ピピッとタイマーの音が鳴った。 ティアは手元の雑誌をどかして、火にかけている鍋を見る。綺麗に煮詰まっているようだ。 そのまま火を弱火にして一度かき混ぜてからまたタイマーをセットする。今度は30分である。 この雑誌をちょうど読み終えるころに透明になり完成するだろう。「慣れた手付きですね。それがあの薬になるわけですか」「あとは煮詰めるだけだからね。そんなにつきっきりでなくてもいい」「そんなことを言えるのは開発者であるあなたぐらいですよ」 確かにそうかもしれないが、そう安々と他の人間に作られてもティアは面白くない。 ファリアと一緒にティアはこの薬を作るためにかれこれ3年以上もの月日を費やしたのだから。「作り慣れたからね」「障気中和薬を作り慣れるとは、…魔界とは言いえて妙ですね」「確かにね。あそこは地獄のような雰囲気を醸し出している。 しかしそんなところでも故郷は故郷だ。ときにあの紫色の空と煌めく雷鳴を懐かしく思ってしまうよ」 ディストがいつの間にか淹れた紅茶に口をつける。 美味しい。マルクト産のすっきりとした後味が心を落ち着かせる。こういう小技が効くから憎めない。 ティアは心中で一人呟いた。そして話題となった故郷のことを少し思い出す。 急に黙り込んだティアに気をつかったのか、ディストはティアの読んでいた途中の雑誌を取りぱらぱらと流し読みをしていた。 いつもならさっさと自分の研究に没頭するはずなのに妙である。かまをかけてみようか。「ディスト。私に言うべきことがあるわよね」「な、なんのことでしょう。私は何も知りません。シンクにティアを取られそうだなんて、知らないんですからねっ!」「新しい第五師団に私が?」 沈黙を返すディストに、ティアはオリジナルイオンの死によって加速していく事態を感じとった。 ヴァン・グランツ謡将は今は亡き導師(フォンマスター) イオンの助力もあって若輩ながらも主席総長という大任に就いている。 先の導師エベノスが死亡し、幼いイオンが就任するという混乱が予想される情勢下で、神託の盾(オラクル) 騎士団が隙を見せるわけにはいかないと師団長も兼任していた。 しかしそれから時が過ぎ、導師の引き継ぎも滞りなく済みヴァンが師団長のままでいるわけにはいかなくなった。 第一師団をラルゴ、第二師団をディスト、第三師団をヴァン、そして第四師団をカンタビレが率いていた。各師団には約6000人いた。 師団長の中でラルゴとディストはヴァンに協力的だが、カンタビレはヴァンと距離を置いている。 空いた師団長のポストに敵対する人物が送り込まれたくなかったのだろう。 ヴァンは導師イオンの後ろ盾を活用し強引な手でそれを阻止した。 第三師団を四つに解体することにしたのだ。 第三師団約20名、師団長はアリエッタ。 第四師団約2000名、師団長はリグレット。総長付副官も兼任する。 第五師団約2000名、師団長はシンク。参報総長も兼任する。 第六師団約8000名、師団長はカンタビレ。 カンタビレは三つに割り振った残りを全部押し付けられている。 おそらくその中身は兄に反発する連中や、出世欲しかなく使えない奴等なんだろう。えげつないやり方だ。 そして今まで一つの師団で形になっていたものを無理やり分けようとしているのだ。 様々な齟齬が生じている。その影響をもろに受けるのが絶対数が少ない師団付の技手なのである。 ティアも技手の一人だが、もともと技手という人種は神託の盾騎士団に所属したがらない。 たいていはローレライ教団のお膝元で研究員として研究三昧の日々を過ごしたいからだ。 師団に所属している技手になるということは、軍属であるということでもある。 定期的に訓練を受けなければならないし、戦地に行く可能性もあるし、命令を拒否することもできない。 研究者は命令されるのが基本的に嫌いだし、運動も率先してする方ではない。 しかし騎士団側としてもクモの巣が生えていそうな地下で開発された、頭でっかちの発明品をよこされるのは遠慮したいもの。 その間を取り持つ役目を望まれているのが師団付技手だ。世の中には訓練を白衣で受けるような人間もいるにはいる。 その分、研究者の間での競争率は低く費用は工面しやすい。 なんだかんだいって技手が多いのはディストの下だ。やはり理解ある尊敬できる上司の下がいい。 ディストは師団長だが、根っからの研究者でもある。技手としてはこれ以上の職場はない。 第二師団の技手は教団の研究員に羨まれるということもあったぐらいだ。 そして第三師団の機能を二分割するに当たり、技手が足りなくなり一番多い第二師団から送り出すというのだろう。 第五師団の師団長はまだ12歳とされている。いくら戦闘に長けていても人生経験が浅い。曲者ぞろいの技手の中で私はまともな方だ。 自分ならば年が近く、第二師団に配属されていた期間も2年と短い。新しい師団に馴染むのも早いだろう。(これはもう確定だわ) ティアはその人選についての考察をして、その事情を把握した。 もとから技手の数が多かった第二師団である。覚悟はしていた。ディストの下は居心地がよかったがこれまでか。 この美味しい紅茶もこれから飲む機会が少なくなると思うと惜しくなる。 ちびりちびりといつも以上にゆっくりとティアはディストの淹れた紅茶を飲む。「ディスト。第五師団に行ってもここに顔を出していいかしら?」「えっ…。ええ、構いませんよ。あなたが来たいと言うなら好きにしなさいっ」 ふいっと後ろを向いてしまったが、その銀髪からちらりとのぞく耳は赤く染まっていた。 これだからディストをからかうのは止められない。いつまでたっても反応は初々しく素直である。 ディストが背を向けているのをいいことに、ティアはにやけた顔のまま温くなった紅茶を飲み乾した。 ディストはティアが去った後、空になったカップを片づけていた。 泡を水で洗い流す。布巾で拭いて棚に戻し、ふとこれからお茶を淹れることも少なくなるのだろうかと寂しく感じた。 いつも私の助手と連呼しているが、ティアは本当にディストが認める優秀な助手なのだ。他の技手が比べ物にならないぐらいの。 研究者という人種は自分の研究が一番である。 この教団に多くの研究員が所属するのも資金を潤沢に用意してくれるからだ。 ローレライ教団の教義に触れない限り、自由に研究できる。 ディストもその点では他の研究者と変わらない。 マルクト帝国から亡命した自分が満足できる研究場所はダアトしか思い浮かばなかった。 ディストは生粋の研究者である。 自分の作品に名前を付け、邪魔をされるのを嫌がって研究室は地下の奥まったところを選んだ。 そして穴倉組だとか、白衣組だとかひとくくりにされるほど揃いも揃って研究者は自分勝手で個人主義である。 けれどもティアは違った。 第二師団に配属されて彼女はディストの研究をすんなりと手伝う。 アウル博士の弟子であり、既に9歳のときに論文を発表しているという経歴とはとうてい結び付かなかった。 その筋で話題の突如現れた天才博士。 苦手な分野が無いとされる万能の人。 そんな人物の秘蔵の弟子。それがティアだ。 小さなころから譜業のことしか考えていなかった自分のように実験のことしか頭にない類の子供だと思っていた。 しかし実際に会うと、明日は3番のデータをとりますね、と自分から雑用をかってでる始末。 その余りにも堂に入った助手っぷりにディストは困惑した。 もしや自分の研究内容を盗もうとしているのかと危惧してみてもそんなそぶりは見せない。 部下に聞いてみると他の技手の研究も手伝っているようだった。 本人に研究はと訊いてみると、皆にはモニターになってもらっているんですと返ってくる。 そして良かったらどうぞと一枚のビスケットを手渡された。 『携帯糧食の改善』 ティアの研究内容である。より安くさらにおいしくがテーマ。 ディストは頭を抱えたくなった。 画期的な障気中和薬の発明者。 ディストも参考にしたことがある第七音素(セブンスフォニム) の研究者。 あのアウル博士に師事した小さな天才。 そんな彼女が着手しているのがまずいビスケットの味を良くすることだなんてふざけている。 ディストは状況が理解できずティアを呼び出し質問することにした。 何故他の技手の手伝いをしているのか。何故こんな研究をするのか。「私が最年少で新参者ですから、皆さんのお手伝いをするのは当然だと思います。 携帯糧食は士官学校の訓練のときに食べて美味しくないと思ったからです」 ディストにはティアの言う理屈が理解できなかった。 それはそうだろう。ティアは極めて日本人らしく常識的にふるまったのだ。 すなわち年長者を敬い、和を尊び、組織のために自分の出来ることをする。 魔界ではティアはフリーに近かった。 だから自由に目的のために学習し、訓練し、研究した。 だがいまは神託の盾騎士団に属している。 もちろん、兄を守ることが一番なのでその障害になるのならばティアは排除も躊躇わないだろう。 けれどもそれ以外のところでティアは迷惑になるようなことをするつもりはなかった。 それにいまは必要以上に目立つことは避けるに限る。助手であれば新しい研究を発表しなくてもいいだろう。 ティアは魔界のこともあり第二師団で時が来るまでひっそりと待つつもりだった。 ティアの思惑は前提から間違っていた。 神託の盾騎士団は実力主義である。それは技手にも当てはまる。 論文が雑誌に掲載されたり、画期的な発見をしている者の発言力は強い。 その点ティアはディストの次の次ぐらいの立場があった。助手に甘んじるなど考えられないことだったのだ。 技手たちには士官学校から新人が来ると聞いたときは下っ端をこき使えるな、程度の認識だった。 けれどもその慣れた手つきを見て経歴を聞き唖然とした。おおいに慌てふためき終にディストにまで相談したのである。 それを耳に入れて、ティアの様子を見てディストは唐突に理解した。 ティアはいま研究者ではないのだ。「あなたはどんな研究がしたいんですか?」「う~ん。一番作りたいものはもう出来ましたしね…。あっ、栄養ドリンクなんてどうでしょうか」 ティアは可愛らしく微笑んで上司を見上げてくる。 どうですかねえと返事をしながらディストは残念に思った。 優秀であるというのに本人にそれを活かすつもりがなければ宝の持ち腐れだ。 ティアはいま研究したいものが何もないのだろう。 障気中和薬。 彼女のデビューを飾った薬。 ティアはその為だけに勉強し、それを開発したからには研究するために必死になることはない。 誰かの手伝いを率先して受けるのも彼女にこだわりがないからだ。 障気と第七音素に関しては未だに注目をしているようだが。(そういえばティアは博士に対する人質として、此処に囲われていたんでしたっけ) 平然としているからディストは忘れていた。 アウル博士はこの研究者らしくない点を理解していたんだろう。 そうでなければダアトにせっつかれたからといって手放すはずがない。 そして同時にその兄、ヴァンの顔を思い浮かべる。 1年前、いつも偉そうな大事なスポンサーはティアが召喚されたとき柄になく焦っていた。 ヴァンがあそこまで動揺したのを今までディストは見たことがなかった。 そのときは結び付かなかったが、ヴァンの妹だと師団に押しつけられたとき理解した。 ちらりと横で数値を記録しているティアを見る。(シスコンのヴァンが悔しがる顔を見るのもいいかもしれません) ディストはティアを助手として率先的に使うことを決めた。 そして、思いのほかティアの手際がよく部下の技手共々骨抜きにされたのは予定外だった。 それだけティアのサポートは完璧だった。「助手は慣れていますからね」 笑顔でそう言ってスケジュール管理までこなす。 ディストの話についていけるだけの知識があり、嫌いな師団の雑務もしてくれる。階級を上げたのもそのせいだった。 そのうち敬語を付けずに話すようになり、議論を交わすこともしばしば。 まさにディストのためにあつらえたような助手だった。 手放そうなどと考えたこともなかった。 それなのに、である。ヴァンが命令だとティアを新しい師団付技手に指名してきた。 もしもあそこでティアが渋ったらディストは全力で抵抗するつもりだった。だがティアはすぐに了承してしまった。 肩すかしをくらった気分だったがディストは不機嫌ではなかった。 ティアが大人しく此処にいるのはアウル博士の弟子だからであり、また兄が傍にいるからだろう。 それ以外にティアを動かすことができるものはない。 それをディストは2年かけて理解した。 そんなティアが自分から此処に来たいと言った。それで十分である。 ティアならシンクの師団でも自分のペースでやっていけるはずだ。 切れかかっていた紅茶の茶葉を補充しなければいけないな、とディストは考えた。