シンクは机の上の書類が一通りなくなったので、いつものようにティアのところで休憩しようと席を立った。 するとその様子を見ていた副官のトリートはにこやかに笑いながらシンクの背に一言、投げかけた。「いってらっしゃいませ。余り居座って天使殿を困らせてはいけませんよ?」 トリートは第五師団長付副官である。 師団長であるシンクが参報総長も兼任しているので、その負担を減らすために副官の任についている。 シンクが師団長になる前に何度か任務を共にしたこともあり、トリートは再編後三日で彼の性格をほぼ掴んだ。 その仮面のせいで表情は分からないが、その気配は素直に感情を表している。 トリートはシンクが書類の多さに辟易してきたころ、絶妙のタイミングで団員の訓練を頼む。 舞い込む苦情に口元がひくついてきたときに、魔物退治や盗賊退治の任務を差し出す。 気配りが自然とできるため、気難しいところのあるシンクとトリートの仲はおおむね良好だった。 そのトリートがシンクの変化に気づいたのは早かった。 第五師団が発足してから七日目の朝、出勤してくるとシンクは既に執務室にいた。 これまでは時間ちょうどに来ていたのに珍しいことだとそのときは思った。 シンクの書きあげた書類を処理し整理する。いつも通りのことだ。普段より早目に終わりシンクはさっさと執務室を出て行った。 その次の日、トリートが扉を開けるとそこには既にシンクがいた。 早起きが続いたのだろうかと思いつつも挨拶をして通常業務を行う。 その日も朝の分だけ早い時間に仕事は終わった。シンクは振り返りもせずに何処かへ行ってしまった。 その次の日、シンクはちょっと不機嫌な様子で時間ぎりぎりに表れた。 早起きが三日は続かなかったのかなと思い、またこれまでと変わらない毎日に戻る。 だが、そのころからシンクは随分と変わった。 ときどきフラッといなくなり、帰ってきたときのシンクはいつもより感情豊かだった。 何処に行ってるのだろうかとトリートは不思議で仕方なかった。 そして耳に入る噂。 師団長が技手の研究室に出入りしているらしい。トリートには一つ心当たりがあった。 あるときふと思いついて執務室を出ようとしていたシンクを呼び止める。 技手宛ての書類を渡し「ついでにお願いしますね」とトリートが言うと少しの間が空いた後、彼は了承した。 そして宛名を見てふっとシンクの雰囲気が柔らかくなった。 どんな人なんだろう。トリートはこのシンクの心を動かしたティアという人間が気になった。 副官繋がりで第二師団の副官であるミックスに尋ねてみたときの反応は予想外だった。 ミックスはその彼女に心酔していたのである。彼はトリートの両腕を掴み、如何に彼女が素晴らしいか語る。 そして「彼女は我々の天使なんだっ!」という言葉から始まった話は終いには彼女のいない第二師団の現状に至る。 「師団長は以前のように仕事をしなくなり……」とトリートは愚痴を聞かされる羽目になった。 第二師団のディスト師団長の落ち込み方は悲惨なようで、苦労しているようである。トリートはその日の会計は自分が持とうと思った。 彼女は士官学校を卒業してすぐに個人主義者の技手を虜にし、ディスト師団長にも一目置かれていたそうだ。 それを見て駄目元で頼みこむと彼女は天使の微笑みで引き受けてくれて、率先して書類などを手伝ってくれたらしい。 お礼に任務を一緒に受けると彼女はその手で「お疲れ様です」と言いながら癒してくれたそうで、その話をミックスは何度も繰り返す。 他にも、第二師団のマスコット。 グランツ謡将が第五師団に推薦した優秀な技手。 あの椅子に座れる死神ディストのお気に入り。 士官学校出身で成績は普通、ただし科学は抜群。 妖獣のアリエッタのライガに触れる。 死者蘇生もできる癒しの白衣の天使。 あのディスト師団長の手綱を握れる人なら、うちの師団長が難なく攻略されてしまってもおかしくない。 むしろ彼女に会いに行くようになってからシンクは良い方に変化した。副官として喜ばしいことである。 彼女にはいつか礼を言いたいなと思いつつ、彼女に愛想尽かされてしまったらどうなってしまうんだろうかと心配した。 だからこそトリートは忠告したのだが、彼のこの気遣いはシンクに通じなかったようだ。 シンクはトリートに馬鹿にしたような嘲笑を残して、さっさと執務室から出て行った。 天使。 普段聞き慣れない単語を聞いて、シンクは一瞬トリートが何を言っているのか分からなかった。 甘いものの食べすぎで脳味噌に花畑でも出来てしまったんじゃないかと一瞬本気で彼の頭を心配した。 彼は大の甘党で3時にはおやつを食べ、彼の机の中には飴玉やクッキーが常備されている。 そして彼の言っている天使があのティアのことだと気づき、その余りの認識にあほらしくなって返事もせずに部屋を出て来た。 『白衣の天使』、ティアの第二師団での呼び名の一つである。 これはその名の通り類稀な癒し手であることを意味している。 だがもう一つ、白衣は技手の象徴でもある。 ティアは連れ回してくれたお礼にと彼らにお手製の栄養ドリンクや回復薬を差し出した。 つまりティアは屈強な第二師団の面々を実験体に選んだ訳である。もちろん、日頃の鬱憤を晴らすためだ。 試作品だったそれらは効力重視で味など考慮されてなどおらず、彼らは口にした瞬間、昇天した。 彼らが気を失っているうちに外傷は治り、それは天使の仕業と言ってもいいかもしれない。 傷の痛みが無くなり被験者が目を覚ますと、満面の笑顔でティアはその経過観察をしていた。 傍目に見ると献身的な人間に見えるだろう。だが、舌の上に残っている味が現実を教えてくれる。 『白衣の天使』、その白衣という単語には素晴らしい癒し手だが彼女はあの技手である、という虚しい現実が込められている。 ディストからその話を聞いて、ティアの試作品を食べたことがあったシンクは笑えなかった。 そのときシンクはオリジナルに会った気がした。それを知らない人間は額面通りに受け取っているみたいだが。 やっぱり悪魔が一番似合うんじゃないかとシンクは研究室に向かいながら考えていた。 見慣れた廊下を通ってシンクは扉を開く。「あ、師団長だあ。師団長ぉ、その仮面ってやっぱり趣味なの?」「…………」「答えてくれたら、良いこと教えてあげようと思ったのになあ~」「黙れ」 シンクは扉を開けた瞬間声をかけてきた金髪に頭が痛くなった。 こいつは初めて自分が此処を訪ねたときからこうだった。甘ったるい声を出しながらシンクに近寄ってくる。手酷くあしらっても懲りない。 こういったところが上司に嫌われたんだろう。この研究室の連中は個性が強すぎて困る シンクの後ろで「後悔しても、僕は知らないんだからね~」と続く言葉を無視して応接室に入った。 シンクは部屋に入ってからもずっと不機嫌だった。金髪の言う通り後悔していた。 それもこれもこの空間にピンク、妖獣のアリエッタがいるからである。 ただ無言でティアの淹れた紅茶を飲んだ。シンクの周囲にはブリザードが吹雪いている。(まったく、なんで此処にこいつがいるのさ) シンクは七番目とアリエッタには関わらないように過ごしてきた。 ティアの件で連絡を取ってはいるものの、極力副官を寄こすようにしている。 オリジナルのお気に入りだった元導師守護役。死ぬときに解任させるほどの執着を見せた相手。 オリジナルと深い関係がある者には近づきたくなかった。 もしもイオンに似ているなどと言われたら……。 失敗作であるシンクにとってこれほど残酷な言葉はない。同じではない部分があったからこそ彼は捨てられたのだから。 かといって似ていないという言葉ほど嘘くさいものはないだろう。 シンクがイオンのレプリカであるという事実はどうしたって覆らない。 だからこそ導師イオンと直接顔を会わせたことが無いティアの研究室にシンクは通う。 レプリカ技術のことを理解しているティアにとって、シンクはシンクでしかない。 いつまでも黙っているわけにもいかずシンクは口を開いた。「あんた、なんでこの部屋にいるのさ。森に帰りなよ」「……アリエッタ、ティアに呼ばれたんだもん。シンクこそ、邪魔……」 アリエッタはシンクが来たことに驚いていたものの、すぐにシンクの言葉に反論した。 アリエッタにとってシンクは落ち着かない存在だった。イオンと同じ顔で、イオンと違う行動をする。 彼に会うと自分の大切な思い出が踏み躙られているような気分になる。 イオンはアリエッタにだけは優しかった。アリエッタにだけは親しげに話しかけてくれた。 なのに目の前の彼はアリエッタに敵意を見せて、イオンは絶対に言わなかったことを口にするのである。 二人の間には一瞬の沈黙が流れ、視線が絡み合う。お互い深呼吸してから次の台詞を喋る。「此処は第五師団の場所だよ。余所者は出ていけって言ってるんだ」「……ここは、ティアの研究室……」「そのティアの上司は僕さ。チビは帰ってライガに泣きつけばいいんだ」「アリエッタ、チビじゃないもん!」「はっ。僕より小さいじゃないか。それをチビと言わないで、何と言うのさ」「む~。……シンク、年下のくせに生意気……」「なんだって!?」「何度でも言うもん! 生意気なシンクッ!」 二人の口論はますますヒートアップしていき、此処が研究室の隣でなければすぐに喧嘩になっただろう。 シンクの舌は軽快にまわり、アリエッタの口調もいつもより激しいものである。 ティアは一部始終を眺めながら困惑していた。 二人が密かに連絡を取り合っているらしいと聞いてティアは安堵していたのである。 アリエッタはアリエッタなりに導師イオンの死を乗り越えようとしているのだろうと。 シンクもストーカーをされなくなったのでアリエッタを受け入れたのだろうと。 二人の間で何らかの解決が成され、仲良くなったんだろうなと思っていた。 ティアを仲間はずれにしているのは、何か理由があるのだろう。 そう思って少し待ってみた。落ち着いたら話してくれるだろうと。 けれども全く彼らからはその素振りが見られなかった。少しティアは寂しかった。 二人に理由を話す気が無いならと、この偶然に頼った再会を仕組んでみたのだが。 何故、仲が良いはずの彼らが言い争っているかティアには理解できなかった。 此処が薬品や高価な譜業のある場所でなければ奥義を繰り出していそうな雰囲気である。 何か間違ってしまったのだろうか。余計なことをしてしまったのだろうか。 そう考えている間にも二人の間には亀裂が入っていく。一通りの悪口を言い合った次は睨み合いのようである。 そういえば、最近ライガに会ってない。 研究室を持ってからはライガの毛とか心配だから外に居てもらったんだが。 無性に会いたくなってきた。モフモフしたい。確か今日は晴れのはず。 ティアは目の前の現実から目を逸らしたくなってライガに逃げた。「森に行こう!」「はっ?」「えっ?」 突然宣言をしたティアに二人は驚いてティアを見る。困惑気味の二人を半ば引きずってティアはアリエッタの森を訪れた。 ティアはライガくんを呼んで手早く水洗い、乾燥を終える。ライガくんは為されるがままになってくれる。 木陰の下でお日様の匂いに包まれながらティアはライガの背に抱きつき、その毛皮を堪能する。 滑らかな毛皮に手を滑らせた。少し獣臭いが我慢するほどっではない。手触りを満喫しながら、こんな日が続けばいいのになとティアは思う。 喉の下に手を入れて掻いてあげると「ぐるるぅ」と満足げに唸る。そしてその頭を手に押し付けてきて「もっと」とねだってくるのだ。 胴体にもたれかかりながら耳の裏にティアはそっと手を伸ばした。 そんなティアをシンクは呆れた様子で見ていた。いきなり森とか言い出して、いったい何なのだろうか。 休憩をしに来たはずのシンクはちっとも心休まった気がしなかった。「なにあれ。あんな人間だった?」 シンクは白衣が汚れるのにも構わずへにゃりとしているティアを見て、ついアリエッタに尋ねた。 そんなことも知らないのといった様子でアリエッタはシンクに説明する。「ティアは、ときどき、すとれすでダメになるとライガ分を摂取するのっ」「はあ? ほんと、おかしな奴」 シンクの問いに答えるとアリエッタはティアの下に駆け寄っていく。 言いたいことを言い合ったおかげなのか、少しだけ彼らの仲は進展したようである。 シンクはライガに頬ずりをしているティアを見ながら苦笑する。天使や悪魔に例えられているが、ティアは無害そうに見える。 僕たち六神将と親しくしているが、それだけである。計画には関わっていない。 ヴァンの妹であり、死神の助手であり、ピンクの友人であり、ラルゴから贈り物を貰う仲であるのに、である。 リグレットの突然の変心にも関わっているそうだ。今までの非協力的な態度は何処に行ったのか、忠実な副官になっている。 これほどの関係があるのに、まだヴァンは妹だけは巻き込むつもりが無いらしい。 アッシュに対してティアに接触しないようにと良い含めていた。アッシュは興味なさそうだったが。 世界を破壊しようとしている人間でも身内は可愛いのだろう。矛盾している。 風が吹いて、赤や黄色の花を揺らす。新緑の緑が青い空を背にして色鮮やかに映える。 日向で立ち止まっていると汗をかいてしまいそうだが、爽やかな空気と時折吹く風が清々しく感じる。 外も悪くないかなとシンクは思った。 シンクがヴァンに従って計画に参加しているのは、ダアトに留まりたいからである。 皮肉にもティアの「生きる努力をしろ」という言葉が彼を真の六神将に仕立て上げた。 レプリカについて最先端であるのは紛れもなくダアト、ヴァンの掌の上のディストの傍である。 第七音素は引き合う性質を持っている。今もシンクの体からは少しずつ第七音素が漏れているはずだ。 風船が一時は浮かんでも最後には萎んで床に転がってしまうように、レプリカは死ぬ。 シンクはイオンの予備として作られ、5番目ということもあり、かなり丁寧に作られている。 それでも平均寿命が70歳であるこのオルードラントで、せいぜい20歳まで生きられたら幸いだろう。 彼は11歳のオリジナルのデータを元に作られている。子供から大人へと人間は成長していく。 そのデータに従いレプリカの体も成長する。だが、その変化にシンクが耐えられるかどうかは未知数だった。 成長期を乗り越えても、いや、だからこそ年々減っていく音素がシンクにかける負担は大きくなる。 いずれ結合が緩くなり、指先から透けて音符帯に還るのだろう。レプリカの逃れられない宿命である。 シンクは暇ができた時間は死神の下に赴き、自分の体のことについて調べている。 はっきり言って分の悪い賭けである。だが、ただ時の流れを傍観していたころよりもずっと充実していた。 気の持ちようだけで一日が変わる。それを理解できたことにシンクは満足していた。 一つティアのことでシンクには引っかかっている記憶がある。 あのとき「生きろ」と告げたティアの気迫はヴァンに感じたものと同じだった。 兄妹だからと言ってしまえばそこで終わりだが……。 ヴァンには預言の無い世界を作るという野望がある。だが、彼女の望みとはなんだろう。 何度も会っているが、世界の再生を企むヴァンに匹敵するような願望はないように見える。 一見、研究馬鹿の不摂生な技手らしい人間である。ただの無力な治癒師である。 けれどもあのときの記憶がシンクから薄れることはない。彼女には兄に匹敵する、強い思いを持っているはずなのだ。 ティアはライガに身を任せてアリエッタと話していた。シンクの視線に気づいて手招きをしている。 やれやれと足を進めながらもシンクの心は此処にあらずであった。 彼女は何を願っているのだろうか。 シンクの胸中にはその疑問が渦巻いていた。