「本日付で第五師団に配属されることになりました、師団付技手のティア謡長です。よろしくお願いします」「そう」 第五師団に配属が決定して第二師団を離れるまでの間に、ティアは響長から一階級昇進した。 ディストの部下たちがティアとのお別れを惜しんであちこちと引き回したのである。ディストもそれに便乗し騒ぎは大きくなるばかり。 そのせいでランクが上がり、分不相応な地位にティアはいたたまれなかった。 『白衣の天使』という自分には似つかわしくない呼称のことまで知ってしまい、ティアには散々な出来事だった。 共に任務をしているうちに、ディストと部下の間の仲が縮まったことだけは僥倖だったと言える。 第二師団の最大の懸念が解消できそうで、ティアは心残りもなく彼らに別れを告げた。 そしてティアは長らく袖を通していなかった軍服を身につけ、この第五師団の執務室を訪れていた。 しかし新しい上司であるシンクは一つ返事をしただけで、そのまま沈黙が続く。 仮面でその表情は分からないが、どう取り繕っても歓迎されている様子ではなかった。 シンとした雰囲気に耐え切れなくなり、ティアは用件だけを述べる。「着任早々ですが師団長の定期健診を行いたいと思います。 明日の夕方なら空いているそうですね。そのときにまた伺いますので。それでは失礼します」 言うべきことを伝えてティアはさっさと退出した。 本当はもっと友好的に接するつもりだったのに、どうしてこうなったんだろうと思わずティアは首をかしげる。(まあ、いいか) シンクが何を考えているのかはこの際どうでもいい。 それよりも問題なのはティアが定期健診をするということである。手元にある兄からの命令書を見る。 それにはディストが作製したシンクに関する資料も付いていた。 シンクがレプリカであることをティアに隠すつもりがないということである。 そもそも技手が定期健診という時点でおかしい。兄は私に何をさせたいのだろうか。 健診をするといってもたいして時間を取らない。レプリカであることを考えたら、ディストが行う方が自然な流れである。 作成段階で知りたい情報は取りつくしたとしても、レプリカの成長というデータには興味があるはずだ。 失敗作といってもそれは導師としての能力が無いというだけで、むしろイオンよりもシンクの方が体力面では優れている。 やはりこれはディストではなく兄が動いたんだろう。 身内だから? いや、そんなに甘い人じゃない。むしろ遠ざけられている。 その証拠にルークのオリジナルであるアッシュにはまだ会ったこともない。 ちらりと見かけることはあるがそれだけだ。 私が技手であるということもこの場合余り意味がないだろう。ユリアの子孫だからというのも関係ない。 いま妹である自分にレプリカの存在を明かす理由が分からない。ティアはじっと書類を見つめていた。 ティアの専門は第七音素と言ってもいい。レプリカ作成では役に立つ。 ルーティシア・アウルは書簡という形でディストに意見を求められたこともある。あとで正体がばれて話はうやむやになったが。 レプリカイオンを作る際に関与させる様子が見当たらなかったので、てっきりレプリカの存在は隠すつもりなのだとティアは思っていた。 しかし此処に来てシンクの健康診断をしろとは、どういうつもりなのだろうか。 人体レプリカを作って何をするつもりなのって質問すると仲間に勧誘されるとか? いや回りくどすぎる。仲間にするならもっと前に機会はあった。いまさらこれはない。 こんな非人道的なことするだなんてって嫌われたかったとか? だがティアも研究者の端くれ。薬を完成させるためには臨床実験も必要である。障気中和薬だからその有様はひどいものだった。 魔界の障気をラットに吸わせてその経過観察をする。興味深い個体は解剖する。しばらく肉が食べられなくなったが慣れた。 最終的には人でも試した。障気に侵された内臓は紫色をしていて、とても毒々しかったことを覚えている。 それとも、魔界でいろいろしていることに気づいて探りを入れようとしたとか? ありうる。辛抱強い兄が好みそうな手だ。 同じ秘密を共有することで仲間意識を高めてこちらが情報を漏らすのを待つ。 だが魔界出身で技手の人間は他にもいる。必ずしも自分である必要はないはずだ。 兄の考えがわからない。ポジティブに考えてみよう。 シンクがレプリカであると知っていることを隠さなくていいようになった。…微妙である。 ディストとレプリカの話ができるようになった。…以前から技術的な話はしている。 兄のレプリカ計画の末端に加わった。…なお悪い。(もういいわ。兄の狙いは不明よ) ティアはこの健康診断の真意について考えることを止めた。 兄が何を企んでいようとティアがすることは変わらない。 兄の計画をぶっ壊すことだ。 次の日、ティアはシンクの部屋の前に立っていた。 昨日のシンクの態度を考えると気が重い。深呼吸して部屋に入る。「失礼します。師団長、健診に参りました」「必要ないよ。僕の体調はディストが診ることになっている」「そのディスト響士から引き継ぎを受けています」 仮面で顔を隠していても不機嫌なのはその雰囲気でわかる。肘をついて空いた右手で本を読んだまま、ちらりともこちらを見ない。 私はただシンクの診察をして兄の命令を済ませたいだけなんだが。 シンクは引き継ぎを受けたと聞いたときにティアに向けて凄まじい闘気、いや殺気を全身から出した。 それにティアは怯みながらも此処で引きさがったら、ずっとシンクになめられるのだろうと考えた。 そうなると何が何でもシンクの検診は乗り越えなければならない関門に見えてくる。 ここで力で対抗するなんていう選択肢はない。私は肉体派ではない。そうなると、口で負かすという手段しかない。 ティアは気を落ちつかせてから、シンクに動かしようのない事実をまず突き付けた。「師団長はレプリカです。検診を受けなくてはなりません」「…ッ! だから何だっていうのさ!」 レプリカという単語にシンクは声を荒げ、その手に持っていた本を投げ出す。もっとクールに流されるかと思いきや、こう素直に反応されるとは意外である。 まずは少し揺さぶりをかけてみようとティアはジャブを仕掛けたつもりだった。 シンクはまだ生まれて半年ほどであり、知識はあっても経験が足りていなかった。冷静な判断も、いまはまだ片鱗を見せるだけである。 相手の言葉を受け流すということも、レプリカという彼の根幹にかかわる話題になると難しかった。 シンクは溜めこんでいたものを吐き出すかのように、ティアに話し掛ける。「検査だなんて、ただ実験がしたいだけだろう。人の形をしたモノなら何でもしていいって、モノに感情なんてないって思ってるんだろ?」 椅子からすっと立ち上がったシンクは一瞬のうちにティアの襟をつかみ壁に押し付けた。 ドンという音が二人きりの室内に響き渡り、ティアの抱えていた書類は床に落ちた。 ティアは抵抗もできないうちに背中を壁に打ち付けられ、そこから振動と共に痛みが全身を駆け巡る。 背中がじくじくと痛い。 首元も圧迫され、息が苦しい。 ティアは思わず眉をひそめ、そしてシンクを睨みつけようとする。顔をあげると仮面が目に入った。 鳥の嘴を模した悪趣味な仮面である。いったい誰が選んだのだろうか。「何? 実験体が抵抗して驚いたの?」 シンクは左手を離さないまま、壁に右手をつきティアの顔を下から覗き込むようにして言う。 仮面からちらりと見えたシンクの口元は嘲笑を浮かべていた。 ティアが自由な右手でシンクの左腕を掴み、気道を確保しようとすると少し力が緩められる。「なんか言ったらどう? 無様な研究員さん」 ティアはけほっとむせながらも、その隙を見逃さなかった。 白衣を掴んでいるシンクの手を支点に身体を入れ替える。足元でカランと何かが落ちた音がした。 シンクは一瞬のことに驚いていた。抵抗されるとは思わなかったのだろう。 そのままシンクの両腕を掴み抵抗を封じる。 両手をそれぞれ壁に繋ぎとめて、圧し掛かるようにしてシンクが動けないようにする。 荒治療は得意じゃないんだが。最近向いてないことばかりしているような気がして嫌になってくる。 そして自分とシンクの姿を想像して、誰も訪ねてこなければいいなといまさらなことをティアは心配した。 そのシンクの素顔を見て、彼の何も映っていない眼を見て、ティアは冷静さを失った。 何もかもを諦めている。それはそこに存在するだけの世界のバグのようだ。 その有様に以前の自分を重ねてしまい、そして無気力な彼に対して反発心が生まれる。 そんな生き方は認められない。無為に時の流れを甘受するなんてできない。 シンクのように私がただ流されていたら、兄は死ぬ。 未来は掴み取るものだ。運命は手繰り寄せるものだ。 決して諾々と呑み込むものじゃない。不都合な現実は打ち砕けばいい。 ティアは目の前の人形が不愉快だった。理性を感情が凌駕する。 だからティアは率直に彼に告げた。「シンク。あなたはレプリカよ。どう足掻いても人にはなれない。けれども、生きているわ。 ほら、あなたの腕は暖かい。あなたはちゃんと此処に存在している」 抵抗がないのをいいことにティアは言葉を重ねた。 シンクの目は虚空を彷徨っている。仮面がないせいか随分と幼く見えた。 そんな彼の手に指を絡め、耳元に顔を近づけティアはささやく。「生きているのならそれでいいじゃない。―――生きろ、シンク。 私のような人間を利用してでも、その心臓が動く限り諦めるな」 それはティアが自分自身に言い聞かせている言葉だった。 絶対に諦めない。兄と共に生きる。 何を利用してでも、それが兄自身の憎悪であっても利用してやる。 そのときティアは獰猛な獣のような嗤い声を出していた。 はっとシンクは気を取り直すとティアの腕を振り払い、壁から離れ窓際に寄る。 窓から差し込む夕日が無垢なシンクの横顔を照らし、その光の筋がやけに綺麗だとティアは思った。 距離を取ったシンクは信じられないというようにティアを見ていた。 ティアは襟元を直し白衣の皺を伸ばして、シンクの答えを待つ。「あんた、…いったいなんなのさ。僕に生きろだって?」「生きたくないのかしら?」 おかしなことを言ったかしらという様子でティアは問い返す。 自嘲気味にシンクは自分のことを説明する。「僕はレプリカだ」「そうね」「不安定な人形さ」「ふうん」「欠陥品の失敗作さ」「そうなの」 シンクの並べ立てる理由をティアはさらりと流す。 そんな些末なことがどうかしたの、とでもいうようなティアの様子にシンクは混乱する。「生きていられるわけないじゃないかっ」「なら、なぜ死なないの? できないわけじゃないでしょう。あなたが本当に死にたいと思っているなら実行できるはずよ」 ティアは空っぽと嘯くシンクの矛盾に牙を立て、抉り、傷を白日に晒す。 その手を緩めることもせず、さらにシンクを追い詰める。「あなたは此処で自分の居場所を手に入れた。自分の名前も手に入れた。何故? 死に逝く者には必要ないものだわ」 ティアの真っ当な疑問にシンクはすぐに答えられなかった。 雲がレムを隠し、部屋の中まで暗くなる。 そして部屋に光が戻るまで肌寒い沈黙は続き、ぽつりと漏れたシンクの呟きがその静寂を破った。「……くない。死にたくないさ! だけど、僕はレプリカなんだっ!」 それはシンクの心からの叫び声だった。 ティアはシンクの発言を聞いて身体の緊張を解く。「死にたくないなら、生きる努力をしなくちゃいけないわよね?」 にやりと笑い、これ見よがしに定期健診の命令書を拾い上げた。 シンクは肩で息をしながら、自分の言葉とティアの反応に驚いているようである。「今日はもう時間がないから、明日にしましょう。検査を受ける気があるなら研究室に来て頂戴」 部屋に一人シンクを残して、ティアは身をひるがえし退室した。 研究室に戻ったティアはソファに身を埋めながら、自分のしたことを顧みる。 そして後悔がどっと押し寄せてきた。 執務室を訪ねる前は、当たり障りなく接しようと決めていたのに自分は何を仕出かしたのだろう。 随分と大言壮語を口にした気がする。それに彼は上司なのだ。喧嘩を売ったも同然である。 これで明日シンクが研究室に来たらどうなるか。一瞬のうちに切り刻まれる自分が簡単に想像できた。 果たして明日シンクが来た方が良いのか悪いのか。 しばらくティアは悩んでいた。 シンクはティアが立ち去った後も光を浴びながら呆然としていた。 ティアは嵐のようだった。シンクの心に土足で入り込み、荒らして、踏み躙って、そして放り出した。 シンクはティアのことを以前から知っていた。 ヴァンと死神がときどき口にしていたから覚えていた。 ヴァン曰く、私の可愛い妹、天使のような妹、私の希望の光。 死神曰く、博士の弟子、将来有望な技手、私にふさわしい助手。 あのヴァンの妹なんて想像できなかったし、死神に気に入られてるオリジナルなんてろくな奴じゃない。 会ってもいないのにシンクの中の印象値はマイナスだった。 挨拶のときティアが予想と違い普通でシンクは驚いていた。 神託の盾騎士団によくいる女戦士か、奇声を発する生物を小さくしたような人間を想像していたからだ。 そしてシンクが仮面越しに観察している間にティアは部屋を出て行ってしまった。 再び現れた彼女の白衣は作られた場所のことを、忌々しい記憶をシンクに想起させた。 シリンダーの中でうっすらと目を開けるとその向こうには白い連中がいた。 満ちている液体のせいで音はくぐもって聞こえる。刷り込まれた知識がシンクにその意味を理解させた。「2番目の様子はどうかい?」「あれはもう駄目だよ。数日中に乖離するね」「そりゃ残念だ。一応記録しておくかね」「それよりも4番だ。欠損が見つかった。2番みたいに壊れる前に詳しく調べないと」「そうだねえ。博士に解剖の許可でも取ろうか」「そうしよう。3番は刷り込みに失敗してしまったし、どうする?」「導師がまた破棄したがるかもなあ。とっておくか」「しかし、こうも同じ顔が並ぶと気味が悪いよ」 それから数日後、シンクの目の前で4番は解剖された。 白い連中はそれに蟻のようにたかり、何か好物でも見つけたように笑顔を浮かべていた。 同じ存在がただのモノとして処理されていくのを、シンクは目を逸らすこともできずただ見ていた。 シンクがはじめて覚えた感情は嫌悪。そしてその次は諦めだった。 自分が失敗作だったら、あのように捨てられるのだろう。そして自分に抵抗できる術はない。 それ以前に自分が生きようと死のうと代わりが存在するのだから、意味はない。 ならばそのときまで、ただ自分は存在するだけだ。 それはシンクが火山から這い上がって、ヴァンに拾われてからも変わらなかった。 魔物を殺し、ならず者を殺し、出世して師団長に就任してからも微動だにしなかった。 シンクはオリジナルの代わりとして作られた。そしてその代わりも果たせない欠陥品である。 導師の条件の一つ、ダアト式譜術の素養がシンクにはなかった。刷り込みは成功したものの、そのせいでシンクは処分とされた。 一番目はイオンの手で壊され、 二番目はすぐに乖離した。 三番目は刷り込みに失敗し、 四番目は欠損が見つかった。 五番目は導師になれず、 六番目は髪と眼の色が違った。 そして、七番目がイオンになった。 そしてオリジナルの命で残りのレプリカは全て、教団の地下のザッレホ火山に捨てられた。シンクは何の因果か予定外に生き残っってしまった。 レプリカなのに、代役も果たせず生き長らえてしまった自分に価値などない。 ただの死に損ないの、死んでも音素に還るだけの模造品だ。こんなモノを希望と呼ぶだなんてヴァンも馬鹿げている。 目に映った白に反射的に嫌悪を覚え、初対面に近いティアを罵倒し力に訴えた。 そんな自分に対して彼女は生きろと言った。 何を馬鹿なことを。無理に決まってるじゃないか。 僕はレプリカなんだ。そんなことを白衣を纏ってるあんたに言われたくない。 けれども彼女の言葉はシンクの心を揺さぶる。 居場所。確かに僕は師団長になったけれども、これはヴァンが命じたからだ。 名前。ただ耳に残った音だったから、たいした意味もない記号だ。 自殺。いずれ消えるのだから、そんな面倒なこと遠慮する。 僕は模造品で、オリジナルの代わりにもなれない欠陥品なんだ。だからオリジナルの言うがままに危険な任務に対しても躊躇わなかった。 こんな自分がいる意味などないと思っていたから。いつ消えてもいいと思っていたから。 だけどあいつは生きる努力をしろと言った。僕の身の上を承知の上で、あんなことを口にするだなんて。 あいつは”シンク”を見ていた。不意に漏れた言葉が蘇る。 僕は、死にたくない。 この世に未練も執着もないと思っていたのに、随分と前になくなったはずの欲望が表層に現れる。 レプリカでも生きれるのだろうか。生を望んでも良いのだろうか。 一人だけでも僕に生きろと言うオリジナルがいるなら、生きるのも悪くないかもしれない。 開け放った窓から新しい風が吹き込んでくる。 そしてシンクの口からふっと笑いがこぼれた。 あのティアという女。何が小さな可愛い天使だ。あれはどう見ても世界を救う存在なんかじゃない。 まるで人の心を手玉にとって取引を持ちかける悪魔のようじゃないか。(まあ、僕には天使よりも悪魔がお似合いだろうさ) ひとしきり笑うとシンクは憑き物が落ちたような表情で、窓の向こうを見遣った。 世界が色鮮やかに見えた。 次の日、シンクはティアの研究室を訪れた。 上司であるシンクに対してティアは上辺を取り繕わなかった。開き直ったとも言う。 シンクとティアの強さは比べるまでもない。昨日、散々無礼を働いたのだ。いまさらである。 それでシンクに嫌われても構わない。 そしてシンクはそれに対して何も言わなかった。 この女に興味があった。それならば素の方が面白いに違いない。 それからシンクはティアの研究室をちょくちょく訪れるようになった。 日の光が射し込まない、薄暗い地下の一室。 シンクが技手の研究室に通っているという噂を耳にして、キィイイーーーという甲高い音を発した人物が一人いた。