは誰にともなく宣言した。 そして、「なに。私と私の部下がいれば、すぐにジェイドも根を上げますよ」と自信満々に語る。 ティアはそれを見てもうディストは大丈夫なんだなと一安心した。「ディストは馬鹿ね」「なっ。私は天才ですっ!」「ええ、天才よ。けれどもどこか抜けているわ。あの人たちがディストのことを尊敬しているのは、新参者の私でもすぐに分かったのよ。 本当に気づいていないみたいだから教えてあげるけど、彼らは尊敬するディスト博士を悪く言った人に手酷い仕返しをしているの」 クスクスと思い出し笑いをしながら、ティアは第二師団の技手の秘密を暴露した。 例えば、「第二師団の師団長が弱いくせに師団長でいられるのは金を積んでいるからだ!」と言った者は一か月姿を見かけなかった。 なぜか研究室の毒物の試作品が一つ減っていた。 例えば、「本当なら俺が師団長のはずなのにコネで奪いやがったんだよ!」と叫んだ者は二カ月後に退団した。 なぜか被験者が必要な研究の進みが早かった。 ディストは初めて耳にした話に、顔を赤くするべきなのか青くするべきなのか迷った。 その反応にティアは満足して、改めてディストに質問する。「それで、わざわざそれだけのために此処まで?」「……コホン。そうですね。誰かに話すことで自分なりのけじめをつけたかったんでしょう。あとは、あなたに共同研究の申し出をしに来ました」 ディストは照れ隠しに咳払いをするとティアに提案した。 ティアが続きを促すと、ディストは姿勢を正してティアに向き合う。「あなたの第七音素に関する知識をレプリカに活かせないかと思いましてね。レプリカは本来の寿命の前に乖離する可能性が高い。 レプリカは私が作りだしたモノです。私の作品は常に完璧なものでなければなりません。……それに最後まで責任を取りたいのです」 研究室に出入りしているシンクのことを考えると如何にかできないかとディストは思う。 責任を取ると宣言したディストの表情はとても真摯であった。「それは嬉しい申し出ね。師匠にも連絡を取ってみるわ」 ティアはディストの提案に一も二もなく同意した。 そしてディストは思いがけない人の登場に身を乗り出す。「師匠って、まさかアウル博士ですか!?」 アイン・S・アウル博士。 彗星のごとく現れた万能の人。 ジェイド以来のここまでディストの興味を引きだした人間はいなかった。 彼の論文は思いがけない発想があり、ディストは感心していた。 昔のデータを集めるだけでも大変だろうに、その上多くの分野にそれらを反映している。 そしてその研究成果を惜しげもなく発表し、的確な意見を述べる。簡単に出来ることではない。 その博士との共同研究。ディストは興奮せずにはいられなかった。 ティアにとってディストの提案は渡りに船だった。 ルークとイオンとシンク。 世に出ているレプリカはこの三人だが揃いもそろって世界の重要人物ばかりである。 次期王位継承者、現導師、少し劣るが参報総長にして師団長。突然目の前で消えてしまいましたとなっては大問題である。 その後釜を狙ってまた混乱が起きるだろう。それは避けなければならない。 とくにキムラスカは危険だ。あそこは後継者が少ない。 赤い髪と緑の眼を持つ者が王になるのが原則となっている。 キムラスカ・ランバルディア王国は、元はキムラスカ王国とランバルディア王国という二つの国だった。 510年にマルクト帝国はローレライ教団の後ろ盾を得たが、それから6年の間に北半球全域を領土にする。 キムラスカ王国の属国は、あるいは抵抗もせずに降伏し、あるいは率先的に反旗を翻した。 6年の間に地図は塗り変えられ、見る見るうちにかつての公国は帝国の名にふさわしい巨大国家に成り上がっていた。 当時のキムラスカは属国からの貢納金で自国の栄華を極めていた。 しかしその足元である属国が削り取られていく。国の体力は減っているのだが、一度知った贅沢は容易に止められやしない。 そして権威というものは無形であるが故に、誇示しなければならないものだと彼らは考えていた。 だが、そう遠くないうちに財政が破綻し、最強を誇っている軍も維持できなくなってしまうのは明白であった。 かといってマルクトに媚びることなどあり得やしない。そしてランバルディア王国の手を取ったのである。 ランバルディア王国は、現在のベルケンド辺り一帯を治めていた王国である。 キムラスカよりは歴史は浅いものの、大きな港もあり海運から発展した。長じて情報や金融も扱うようになる。 キムラスカとは間に一つ属国があり、それまでは適度に距離を保ちながら儲けていれば良かった。 だが激動の6年の間にそういう訳には行かなくなった。そしてついに隣の属国が軍備を増強し始めたのである。 マルクトの支援を受けているその矛が向かう先はどちらか分からなかった。 独立を目指してなら真っ先にキムラスカを攻めるだろう。しかし、国力差を考えるとランバルディアの方が落としやすい。 いち早く情報を察知したランバルディアはキムラスカと連絡を取った。 そして、その国の準備が整う前にキムラスカとランバルディアは同時に侵攻し攻め落とした。 国境を接するようになった両国はこれを機会に関係を深める。このままではマルクトの勢いに呑み込まれてしまう。 同じ脅威を前にして、接近せずには居られなかった。ローレライ教団の信者は両国でも増加の一方である。 世界の半分を平らげ、ゼロス公爵などマルクトを支える層は厚い。これからもこの状態が長く続くことは自明の理であった。 そしてマルクトに対抗する手段として両国の合併が行われる。 キムラスカ側はその最強と謳われた軍事力を、ランバルディア側はその財力と情報収集力を差し出す。 ランバルディアの国力の方が低いことを加味して、キムラスカの首都バチカルでその結婚式は挙げられた。 518年、キムラスカ王にランバルディアのアレンデ姫が嫁ぐという形で内外にその事実は発表される。 これが、現在のキムラスカ・ランバルディア王国の誕生である。 傍から見れば、ランバルディア王国の屈服とも取れるだろう。 だが、交渉力に長けたランバルディア側は一つの条件を付けた。ランバルディア王家の血が何よりも優先されるようにと。 王が幾ら側室を貰い男子を産ませたとしても、それらの子供の継承権が低くなるようにしたのである。 『いにしえより、ランバルディア王系に誕生する正当な後継者は、赤い髪と緑の瞳を併せ持つ者だけである。 その証を以って、ランバルディア王家の一族と認め、これを王位継承の最優先事項とする』 この文章で、ランバルディア王国はキムラスカ王国を乗っ取ったとも言えるだろう。 赤い髪と緑の眼を持つアレンデ王妃はその後二人の男児を出産。長男は赤い髪と碧の眼、二男は赤い髪と緑の眼であった。 その後二男が王位を継ぎ、長男は臣籍に下り公爵家を興した。現在のファブレ公爵家の前身である。 1500年続いた伝統は容易く覆らない。赤い髪と緑の眼は何よりも優先される。 そして王位継承の条件を満たしているのはクリムゾン公爵、シュザンヌ公爵妃それにルークとアッシュだ。 年齢的にルークとアッシュが次代であるが、あのアッシュが素直に国に帰るかは分からない。 かといってレプリカであるルークが王となっても問題になるだろう。 次期王の問題は全てが終わった後、いま悩むことではない。ティアは思考を切り替える。 いまルークとして公爵家にいるのはレプリカなのだ。そこが肝心である。繁栄を約束する者が消えたら一大事だ。 キムラスカはそう遠くないうちにアッシュに辿り着き、降下どころではなくなってしまう。 それ故にティアはアウル博士の名を出してまで、レプリカの乖離を回避しようとしていた。 だがディストはさっきまでのシリアスな雰囲気は何処にいったのか、まだ見ぬアイン・S・アウルに意識を飛ばしている。 その浮かれようを見て、実態を知ったときのディストの反応がティアは思い遣られた。 もしかしたら、自分はディストに嫌われてしまうかもしれない。そのときの彼ことを思うと少し罪悪感を持ってしまう。 だが、ディストの心変りは嬉しいものである。雨降って地固まる、というわけではないが少し肩の荷が軽くなった気がする。 ネビリムに拘らなくなったディストになら、研究者としてもっと深いところまで意見を聞くことができるだろう。 魔界では以前送ったアッシュのデータでシミュレーションをしている。 レプリカの存在についてはバティスタとファリア、そしてテオドーロにしか告げていない。 テオドーロには以前これ以上首を突っ込まないようにと釘を刺されてしまった。 バティスタにはレプリカの場合でもシュミレーションしてもらっている。 あと2年。このまま順調に行けばどうにかなるかもしれない。 その直後、ティアのもとに一通の手紙が届いた。 『オズの件で、至急、魔界に来て欲しい』 地の底で何かが起こっている。ティアは嫌な予感がしてならなかった。