ティアは神託の盾(オラクル)騎士団第二師団付技手の響長である。 神託の盾騎士団とはダアト、ローレライ教団の保有する軍事組織のことだ。 騎士と称してはいるが、貴族の二男や三男が騎士道精神に基づいて姫君をお守りする訳ではない。 団員の大半は平民出身であり、むしろ泥臭いと言っていいだろう。神託の盾騎士団は徹底的な実力主義の世界である。 ダアトはパダミア大陸を領有しているが、世界の大部分はキムラスカ・ランバルディア王国とマルクト帝国によって二分されている。 昔のように国を失って宗教自治区であるダアトに腕一本で縋る者はいない。 自前で軍事力を育てなければならなくなってから、両国に比べて圧倒的に人口が少ないダアトが選べる選択肢は一つしかなかった。 すなわち、一人一人の兵の質を高めること。 結果として生来の身分にとらわれない、平民でも強ければ団長に成り上がることができるシステムが完成した。 腕に自信のある平民はこぞって海を渡り、ダアトにやってくる。今ではダアトの師団長の二つ名が世界に遍く認知されるほどである。 強ければ、その出身も性別も年齢も問わない。それ故に強ければ、子供であっても階級は上がり隊を率いる立場になる。 そういった子供は、たいていなにかしら強くならなければならない理由を持っている。 アリエッタはフェレス島でライガによって育てられた。 野生の中で人を知らずに5歳まで過ごした彼女は、導師守護役という大任を任されていた。 シンクは人の手によって作られたレプリカだ。 オリジナルに強くなれと命じられた彼は、近々第五師団の師団長になる予定である。 アッシュはヴァンによって誘拐され帰るところがない。 公爵子息だった彼は、特務師団長として神託の盾騎士団に所属するしか道が無い。 ティアの生まれはユリアシティという街をドームが覆っている、魔物や盗賊とは縁も所縁もないところである。 両親は既に亡くなっているが、その代わりに優しい兄と祖父に恵まれている。 兄はオラクルの主席総長を、祖父はローレライ教団の詠師とユリアシティの市長を務めており金に不自由しているわけでもない。 彼女が護身以上の力を必要とする要素は何処にもない。ましてや軍属になる必要などないように見える。 だが、確かにティアは神託の盾騎士団に所属している。そうでなければならない理由を彼女は隠し持っていた。 今まで誰にも話したことがない秘密。これからも口にすることのない物語。 此処が地獄で、深淵には怪物が潜んでいることを知っていながら、彼女は口を噤む。 じっと貝のように口を閉ざし、沈黙を守っている。 ティアは前世の記憶を持っていた。彼女の前世はただの普通の人だった。 大学を卒業して会社に入社、今日も残業だと愚痴りながら漫然と日々を過ごしていた。 珍しく定時に帰宅した日。目を瞑って開くと、赤ちゃんに大変身というわけである。 あまりにも突然のことでその日は呆然としながら、人形のようにされるがままになっていた。 次の日も目が覚めてそのままだったので、これは夢だと自分に言い聞かせつつ、赤ちゃんごっこは自分の願望だったりするのだろうかと悩んだ。 その次の日も相変わらず自分は小さいままだったので、開き直ってだらけきった生活を満喫しようと決めた。 食べて、寝て、起きてのサイクルを繰り返し、学生以来こんなに不健全な毎日を送ってなかったなあと気楽に考えていた。 そんなこんなで一週間。 そろそろ夢が覚めて欲しいと危機感を持ち始めて3日。 異常事態が通常なのだと改めて、諦めの境地に至るまで3日。 短いと思うか長いと思うかは意見が分かれるだろう。 未練たらたらだし、やりのこしたことなんて数え上げれば切りがないが、どうしようもないではないか。 過去の自分は原因不明だが死んだのだと思い切り、さて、ここで生活していくにはと昼寝をしながら人生設計を立てる。 彼女がそう考えるのも保身のためである。どう考えても自分は普通の赤ん坊ではない。 頭脳は大人、身体は赤ちゃん。名探偵よりも状況は悪い。子供のふりして暗躍する彼は、現実にいたら気味が悪いだろう。 このまま成長したら待っているのは排斥か拒絶か、どちらにしても碌な未来ではない。 なるべく普通の赤ちゃんを目指し、せいぜいちょっと頭がいいかなとか好奇心旺盛だなと思われるくらいに控えよう。 そうして要領よく子供時代を過ごし、早く自立しよう。 目指すは、二十歳過ぎればただの人だ。 その彼女の目標は果たされることはなかった。「ティア、あなたのことがこの雑誌で取り上げられていましたよ。さすが12歳にして私の助手を務めるだけはありますね! そうだ! ティア。この天才ディスト様の助手ならば、それにふさわしい二つ名が必要です。私が薔薇ですから、……百合はどうでしょうか?」 ディストは大げさに腕を広げ自分の意見を声高に主張していた。その姿は特徴的である。 細身のディストに黒は似合うが、そのスーツの差し色は紫。その上に白衣をはおっている。 一つ一つの質は良いのだが、しかし組み合わせによって全てが台無しになっていた。それが自分に似合っていると思っているのだから救いようがない。 この黒に紫や赤といった色が大好きな師団長が目下、ティアの上司である。 この変態、もとい師団の仕事をしたがらない研究オタクのせいでティアは響長に昇格する羽目になった。 士官学校を卒業した者は、他の者が一兵卒から始めて行くのを尻目に入団一年目から奏長である。 そしてそれからはそれぞれの強さに応じた速さで階段を昇っていくのだが、ティアは一段目を昇る気はさらさら無かった。 昇ろうと思っても治癒師に分類されるティアなら根気よく任務を受け、10年計画を立てて挑まなければならない。 そこまでして神託の盾騎士団で上に昇っても、得るものは無いと判断していた。 ティアはとある事情により入団する必要があっただけで、そのときはまだ若いからと士官学校に放り込まれた。 そして、放りこんだ側は入れておきながらも怪我されたら困るからと技手志望として扱われ、戦闘技術は雀の涙である。 そんなティアが響長に出世したのは奇跡に近い。これも第二師団のディストの部下たちが努力したせいである。 士官学校を卒業してすぐに配属された第二師団の師団長は、研究に勤しみ仕事を放棄していた。 生来の研究者であるディストは地下の研究室に籠り日夜奇声を発しており、部下はどうしても師団長でなければならない仕事以外ではその研究室に近寄らなかった。 そんな部屋に出入りする人間はヴァンやラルゴといった同じ団長格か、彼と同類である研究者の技手ぐらいしかいなかった。 そして、技手であるティアがその研究室に出入りするのは当然のことである。 ティアはディストを知識として知っていたので、その奇声も格好もそういった人間だからの一言で片づけていた。 それよりも彼女はこの天才に用があった。どんなに変でも天才は天才。 第七音素(セブンスフォニム)を専門とするティアにとって、レプリカ研究の第一人者であるディストとの会話は楽しいものだった。 ティアが師団長と部下の間の橋渡し役として選ばれたのは、偏に彼女が技手の中で一番常識的に見えたからである。 ディストの部下たちは魔窟に平然と出入りしている人間の中で、まともそうな彼女に外聞も気にせず泣きついた。 突然呼び止められ始まった男泣きに絆され、一度ティアが仏心を見せたのが悪かったのだろう。 あれよあれよと言う間に彼女は任務に連れて行かれ、本人が意図せぬうちに響長になってしまった。それも書類を扱うことができるようになるために。 全ては師団長だというのに仕事をしたがらない、このディストのせいである。 私は技手だというのに、何故昇進しているのだろう。ティアは現状に理不尽を覚えた。 神託の盾騎士団は実力主義である。 だからこそ昇進することはその力が認められることで決して嫌がるものではない。 ティアが昇進を苦々しく思っているのは目立ちたくないためであった。 技手は騎士団に所属してはいるものの、たいてい無官のままだ。その中でティアの響長という位階は異質を放っていた。 ただでさえその12という年齢で注目を集めていたのに、こうなってはティアの平穏な生活は画餅である。 確かにティアの目的の一つにこの譜業の天才、ディストに接触するというものがあった。だが、このような事態は予想していなかった。 時が来るまで第二師団で技手としてお茶を濁すつもりだったが、助手として祭り上げられることで無駄に目を引いてしまっている。 しかし、同時に助手となったおかげで予想以上の成果を得ているという事実もあり、やや複雑な気分だ。 そして、なんだかんだ言ってディスト博士の助手であることが嬉しいとも思っているので、何処となく悔しい。 だから、ついついティアはこの天才ディスト様を弄ってしまう。「ディストは死神でしょう。死神の助手となると魔女かしら? 魔女のティア。却下よ」「キイィイイーーッ! 私は死神なんかじゃありませんっ。私はバ・ラ。美しい薔薇のディストです!」「ふーん、薔薇ねえ。知ってる? 青いバラは不可能を意味するの。マルクト産のディストにお似合いね」「な、なぁんですってぇーー! ……ッ! ティア。もしかして薔薇が似合う私が羨ましいんですか」 そうですかというようにディストは一人頷き何かに納得している。 こんな掛け合いもティアとディストの間では日常茶飯事になった。日に日に彼女はこの死神の扱いに慣れていく。 何度同じような目に遭っても彼がめげないので、最近ティアは無視することも覚えてきた。 こんな幼馴染がいたらつい、譜術の的にしてしまうのも分かる。幼いころ付き纏われていたジェイドの気分が今のティアには理解できた。 ディストが投げ出した雑誌を手にとってめくりながら、ティアはいちいち挙動が大げさなディストを片手間に茶化す。 『第七音素と障気の関連性 ルーティシア・アウル』 見開きの右側に概要が、左側に偉そうな肩書を持っている男性のコメントが書かれていた。 ルーティシア・アウルとはティアの名前の一つである。5年前から研究者としては専らこの名前を利用している。 障気中和薬を開発した以外に目立った活躍はしていないが、12という年齢が無駄に期待を集めてしまうのだろう。いまでは師匠共々一目置かれる存在になりつつある。 雑誌の人物紹介欄に並べてある美辞麗句を眺めながらティアは一つため息をついた。 ティアは転生したという事実を受け入れてからも極々普通の子供として振る舞い、そのまま大人になるつもりだった。 下手に目立って天才と持て囃されても困るし、気味が悪いと捨てられでもしたら大変である。 前世よりも少しは良い大学に入って、結婚して、今度は孫に囲まれながら大往生しようと決めていた。 大学なんて存在しないと気づかされたのはいつだったか。 新しい世界にはティアの常識は通用しなかった。まさしく彼女は経験値0の赤ん坊だったわけである。 ただ、前世の知識、記憶というものがあった。それは利点であり欠点でもある。 まっさらな状態であれば、その世界を当然のものとして受け入れれば良い。だが、中身が成人女性のティアには難しかった。 赤ん坊の身でもちょっと見て回れば、すぐに異常がわかる。 空の色は紫色で、ほとばしる静電気が空の上の大地を照らす。 ティアの住んでいた街は透明のガラスのようなものでドーム状に覆われていた。 緑もなく、太陽の光も差し込まない暗闇の世界。 何もかもがおかしかった。 紫色の空と泥の海、隔離された街。 ティアは綱渡りをしているような毎日を過ごしていた。 前の自分は死んだのだと、今の自分はティアであると言い聞かせて何とか自分を納得させようとした。 しかし、理解していても感情が追いつかない。世の中自分の思う通りに行かないことの方が多い。所変われば品も変わる。当たり前のことだ。 だが、予備知識もなく放り出された場所は想像を超えていた。畳み掛ける非常識にティアはめげそうになっていた。 常識というのは特定の集団の中でしか通用しないものだが、世界規模で仲間はずれというのは気が狂いそうであった。 境界線をわざとぼやかして、理解できないことを知らないこととしてごまかして、――苦しかった。 そんな瀬戸際にいたティアを救ってくれたのが兄だった。たった一人の家族。 両親は既に亡くなっている。兄もまだ子供だというのに一人で妹の面倒を見ていた。 四六時中泣きじゃくるティアを、兄は不満も言わずにあやして抱きしめ、腕の中の赤子のために子守唄を歌う。 澄み切ったその声は声変わり前にしか出ない、綺麗な空に溶けそうなボーイソプラノだった。 トントンと背中を叩くその手と、耳から聞こえる心臓のトクトクという音が。何よりその腕の暖かさがティアに居場所を与えた。 そうして兄の歌を聴きながら眠りにつくのが習慣になった頃には、ティアはこの兄のことが大好きになっていた。 いや、好きという言葉ではくくれない。いわば、彼は彼女の世界の中心だった。非常識な世界と彼女を結び付ける唯一の絆だった。 大好きな兄が笑ってくれるのならティアは何でもできた。 「なまえがかけたよっ」と兄に駆け寄って、「おはながさいていたの」と白い花を差し出して、「おにいちゃん」と舌足らずな口調で話しかける。 一所懸命、兄に可愛い妹だと思われるように彼女は普通の子供らしく振る舞った。 彼女は何よりも兄が一番だった。おそらく自分自身よりも。 自己防衛の一種だと言われても仕方ない過去だが、それでも私は兄が好きだったのだ。今でも大好きだ。 思えば、このとき私は既に気づいていたのである。手元にはそれを指し示すカードが十分に揃っていたのに、何も知らない無邪気な子供のままでいた。 ずっと嘘を付き続けた。仮初の世界で、仮面を被り続けていた。このままでいいと、騙されていたいと、私は目を瞑っていた。 そうして迎えた3歳の誕生日。 全てを欺いてきたつけを私は支払わされたのである。