こんな感覚は、前にもあった。
『無論。我が槍をあなたに託しましょう』
見知らぬ情景、言った憶えのない言葉、聞いたはずのない囁き。
『我らが命を預けるに足ると思えるような、心も体も捧げられると思えるような人物になっていただくのが、何より一番かと』
自分が自分で無くなっていく。自分の中に知らない自分が入り込んで来る。
『ほら。早く口をお開けなさい。私の理性が保てているうちに!』
そんな時、決まって漠然とした不安と困惑に包まれている自分に気付く。
『それに、私が見込んだ相手でもなければ抱いたりするはずがないでしょう。胸を張るところです』
だが………今は違う。
『迷うようならお前の前に立ったりしないよ。星』
『別に星との取引のためにやったわけじゃないよ。俺がやりたいからやっただけなんだし』
『あの時と同じさ。星が俺の事を褒めてくれた意味は解るようになったけど、やっぱり俺が褒められるべき所じゃない』
気にしている場合ではないというももちろんある。……だが、この異常な状況がそうさせるのか、限界など忘れてしまったかのように力が湧く。魂が騒ぎ奮い立つ。
疑問が消えたわけではない。自分自身に対する言い知れぬ恐怖もある。だが……それもいいだろう。
『……さあね。前世で星が、俺にそういう話し方してたのかも』
それが力に変わるなら、それで一刀を救えるなら、魔に魂を売って修羅にもなろう。
「死地に在って夢幻に酔う、か。我ながら酔狂に過ぎるな」
―――必ず守る。……“今度こそ”。
「ぐ……うっ……」
「秋蘭さま!」
その比類なき忠誠と使命感から来る気力だけで立っていた秋蘭が、ついに力尽きて膝を着く。
ようやく追い付き彼女を支えた流琉は、慌ててその脇腹の傷を押さえた。しかし流れ出る血が止まらない。腕や足ならまだ止血もしやすかったのだろうが、脇腹では手で押さえる程度の事しか出来ない。
「秋蘭さま、早く馬に乗って下さい! これ以上は命に関わります!」
自分を慕って肩を貸してくれる流琉の姿は、今の秋蘭には見えていなかった。
「(どこ、に………)」
命を賭して放った一矢。彼女の執念そのものと言える一撃が何を残したのか、それだけに関心が向いている。
「馬鹿な………」
探して、見つけて、そして驚愕する。
秋蘭が射倒した一刀を抱き締め、四白の足を持つ名馬を駆り、趙子龍は再び駆け出していた。
「(あれは、本当に人間か……? いつになったら底が見える……?)」
大の男一人を抱えて、どうして戦う事が出来るというのか。否、常人でなくとも逃げる事すら叶わないだろう。
秋蘭は自らの使命が達成されたと確信していた。―――しかし星は止まらない。
死に瀕した一刀を片腕に抱きながら、その絶技は陰るどころかさらに苛烈に、流麗に研ぎ澄まされていく。
誰も止められない。仕留めるどころか追い回す事も、食い止める事すら叶わない。蒼き影は無人の野を駆けるが如く血の雨を降らせて走り去って行った。
「華琳、さま………」
「死んじゃ嫌です! 秋蘭さまぁ!!」
謝罪か、懺悔か、無念か、忠言か、敬愛する主君の真名を言い残して………秋蘭の意識は無明の深淵へと墜ちていった。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
脇目も振らずひたすら西へ、星は馬を走らせ続ける。その剣舞は欠片ほどの衰えも見せず、やはり止められる者はいない。
「ちぃ……!」
持久力の配分などまるで考えていない。否、考えられない。こうしている間にも一刀が死に近づいているかも知れない、その事実が焦燥を燃やす。
槍を失った事が却って幸いしたのかも知れない。一刀を抱えて片手で扱うのは『青紅の剣』の方が取り回し易い。
槍よりも間合い近い分防御に長け、連撃の回転も疾くなる。何より迫る凶刃を容易く断ち斬る切れ味がある。
だが―――――
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
いくら精神が鍛え抜かれていようと、いくら気力が充実していようと、いくら想いが強かろうと………肉体の限界というものがある。
何百、何千の敵を屠って来ただろうか。既に日輪は遠く西方に深く沈み、世界を夕焼け色に染めていた。
ただでさえ先の戦いで手傷を負っていた上に、星はここまで数十万にも上る魏の大軍勢の中を単騎で駆け抜けて来たのだ。
人の想いも命もまるで意に介さない残酷な現実が、星と一刀を追い詰めていた。
「(体が重い……)」
蒼き剣舞はその精彩を欠く事はない。しかしそれは残り少ない力を無理矢理絞りだしているに過ぎない。
「(視界が霞む……)」
後先考えずに薪をくべ、猛火を燃やし続ける行為。激しく燃え上がるその炎は……薪が尽きればあっという間に消えて失せる。
「(開いた傷口が、痛む………)」
それでも――――
「っ……まだ……まだぁ……!!」
星は止まらない。汗だくになるほど火照った体とは対称的に冷たい、腕の中の大切な男。その存在が諦める事を許さない。
「我は無敵―――」
駆け抜ける。限界も無謀も関係ない。決して最期まで諦めない。
「我が槍は無双―――」
白刃の煌めきが、道阻む者を貫く蒼光の槍と化す。
「喰らえ、趙子龍の一撃を――――!!」
嵐のように激しく、そして流星のように儚い渾身の光が、敵兵を斬り刻んで吹き飛ばした。
「ッはああああああああ――――!!」
突き破り、薙ぎ払い、駆け抜ける。命の炎を燃やすような全身全霊の猛攻が―――遂に――――
「は…………」
光明を……斬り開いた。無謀としか思えない、無限とも思える奮戦の果てに……星はそこに辿り着いた。
黄昏を越えて夜を迎えようとしている薄暗い世界に、しかし、確かに……無人の荒野が広がっている。
「(やった……!)」
敵の包囲を完全に抜けた。たとえようもない安堵が、繋ぎ止めて来た全てが報われた喜びが、星の内心に喝采を呼び起こす。
「もう少しだ、頑張れ一刀……!」
完全に意識を失っている一刀の頬に触れて、その弱々しい吐息を確かめる。
生の喜びを噛み締めるにはまだ早い。その事実に裂かれるような切なさを湛えながら、星は一刀を強く抱き締めて前を見据える。
そして―――――
「あ…………」
絶望を見つけた。暗がりの向こうから、星たちの行く手を阻むように無数の影が馬蹄を響かせて走って来る。
「(これまで、か………)」
限界を越えた死線を潜り抜けて掴んだ希望。その直後に嘲笑うように立ちふさがった絶望。
抗う術なく折れてしまいそうになる心を………
『主……!』
「っ!?」
星の中に在る未知の想いが、支えた。
「(………諦めるものか)」
まだ指に力が入る。剣を握る事が出来る。息をしている。心臓の鼓動が止まっていない。
「この趙子龍の命在る限り、我が主に指一本とて触れられると思うな!!」
その咆哮と同時、目前まで迫っていた騎馬の群れが―――――割れた。
「…………な」
星を避けるように縦に割れた騎馬たちは、二人に見向きもせずに駆け抜けていく。
「これは、一体……」
高速で通り抜ける大軍に戸惑いを隠せない星は、過ぎゆく黒き群れの中に“それ”を見つけた。
黄昏の中でも僅かな光に輝く……白銀の『馬』一文字。天に掲げる錦の御旗。
「西涼の錦馬超、いざ………参るぜぇえーーー!!」
苦渋と喪失の道程を越えて、今……白銀の姫君が乱世へと槍を振りかざす。
時を僅か、遡る。
「(秋蘭さまが……!?)」
総大将が斬られたと無様に狼狽する兵たちの喧騒が、一騎討ちの最中の徐晃の耳に届いた。
無論、徐晃はそれで余所見をしたり、動揺を顔にだしたりはしないが……僅かに精彩を欠いた。
それを散は見逃さない。
「すきやき」
「ぐ……っ!?」
打ち合いの間隙を縫って、散の双鉄戟が徐晃の首目がけて突き出される。徐晃も明確な隙を生んだつもりなどなく、双鉄戟は徐晃に直撃こそしなかったが、月牙の一端がその肩を捉え、深々と刺さる。
たまらず落馬した徐晃を無視して、散は気だるげに馬首を返した。
「待て貴様、私はまだ戦えるぞ! 逃げるのか卑怯者!!」
「知らないのかな、と。女は歳取るとズルくなるんですよ? ……あたしは昔からこんなんですけどね」
これ以上徐晃の相手などしていたら逃げ道が無くなる。散は律儀に徐晃をおちょくってから颯爽と姿を消した。
「おのれ………」
ギリッ、と、徐晃の奥歯が軋む。
「この屈辱忘れんぞ……鳳令明!!」
大勢の前で恥をかかされた、主君より賜った使命を邪魔された、何より武人としてこれ以上ないほどコケにされた。
雪辱の炎を燃やしながら、徐晃は混乱した兵の鎮静へと向かう。
「キリキリ走りなさい、野郎共」
『らじゃー!!』
生き残った手勢を連れて敵地を走る散と―――
「真桜ちゃん頑張るの! もうちょっとで……」
深手を負った真桜を連れて軍医の許へ向かっていた沙和が…………
(バッタリ)
出会った。
「しゃる・うぃー・だんす。……でしたっけ?」
「イヤぁああ! またなんか来たのぉおーー!」
沙和一人でなら、無様に逃げ出す事はしなかったかも知れない。しかし沙和は既に深手を負っている真桜を救うために、味方の陣の中をがむしゃらに逃げ回った。
指揮官である将のその行動が全軍に不安を加速度的に広め、ただでさえ混乱を極めていた魏軍の統率は遂に崩れた。
――――この一刻後、恐慌状態の魏軍は錦馬超率いる西涼の騎馬隊の痛撃を受け、雪崩を打つように逃走を開始する事となる。