昨年のケセドニア北部の戦いから、またマルクトとキムラスカの間がきな臭くなってきた。 二年前に即位したピオニー・ウパラ・マルクト9世は、軟化政策を掲げているものの実態が伴っていない。 6000人と団員が多い第一師団と第二師団は、それぞれマルクトとキムラスカへと演習の相手をして来たばかりである。 年末から打ち合わせが多く師団長も相手国へと出向かなければならなかったので、ディストを説得するのが大変だった。 両国ともダアトとの交流という名目だったが、その本音は見え透いている。戦争が待ち遠しいのだろう。 リグレットは苦々しい思いを呑み込んで、第三師団の食堂へと向かう。師団が分割された後も建物の関係上、食堂は共用である。 この時間帯なら大抵の団員は食事をしに来る。それが白衣組と呼ばれる技手であってもその例に漏れないはずだ。 長期任務から帰ってきたラルゴとヴァンの会話で彼女の名が出てきた。ヴァンの妹。 第五師団の技手は数が少ないので白衣を着ていれば一目でわかるだろう。――見つけた。 ティアはアリエッタに懇願されたこともあり、久しぶりに食堂を訪れていた。メニューを眺めて、少し悩んでから食券を購入する。 長い列に並んで待つ。此れがあるから、食堂は避けていた。じりじりと前に進みやっと順番が回ってくる。 出来たての食事は暖かい。セットで付いてくるコンソメスープからは湯気が経ち、ほんのりと野菜の良い匂いがする。 野菜の旨味が溶け込んでいるスープを想像して、お腹が空いているのだとティアは実感した。 お昼過ぎの休憩時間。混雑しないようにと休憩はずらしてあるそうだが、それでも人が多い。運よく通路側の空いた席を見つけたティアは素早く座った。 そしてスープを堪能して、メインのオムライスを端の方からスプーンで切り崩す。なんとなく、ケチャップの模様は消したくない。 癖のない鶏肉と濃厚なトマトの味が口の中で広がる。タマネギの甘味がさらに深みを持たせていた。 とろっとろの半熟も好きだが、このオムライスのようにしっかりと中身を包み込んでいる卵も好ましい。甲乙つけ難いとはこのことである。 瑞々しいサラダのレタスを噛むと、シャキッと音が鳴る。身体の中の不純物を浄化してくれそうだ。 こんなに美味しい料理がセットで680ガルドとは、ダアトの料理人は末恐ろしいとティアは水を飲みながら思う。 スープが少し温くなり、オムライスが残り3口ほどになったころ、ティアは名を呼ばれた。「ティアというのはお前か?」 ティアは怪訝そうな顔をしながら手を止めて、此方を見下ろす兄の副官を見上げる。 リグレットの声は嫌に響いた。食堂の注意が二人に向けられ、ひそひそと彼女たちの名を囁く者もいる。 ティアは食事に夢中で気づいていなかったが、誰かを探すように席の合間を歩いていた第四師団長兼主席総長付副官の姿は人目を引いていた。 そこでやっとティアは注目を浴びていることに気づき、眉を顰める。 こんな人が多いところで、リグレットのような立場に居る者が一技官を探すだなんて真似は止めて欲しい。 教団の仕事についてなら普通に呼び出すだろう。まったくの私事というわけだ。 私とリグレットの間にあるプライベートな関係と言えば、兄のことしかない。 どこで私が妹だと知ったか知らないが、もう少し隠されている意味について考えてほしかったものである。 ただでさえいきなり総長の副官に任じられて愛人と噂されているのに、保身という言葉はリグレットの辞書にはないのだろうか。 ティアは無言で席を立つ。久々に美味しい食事にありつけたと思ったらこの始末である。 3口分のオムライスを残して、ティアはリグレットを研究室に案内した。「それで、主席総長の副官が私に何の用でしょうか?」 飲み物も出さずにティアは話を促した。「お前はあのヴァンの妹なのだろう? 興味があったのだ」「そのことは特定の人物にしか知らされていない教団の機密です。余り触れ回るような真似はしないでくれませんか」「それはすまなかったな。妹がいると言うことを知って、いてもたってもいられなくてな」「そうですか」 口では謝っているが、リグレットの態度は謝罪している人間のものではなかった。それを感じ取ったティアはおざなりに対応する。 リグレットはいつもシンクが座っているソファに腰掛け、興味深げにティアを観察していた。 その不躾な視線は不愉快極まりない。そう思い黙り込んだティアにリグレットは質問する。「お前は自分の兄についてどう思っているのだ?」「兄は私の大切な家族です」「そういう当たり障りのないことじゃなくてだな――」「ですから、私は兄のことが大切で、何よりも大事で、大好きなんです」「…………」 にっこりと最大級の笑顔を付けてティアは言い放った。 ティアから兄に対しての悪口は引きだすことはできない。 なんせこれから世界を壊す予定の人物だと知っていてもティアは兄を愛している。 臆面もなくティアが兄を好きだと告げるとリグレットは憎々しげな顔をした。 それは目の前にいる私にではなく、私の兄に向けられているのだろう。いったい彼女は何をしに来たんだろうか。 ティアはこの礼儀知らずな兄の副官の目的が分からなかった。 確かに言えるのは不快な気分にさせられている、ということだけである。「あなたは私から何を聞きたいんでしょうか?」 さっさと帰って欲しくて、早く本題を済ませようとティアは思った。 そんなティアの気持ちを無視してリグレットは両手を目の前で結び語りだした。 この兄を大好きだと言い切るヴァンの妹がどんな反応を見せるのかリグレットは知りたかった。「……私にも大切な弟がいた。自慢の弟だった。両親が流行病で死に、親代わりの姉として弟の成長は何よりも嬉しかった。 大きくなって二人で神託の盾騎士団に入り、弟はヴァンの下に配属された。マルセルはヴァンのことを慕っていた、いや、崇拝していたと言った方がいいだろう。 マルセルは会うたびに『ヴァンさんが、ヴァンさんが』と話してくれた。それを聞いて私は安心していたんだ。こんなに弟が慕っているなら優秀な人なんだろうと」 一つ息を吐き、込みあがってくる激情を抑えようとリグレットは試みた。 本当に弟はヴァンのことを信頼していた。キラキラと目を輝かせて会えば二言目には尊敬するヴァン師団長のことを話していた。 だから、弟の死ことを考えると悔やんでも悔やみきれない。そして後悔はヴァンに対する怒りへと変わる。「私は愚かだった。ヴァンは弟が慕うに値するような人間ではなかった。 先の戦いで、ヴァンの率いた隊にいたマルセルは死んだ。ヴァンは私と、私の弟の信頼を裏切ったのだ!」 リグレットは預言に関する恨み辛みは省いて、ただヴァンだけを口汚く罵った。 ヴァンがマルセルを誑かして戦地に連れて行かなければ、弟は死ななかったはずである。「そうですか。それはお悔やみ申し上げます」 ティアは言葉少なに返答した。ただの一技官である私から言えることはそれしかない。 その冷淡とも言える反応がリグレットの癇に障った。ティアに対する敵意でその目を光らせ喚く。「お前の兄が、私の弟を、マルセルを殺したのだ! それをお悔やみ申し上げますだとっ!?」 ぎらついた目に憎悪の火を灯しリグレットは腰を浮かし、いまにも掴みかからんばかりである。 目の前にいるのが白衣を纏った華奢な13歳の小娘でなければ、既に殴っていただろう。なけなしの理性でリグレットは手を握りしめ、じっと耐えた。 そんな頭に血が昇っているリグレットに冷え切った氷のようなティアの声がかけられる。「お言葉ですけれども、戦場に絶対という言葉はなどありません。それはあなたもあなたの弟も承知していたはずでしょう。 戦争での死の責任をその場の指揮官にだけ問うなど、おかしなことを仰らないで下さい」 突き詰めてしまえば、戦争とは外交の一つの手段に過ぎない。二つ以上の国が存在する以上、その間には何らかの関係が生じる。 そして対等な関係を装ってはいても水面下では熾烈な争いがあるのだ。それが武力という形で表面化したのが戦争なのである。 尤もキムラスカとマルクトの間には良好な関係など微塵もない。 長い歴史の中で幾度となく戦い、もはや積年の恨みは募るばかりである。 友好的か敵対的かというよりは好戦的か厭戦的かという交渉の余地もないような間柄である。 それでも世界を二分しているこの状況では、何らかの妥協点を見出さなければ発展の余地はない。 だというのに戦争だ、殲滅だと馬鹿の一つ覚えのように叫ぶ。これも預言の弊害だろうか。人の常かもしれない。 だが、だからといって国政の指導者がその責任から逃れて良いというわけではない。開戦したのならばその犠牲の責任を持つべきである。 それが神託の盾騎士団の犠牲ならばダアトの導師が負うべきものだ。二国の戦争に介入し、余計な戦死者を出した。 預言に詠まれていたとしても、その死が意味あるものだとしても、それは変わらない。もちろん兄に責任が全然無いとは言えない。 けれども、全て兄が悪いと罵るリグレットの態度をティアは許せなかった。 ティアの理屈を前にリグレットは押し黙った。 軍人である以上命令されれば拒否することはできない。それは弟にも、そしてヴァンにも言えることなのだ。 結局のところリグレットの行動は他者から見れば滑稽なことに過ぎない。 弟の死が受け入れられず、あたりに喚き散らしてヒステリーを起こしているようなもの。 つまり古参の兵に言わせれば覚悟が足りなかったと表現されるようなことである。 ティアの言葉を受けて、リグレットは握りしめていた拳の力を抜いた。「すまない。弟の話をして、つい……」 リグレットも理性では分かっている。 自分がやっていることで弟が帰ってくるわけでもなく、ただ行き場のない感情を一纏めにしてヴァンにぶつけているだけだと。 だが感情が追いつかない。何故マルセルが死ななければならなかったのかと心は荒れ狂うばかりである。 秘預言に全滅すると詠まれていたということを知ってからは、リグレットはローレライに祈ることもなくなった。 教団もオラクルも弟の死に加担していたのかとリグレットは絶望した。 そして自暴自棄になりヴァンを問い質した。いや、マルセルの仇を討ちに行った。 リグレットにはもう何も残っていなかったのだから、そこで殺されても良かった。 殺されるものだと思っていたのに何故か私はまだ此処にいる。 主席総長であり詠師でもあるヴァンの前で預言を否定した。謡将なら一太刀で切り殺せるはずである。 リグレットはヴァンの行動がまったく理解できなかった。理解できないから理解したいと思った。 弟が慕っていた彼を見ていれば弟の気持ちが分かるだろうか。私を副官に任命し未だに生かしている理由も。 そしてヴァンの大事な妹の存在を知り、リグレットは居てもたってもいられず押し掛けた。 リグレットは深呼吸をして気を取り直した。ソファに座りなおし、ティアにゆっくりと問いかける。「ヴァンはお前にとって、良い兄なんだろうな。……お前の兄の話を、私にしてくれないか?」 その様子にティアは疑問に思う。兄にリグレットは並々ならぬ関心があるらしい。 だがどちらかというと負の感情を持っているようだ。これが何故あの兄を閣下などという忠実な副官になるのか。 首を傾げながらも、ティアは仕方なく兄の話をする。リグレットは十分な話を聞くまで此処に居座りそうだった。 魔界での思い出を語る。離れ離れになっていたときのことも口にする。 兄が子守唄を歌ってくれたこと。その声がとても澄み切っていること。 兄が絵本を読んでくれたこと。そして兄が博識であること。 兄の稽古を見学したときのこと。兄は剣技も優れていること。 兄が筆まめであること。兄がとても心配性であること。 兄が誕生日を必ず祝ってくれること。兄に送った贈り物のこと。 ほかにもたくさん喋った。喋りすぎて途中でティアは水を飲まなければならなかった。 話終えたとき、ティアは恍惚とした表情を浮かべていた。 リグレットはティアの話に相槌を打ちながら、必死でヴァンという人物を理解しようと努めた。 そしてティアの話が終わるとリグレットは礼を言い、足早に研究室を去った。 何だったんだろうか。私とリグレットの兄弟自慢とか? いろいろと違う気がした。 疲れ切ったティアはとりあえず紅茶を淹れる。こんなとき、ディストの淹れた紅茶が恋しくなってしまう。 こちらから接触しなければリグレットと会話する事などないとティアは思っていた。 どれくらい私はシナリオに介入できているのだろうか。 介入できても全てが予定調和として意味のないものになり下がってしまうかもしれない。 不安になると切りが無くなってしまう。喉を潤すためだけの紅茶を飲む。 ルークの力を借りて外殻を降下させれば、話し合いの時間ができる。 その場で兄の罪を減刑して貰おう。それでも公職追放は免れないだろう。けれど、兄が生きていてさえくれればそれでいい。 邪魔をするなと怒鳴られても、お前がいなければと嫌われても、傍にいれなくても青い空の下で元気でいてくれるなら十分だ。 減刑が叶わず処刑が決まったら、逃亡して二人でナム孤島にでも身を寄せようか。 確かあそこにはフェレス島の出身者を中心として居場所のない者が身を集まっていたはずだ。 しかし兄が救えた場合、和平が本当に成立するのかが心配である。 原作では兄が再度彼らの前に立ち塞がったから世界が一つに纏まった。 だが、私が兄を救ったらまた戦争が始まってしまうのではないだろうか。 第七譜石の滅亡は導師が命を懸けてまで詠む事態にならなければ明かされない。 外殻の崩落という危機が去れば、キムラスカが戦争を仕掛けそうである。 ティアは深いため息をつき、可能性を探るために思考に耽った。 2018年が来るまでに、どの程度の予防線を張れるのか。未だ問題は山積みである。