アリエッタは湯呑を手に取りその緑色の液体を飲む。「……っ!……」 そして舌を火傷してしまったのか、涙目になって恨めしそうに緑茶を見た。最近のお気に入りのお茶である。 アリエッタにとって甘味と言えば果物だった。だから初めてお菓子を食べたとき、彼女はびっくりした。これは何だろうと。 いつもイオンと休憩するときに食べ、そのうちアリエッタは甘いものが大好きになった。 ティアの用意したこの黒いお菓子は甘い。舌の上に甘味が残る。 そんなとき、このお茶を飲む。なんとも言えない苦味が良い。相性は抜群である。 羊羹を一口サイズに切り分けて食べる。そしてその甘味を感じつつ湯呑に口をつける。 苦味が先の甘味を打ち消して、さらに次の羊羹に手が伸びる。 黒胡麻を使っているらしい。茶色のも良いが、これは甘味がしつこくない。これはこれで美味しい。 一つ頷いて楊枝を置き、湯呑を両手で持つ。息を吹きかけて、飲む。ちょっと熱いぐらいが最高である。 アリエッタは喉元をすぎる熱さをやり過ごし、ほっと一息ついた。 その様子をティアは微笑ましそうに見ていた。 アリエッタの好む食事は意外と渋い。緑茶もそうだが、せんべいも気に入っている。固い食感が気に入ったようだった。 ティアの部屋にはアリエッタ用の食べ物がある。それはマルクトから取り寄せたものである。 ユリアシティの食事は補給の問題もあって、レパートリーは少なく単調だった。 それでもティアが我慢できたのは、ユリアシティがホドと縁が深かったからだろう。 ミソや昆布も存在しており、ライスはもちろん、うどんもそばもある。保存食としての側面もあるそれらは、ユリアシティでも食べられた。 新年を迎えるときなどはお餅やお吸い物が食卓に並ぶ。テオドーロが言うには、ホドが落ちる前はもっと簡単に手に入ったそうだ。 いまでは技を受け継いでいる者が少なく、高値で売り買いされるようになったらしい。コンブやミソ、トウフは高級食材である。 ティアたちが食べている羊羹も、伝手がなければ手に入らない。 実は地下の部屋の中に昔のレシピがあった。それを発見した歴史学者は喜び勇んで研究し、終には白衣を脱ぎ棄てエプロンを身に付け料理人に転職。 もちろん引き留めようとしたが、彼は娘を魔界に残してまで修行に出ると主張した。彼の名はリョウ・リニン・ワンダー。 絶対に一流のシェフになるとティアは確信し、そして説得することを諦めた。代わりにケセドニアのマリーの宿を紹介して見送った。 それを切っ掛けにして、日持ちするものをときどき届けてくれるようになったのである。いまはケテルブルクのホテルで料理の腕を磨いているそうだ。 彼もこんなに美味しそうに食べられたら本望だろう。「アリエッタは緑茶が気に入ったみたいね」「……苦い感じが、好き…」 アリエッタは率直に答える。お世辞などを言わない彼女の言葉はいつも真っ直ぐである。 その空になっていた湯呑に、ティアはおかわりを注いだ。「そういえば、師団の方はどうなの? 書類とかは?」「………皆、お友達に話しかけてくれるの…」 アリエッタは少し困惑した顔をしてティアの問いに答える。今までなかったことにアリエッタは少し戸惑いがあったようだ。 それでもその口調は嬉しそうにティアの耳には聞こえた。「……細かいことはピーチが…」「ああ、副官の彼女ね。…良かったわ。少し心配してたのよ」 悪い噂を聞かなかったから大丈夫だとは思っていたが、やはり本人の口から聞いた方がいい。第三師団の師団長は名実共にアリエッタで、纏まっているようだ。 そう安心すると、今度は師団長がこんなところにいて良いのかとティアは不安になってきた。「団長職が忙しかったら、無理して此処に来なくてもいいんだからね?」「アリエッタは止めないもん」 アリエッタはティアの研究室に定期的に通うことを止めるつもりはなかった。それもティアのためである。 ティアは体調管理がまるでなってない。実験に懸かりっきりになると私室に帰らず、ソファで寝ている。 食事だって碌なものを食べていない。朝だけはしっかり食べるようだが、昼は試作品の携帯糧食、夜は食べないときもあるそうだ。 ティアが研究室で倒れたと聞いても、アリエッタはやっぱりと納得するだろう。 そんなことにならないように、年上のお姉さんとしてアリエッタはティアを見張っている。 こうしてアリエッタが訪ねるとティアは休憩を取って軽く何かを口にする。 この点だけはシンクと意見があった。彼とはまだ顔を合わせづらいが、彼女の体調のためなら仕方が無い。 副官を通して連絡を取り合い、しっかりとチェックしている。 まずは、この黒胡麻羊羹をティアにも食べさせよう。そうアリエッタは意気込み楊枝を手に取った。 二人が談笑しながら、お菓子を食べさせ合う姿は姉妹のようである。どちらが姉でどちらが妹なのか。それは意見が分かれるところであった。 第五師団に所属してから半年以上の時が過ぎた。 その間に研究室の中はどんどん物が増え、本棚の整理をしなければならなくなってしまった。 本はいつの間にか増えて、床から塔のように積まれている。逆に本棚はところどころ隙間があった。 高いところの本を取って、そしてまた戻すのは非効率的ではないか。どうせまた読むのだから手元にあった方がいいに決まっている。 そうティアが言ったら、部下その1に微笑ましそうに見下ろされた。長身の彼は余裕で一番上の段に手が届く。 ティアはむくれながらも下の段の本を調べることにした。そしてその場にいたシンクも巻き込む。 文句を言いながらもシンクは適当な本を手に取った。タイトルを目にして思わず声をあげる。「この本、禁書じゃないか! こんなものどっから拾ってきたのさ」「えっ? ああ、こっちに引っ越してきたときに混ざってしまったんでしょうね」 持っていただけで大事になる禁書に対して落ち着き払っているティアにシンクは呆れた。 ティアは積み上がっている本の背表紙を読み上げながら何かを探している。「ダアトのお膝元で禁書を普通に本棚に並べている奴なんて君ぐらいだよ。…魔界の人間っていうのは皆どっか壊れてるんじゃないか」「2000年も引きこもってるから外から見れば異質でしょうね。でも、住みやすいところよ」 無機質な壁も、密閉された空間も、ティアには懐かしいものである。自動で開閉する扉などの創世暦時代の名残があり、それは風呂やトイレまで反映されていた。 衛生状態に関しては、神経質といっていいほど気を使っている。そういった点をティアは住みやすいと感じた。少なくとも外殻よりは馴染み深いだろう。 そしてユリアシティは学問にも最適な場所である。ファリアは本を手にとっては、嬉しい悲鳴を上げていた。 2000年間、戦争もなく蔵書はダアトの図書館にも劣らない。娯楽が少ないということもあるのだろう。教団の禁書もしれっと本棚に並んでいる。 魔界は外殻大地では存在しないとされているのだから、その本も存在しないらしい。思わずティアは納得しかけてしまった。 ユリアシティとダアトの間には、ちょっとした温度差がある。 ダアトをユリアの預言に詠まれた繁栄を導く者たちの集団だとすれば、ユリアシティはユリアの遺志を守る者たちの集団だ。 重視する点が微妙にずれている。それが禁書の扱い方のように現れてしまう。教団が預言を冒涜するものだと言っても関係ない。 魔界では科学者であるユリアも尊重するので、科学的発見は新しい進歩と考えられている。 そもそもローレライ教団は、ユリアを一度裏切って処刑目前まで追い込んだ人間が設立したところだ。 そして外殻にある分イスパニア国やフランク国などの大国の影響も十分に受けている。その信条に違いが出てしまうのも、歴史からみれば必然だろう。 教団がアラミス涌水洞のあるパダミア大陸にあるのも、偶然でしかない。むしろそれを期に両者の仲が深まり、現在のような関係が構築されたと言える。「あんたみたいなのが育つ街だ。まともじゃないだろうさ」「それはどういう意味かしら、シンク」「そのままの意味さ。あんた自覚なかったの?」 シンクの身も蓋もない言い草に反論したいものの、まともじゃない記憶のあるティアは言葉に詰まってしまった。 黙ってしまったティアを面白そうにシンクは眺める。「へえ、自覚はあったんだ。それにしてはあんた無防備だよね」「えっ?」「まったく呑気だね。先が思いやられるよ」 シンクは中途半端なティアにため息をついた。禁書をさらっと置いている辺りを無防備だと言っているのである。 そうでなくてもユリアの子孫で、あのヴァンの妹という重要人物なのに。これをフォローするのも師団長の仕事なんだろうかと少し頭が痛くなった。 ティアのことであのピンクとも連絡を取る羽目になっている。オリジナルのお気に入りとなんて仲良くしたくないが、仕方が無い。 面倒だがそれでも交流を止めようとシンクは思わなかった。ティアがいれば無彩色な日々が鮮やかなものになる。 避けて通れない騒動もスパイスの一つだ。当分暇には成らなさそうだと、シンクは影でほくそ笑んだ。 もっともティアにとってはシンクが平穏な日常を破る人間なのだから、どっちもどっちである。 ティアの元を訪れるのはシンクとアリエッタだが、一番ティアと一緒にいる時間が長いのは部下たちだろう。 まだ12歳のティアが室長という立場になったのは、様々な人間の思惑が絡み合ってのことである。 ヴァンは下手な上司の下に付けたくないと思い、ディストはアウル博士以外と助手を共有するつもりはなかった。 それにユリアの子孫を手放したくない上層部が乗っかり、ティアは室長のポストに収まったのである。 ティアには部下が3人いる。12歳の下に就いても文句も言わない。それも彼らが他に居場所が無いからである。 技手の絶対数が少ないため他の師団から引っ張ってきたが、全員わけ有り物件ばかり。有り体にいえば追い出された者たちの集まりである。 部下その1は柴犬。茶髪ののっぽさん。とにかく素直で真面目で明るい。だがどこか抜けている。悪気がない分性質が悪い。 部下その2はチワワ。女顔のふわふわの金髪。大きな瞳。シンクのような人間をからかうのが大好き。口は禍の元である。 部下その3はドーベルマン。黒髪で痩せ形。それに寡黙で研究中毒。よれよれの白衣でいつも暗雲を漂わせている。 少々問題があるのだが、成果を出しているので隔離という措置が取られた。ティアは、ディストよりもマシであると考えている。 せっかく室長になったのでティアは前から温めていた研究を進めた。結構ティアの研究室は騒がしく忙しい。ティアがこき使っているからである。「もぅ~、なんでこんな実験を僕がしなくちゃいけないの!?」「必要としている人が居るからじゃないかな?」「……室長…」「ええー! 室長ぉ、これ室長のせいなんですかぁ~?」 その3のつぶやきを聞きとって、その2がきゃんきゃんと吠える。 ティアは聞く耳を持たない。いま研究しているのは栄養剤である。栄養ドリンクはティアが完成させた。これもできておかしくない。 できれば保湿クリームとか美肌パックとかを優先したいところを、万人が必要としそうな栄養剤に妥協しているのである。 このオールドラントでは第七音素の汎用性が高すぎて、この手の商品はグミ程度でお茶を濁している。 美容や健康に金をかける余裕があるのは貴族と一握りの金持ちに限られている。そしてそういった連中は、ことごとくお抱えの第七音素譜術師がいる。 第七音素の癒しで手間暇いらずである。その気持ちはティアにも良くわかる。 だがこの手の商品は貴族を相手にしないと売れないのである。売れないということは作られないという意味であり、いつまでもこの分野の開発が進まない。 あの地球にいたころの肌の感触を取り戻したい。まだ若いがいずれ年を取ってしまうのだ。そうでなくても此処は一段とレムに近いのである。紫外線が心配だ。 譜術での治癒では補えないものがある。それは年上の肌を見れば一発で分かる。 シミ、ソバカス、シワ! 強敵である。 なら、私が研究するしかないじゃないか。ティアは外殻大地に来たときに決意した。 幸い、私には瘴気中和薬を作るときに得た薬草の知識がある。ディストのもとでは忙しかったから出来なかったが、此処では私が室長である。「なんとか言って下さいよぅ~」「えっと、室長が栄養剤をご利用になるんですか?」「…コホン。いずれ商品として売りに出すつもりよ」「はあー? こんなの売れるわけないじゃないですかぁ」「これはちょっと、人を選ぶんじゃないですかね」「……まずい…」 不評のようだが、ティアは気にしなかった。オベロン社にはもう話を通してある。今年中に栄養ドリンクが商品棚に並ぶ予定である。 商品名も既に決まっている。あれしかないだろう。 栄養剤が完成したら次は日焼け止めクリームを作りたいと思い、ティアは一層研究に没頭した。 惑星オールドラントは今日もそれなりに平和である。