「うわあぁ! 何だこいつはぁ!?」
押し寄せる津波にも似た十何万という魏の大軍。その中を一つ、蒼い影が駆け抜ける。
「てんほーちゃん! 俺に力を!」
風のように疾く、その道を阻む者は煌めく真紅の閃光に誘われて瞬く間に屍へと変える。
「ビ、ビビるな! 相手は一人だ! 一斉に掛かれば………」
一人は一人だ。数で押し切れば犠牲の果ての勝利も得られた事だろう。だが、最初に掛かれば真っ先に死ぬと判っていて自ら飛び込める猛者は少ない。勇気を振り絞って前へ出た者もその圧倒的な強さと向かい合った瞬間に身を竦ませる。
「恐れる者は背を向けろ」
突き出される槍衾を、襲い来る刃の群れを、吹き荒れる矢の嵐を、彼女はまるで舞い踊る蝶のように鮮やかにいなす。
「恐れぬ者はかかって来い」
その槍は龍の顎。その刃は龍の爪牙。敵する者を抗う事すら許さずに噛み砕く無双の一撃。
「我が名は趙子龍! 一身是刃なり!!」
星雲纏いし蒼き昇龍が今、世に天に駆け昇る。
「(馬鹿な………)」
遠く、信じられない光景に秋蘭は眼を奪われていた。
「(……趙、子龍)」
黄巾の頃より、雑軍の将でありながらその用兵と武勇によって数多の賊徒を屠り世に名を馳せた、知勇兼ね備えた北郷一刀の右腕。
「(己がどれほど無謀な行いをしているか、自覚していないのか……!)」
どれほどの武を誇ろうと、個人の力量で大局は動かない。そんな事は誰でも知っている。
「(何がお前にそこまでさせる……)」
今の星は秋蘭にとって、慢心に溺れて犬死にに走った愚かな将と嘲笑すべき相手であるはずだった。
しかし――――
「(何と………)」
しかし――――
「(美しい……)」
その姿に、秋蘭は今の状況と互いの立場をも忘れ……感動すらしてしまっていた。
強さ、凄さ、熱さ、冷たさ、美しさ、危うさ、儚さ、怖さ、気高さ、切なさ、激しさ、それら全てであると同時に、そのどれでもない。
この姿を形容する言葉が見つからない。武人として、女として、羨望や嫉妬すら遥か越えて憧れすら抱いてしまう。
「(お前は………)」
そして、彼女の忠誠心は“だからこそ”の解に辿り着く。
「(ここで逃せば、いずれ必ず華琳さまに立ちふさがる壁になる……!)」
弓の弦が引き絞られる。その白羽から指が離れて………必殺の一矢が飛び――――
(キィン!)
まるで矢など見ていなかったはずの星の槍に弾かれた。
「――――――――」
紅の瞳が、琥珀の瞳を捉える。
「くっ、そ……!」
周りには既に味方は一人としていない。がむしゃらに逃げ回ってしまったため、元来た道を戻って散を探すという事も出来ない。
散を見捨てて逃げる、という選択肢は一刀にはない。しかしもう、散が逃げきれたのか手遅れなのかも判らない。たとえ散が窮地にあり、その場所に行けたとしても、自分が行く事で足を引っ張る事になる可能性の方が高い。
などの思考を頭の隅で巡らせながら、一刀は無我夢中に逃げ回っていた。
「どけぇ!!」
再び西を見失った、というわけではない。しかしもはや真っ直ぐに西を目指すという事自体が不可能だった。
息つく暇もなく襲ってくる死の脅威が迫る度に活路を模索し、そこに飛び込む。その繰り返し。
「大将首、もらっ……」
「邪魔だ!!」
騎馬に乗った部隊長らしき男の突き出す槍を捌き、すれ違い様に首を飛ばす。その事に動揺した周りの兵を馬で蹴散らして突破した。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
いくら逃げても、いくら斬っても、一向に状況が好転しない。いつまで経っても溢れんばかりの敵に呑まれそうな死地が続くばかりだ。
「っだああああ!!」
それでも足掻く。足掻き続ける。並み居る敵を斬りまくって駆ける一刀は…………
「はあっ……はあっ……あれ……」
いつの間にか、自分の周囲一帯に敵兵の姿が無い事に気付いた。包囲を突破したわけではない。
まだまだやや離れた所には魏軍が円を描くように一刀を取り囲んでいる。
―――そして、上を見上げて一刀は気付く。
「………げ」
山なりに、自分の周囲目がけて矢の雨が射ち上げられている事を。
「うおおぉおおぉーーーー!?」
泡を食って全力疾走で矢の範囲外から逃れようと一刀は駆け……辛うじて逃れるが――――
「っ……!」
風に流された矢の一本が鎧の背中に、一本が肩に突き刺さった。とはいえ、悠長に痛がっている余裕などない。
「ッはあああああ!!」
じわじわと広がる痛みに歯を食い縛って耐え、剣を片手に手近な兵を蹴散らさんと咆えた一刀………の――――
「っ―――――」
軍馬の足の一本が、斬り落とされた。馬上の一刀は何が起こったのかも判らぬままに投げ出され、地面に叩きつけられて何回転もしてからようやく止まった。
そして、直後―――
「御命頂戴、なのー!!」
「っ!?」
頭を割る軌道で降って来た刃を、一刀なりに死線を越えて来た事で培った勘が止めた。
倒れたまま上体だけを起こした不安定な体勢。顔を上げればそこには、眼鏡を掛けて後頭で髪を三つ編みにしたソバカスの少女。その手には鋭利な双剣が握られている。
「(女の、子……!?)」
前の外史からの一刀の直感が警鐘を鳴らす。目の前にいる少女が、三国志に名を馳せる将なのではないか、と。
そして、それは正しかった。
「恨みはないけど……」
一刀が止めた物とは違う、もう一方の剣が一刀を串刺しにせんと引かれている。
「死んで欲しい……の!?」
一刀は反射的に上体を引いて、その反動で足を振り上げ、少女……沙和の顎をはね上げた。
沙和が怯んでいる隙に横に転がって窮地を脱し、慌てて立ち上がって剣を正眼に構える。
「っ~~~もう怒った! 女の子の顔蹴るなんて男としてサイテーなの!」
「俺もヤだけど、そうも言ってられないんだよ!」
こんな状況でも罪悪感が出てしまう自分の性分に呆れながらも、そんな事を気にする余裕は全く無い。
近くに味方は居らず、馬の足は斬られ、目の前には敵の将。逃げられる状況ではない。一刀は覚悟を決めて……先手を打つ。
「きゃっ……!」
上段に振り下ろされた剣を、沙和は双剣を頭上に構える形で受け止める。その一太刀で、一刀は一つの推測を得た。
「(この子、そんなに強くない……?)」
疑問を確かめるように、何より生き残るために、一刀は続け様に斬撃を繰り返す。
沙和も当然のようにそれを捌き、斬り返し、両者の剣は鎬を削って火花を散らす。
「(やっぱり……)」
そして一刀の疑問は確信へと変わる。日頃自分が稽古をつけてもらっている星や恋、霞や舞无に比べれば、目の前の少女は明らかに弱い。
決して一刀より明らかに弱いというわけではないが、それでも十分互角に渡り合えている。それが何よりの証拠だった。
そして、絶対の危機に思われたこの邂逅が一刀の命を永らえさせる結果となる。
「くっ……この!」
「やっ、はっ、なの!」
一つ間違えれば、僅か気を抜けば死に直結する一騎討ち。しかし、それによって周囲の魏兵の動きは止まっている。
自軍の将にまかり間違っても傷を負わせないため、そして手柄を横取りする不遜を避けるため、彼らは逃げ道を塞ぐ壁としての役割に撤していた。
そして、その異質な兵の動きが何よりの光明……すなわち、“目印”になった。
「一刀―――――!!!」
聞き馴れた声が、聞き馴れない激情を帯びて一刀の耳を打つ。聞き違えるはずがない。
「…………ぷ」
「ひゃあ……!?」
紙一重の攻防の中、疲れ切った体に力が湧いてくる現金な自分を笑って、一刀は渾身の一撃で沙和を無理矢理後退させる。
そうして得た距離と余裕で、力の限り呼び返す。
「星―――――!!!」
遠く、相変わらずの……否、一刀でさえ見た事が無いほどの苛烈さで敵兵を薙ぎ倒して駆けて来る愛しい少女。
「(生きててくれた……)」
ただそれだけで、何故彼女がここにいるのかという疑問も、無事にここから生還出来るかという不安も気にならなくなる。
思っていた以上に自分が単純な人間だったのだと思う一刀だった。
――――しかし、一刀と沙和の一騎討ちを目印に出来たのは星だけではない。
星の周囲から、波が引くように兵が退がる。“将の邪魔”をしないために。
「そこまでです!!」
「っ!?」
一刀を見つけた一瞬の気の緩み。それを狙い澄ましたかのように巨大な円盤が星に放たれた。
「く……っ」
躱せず、尋常ではない重量を持つその一撃を星は槍の柄で受けた。………が、受け切れずに馬から弾き落とされる。
何とか受け身を取って片膝を着いた体勢の星に、円盤を放った流琉ではないもう一人の将……真桜が迫る。
「秋蘭さまの仇や!!」
「っ……しまった」
迫り来る螺旋槍。しかし星は受け止められない。先ほどの流琉の一撃で…………直刀槍・『龍牙』は中途から折れてしまっていた。
「受け取れ!!」
蒼い光を放つ何かが、弧を描いて星へと向かって行く。それが何かを確認もせずに、星は声だけを信じてそれを掴み取り―――
(ガキィッ!!)
間一髪。真桜の刺突を受け止めた。その刀身に蒼い煌めきを放つ、『倚天の剣』と対を成す一刀の持つもう一振りの宝剣。
『青紅の剣』
「星!!」
星が落馬した時すでに、一刀は『青紅の剣』を投げ渡すと同時に走っていた。
その背中を沙和が追っている。星もそれを見て一直線に一刀の許へと走る。その背中を真桜が追っていた。
「「……………」」
言葉は無くても眼だけで通じる。掛け声は無くても互いの呼吸を知っている。
一刀と星は互いの許へと辿り着いた。しかし皮肉にも互いの体が背後に迫る敵を隠してしまっている。
一刀は、星は、触れ合うより早く右足を大きく踏み込んだ。肩をぶつけると同時に預け合う。
預けた肩を支点に、二人はまるで合わせて一つの駒のように半回転して―――――
「「はぁあああ!!」」
一閃。剣の生んだ光が円を描いて、背後に迫る脅威を斬り裂いた。