血飛沫が舞い、絶えず剣戟の音と怒号と悲鳴が鼓膜を揺らす。
自分の体が熱いのか冷たいのかすら判らない極限状態の中で、とっくに体力の尽きた体を懸命に動かして一刀は戦っていた。
「(怖い………)」
そんな感覚など麻痺している。いや、自覚した瞬間に死が口を開けて襲い掛かって来る窮地で、何故か一刀はその言葉を噛み締める。
機動力の高い騎兵部隊でひたすら遊撃と撤退を繰り返す。騎馬に於いては大陸最強を誇る北郷軍にとってそれは最も得意な戦法であるはずだったのだが、ただでさえ自軍を遥かに越える大軍勢に対する精神的、肉体的重圧は楽観出来ない上に、長期に渡る虎牢関の籠城戦、虚を突かれて命からがら逃れた許昌での死闘を経て、北郷軍の精兵たちの気力も限界を迎えていた。
終われ、捉まり、喰らいつかれ、終には編成を崩された乱戦へと縺れ込んだ。
周りにどれほどの味方がいるのかも判らない。ただ激流の中で翻弄される木の葉のような自身を自覚しながら、一刀は必死に足掻き続けているのだ。
「うがぁあ!」
「げあっ!?」
力の入らない体を自身の腕に振り回されながら、自分に槍を突き出して来た魏兵を力任せに槍ごと叩き斬る。
「こいつっ!」
「はあああっ!」
その背中を狙って剣を振り上げたもう一人の胴を振り向き様に薙ぐ。
「(……あれ、どっちに逃げればいいんだったっけ………)」
降り掛かる火の粉をがむしゃらに払い除けて命を繋ぐ行為を続ける内に、東西南北どころか左右すら判らなくなる。
「北郷様、ご無事で………!」
「馬はこちらです!」
「あっ、ありがと」
先ほど、やられそうな味方を助けようと飛び降りた馬を、十軍の兵士が引っ張って来てくれた。一刀は軽く礼を言ってそれに跨がった。その直後――――
「貴様が北郷一刀か?」
「あ……」
たった今、一刀を案じて駆け寄って来た二人の兵士の首が、一刀の目の前で血を噴いて飛んだ。
鮮血の帳の向こうから、その凶刃の主が姿を現す。僧のような黒の法衣と頭巾で顔以外の部分を隙無く覆い隠した少女。その少女が殺戮の軌跡のように血糊を引いた大斧を振るっている。
「この乱戦に在って大将首に巡り合えるとは運が良い。強運だ」
敵だ。それも、おそらくは将軍。一刀がその事実に気付き、馬首を返そうと手綱を引く………が、遅い。
「くたばれ」
無防備な一刀の横面に向かって、目にも止まらぬ速さで穂先が奔り―――
「ほい」
横からの双鉄戟に軌道を外され、空を切る。
「散!?」
「いい歳こいて迷子にならないで下さい。あたしはあなたのお母さんじゃないんですよ」
颯爽と現れ、いつもの減らず口を並べながらも、散は嵐のような連撃を繰り出している。
その激しい猛攻をかろうじて捌きながら、黒衣の少女は無理矢理後退させられた。
「で、走る」
「うおっ!?」
双鉄戟の穂先が一刀の馬の尻をチクリと刺した。堪らず、馬は全速力で散が狙った先……西方へと駆け出していく。
突然の疾走に慌てて馬にしがみつく一刀を見るでもなく、散は戟を黒衣の少女へと向けていた。
「何だ貴様は……!」
「通りすがりの三十路です」
「……なるほど、真面目に応えるつもりはないというわけか」
「人に名を訊く時は自分から。礼儀知らずはお互い様なようで」
「なるほど……いいだろう!」
二人、視線と同様に噛み合わせていた刃を乱暴に弾き、僅かな距離を取る。
「我が名は徐晃。名を聞かせろ、死にゆく者よ」
「鳳令明。覚えなくていいですよ、お嬢さん」
「どこまでもふざけたガキよ!」
大斧が唸りを上げ、双鉄戟が風を裂く。二人の間を乱れ飛ぶ斬撃が火花を散らし、他者の踏み入る事を許さない絶技の応酬が始まった。
平時であれば芸術とさえ呼べる剣の舞はしかし、命が灯火のように容易く散っていく戦場の中では大した意味を持たない。
当然、二人もそこに執着するはずなどなかった。
「秋蘭さま! 北郷一刀を見つけました!!」
「っ……近くに他の将までいたようで」
刃を交わしながら張り上げた徐晃の叫びが、僅か離れた秋蘭に届く。散が舌打ちしながら掬い上げた戟の一振りを、徐晃の柄が受けた。
「! あれか……っ!」
剣戟の音や怒号の嵐が吹き荒ぶ乱戦の中で、秋蘭は徐晃の叫びを正確に拾った。そして一人高速で走り去る騎馬の後ろ姿もその視界に収める。
「普通ここは、武功を焦って自分が行くしーんじゃないかな、と」
「私個人の武功など、覇王の見据える未来に比すれば塵芥ほどの価値もない」
無欲な判断を前にして、散は顔には出さずに苦虫を噛み潰す。秋蘭が弓を引くより速く徐晃を退けるなど不可能だ。……仕方なく散は、左手で戟を敵の大斧に叩きつけながら、右手を背中に回した。
「(届く)」
一刀の背中を見つけるや否や、秋蘭は即座に弓を引く。まだ彼が射撃の間合いにいる事を確信し……
「(背後か……。この距離で胴体を狙えば、死ぬ事はないだろう)」
主の意向に刹那思考を巡らせてから―――
「(当たり所が良ければな)」
必殺必中の矢が放たれる……はずだった。
「!?」
歴戦の戦いの中で培われた“勘”に従い、秋蘭は上体を反らせた。一瞬前まで彼女がいた空間を、銀光を撒いて短戟が貫いた。
秋蘭に自体にはかすり傷一つつきはしなかったが―――
「っ……しまった」
矢を放つための弓弦が切れている。これでは一刀を狙えない。
「余計な事を……一騎討ちの最中に余所見とは、余裕だな!」
「ホントは首狙ったんですけどね」
徐晃と打ち合いながら間隙を縫って短戟を投げ放った無名の将に僅か感銘を受ける秋蘭だったが、そこで思考を止めはしない。
散の命になど最初から興味はない。狙うは北郷一刀ただ一人。弓弦を切った程度、時間稼ぎにもなりはしない。
「李典、于禁、典韋! 北郷一刀を追え! 見事生け捕りにした者は戦功第一は間違いないぞ!!!」
『は、はいっ!』
涼しげな容貌からは想像出来ない大音量が戦場に響いた。その命令は、奇しくも乱戦の中で秋蘭の指示を仰ごうと集結していた三人の将に届く。
「止めなさい!!」
『応!!』
散が似合わない大声で周囲の兵に号令を掛ける。それほど切羽詰まった状況だという事だ。
散は徐晃の相手で精一杯。一刀を守る将はいない。しかし…………
「どかんかーい!」
「押し通ります!!」
「邪魔する奴は片っ端からその股間の汚いのを削ぎ落としてやるのー!」
三人の将の率いる魏兵の突撃を、弱りきった北郷軍の兵士が止められるはずもない。そもそも数が違うのだ。
「諦めろ、天下は既に曹魏のものだ」
「勝負は蓋を開けるまで判らないものですよ」
顔色一つ変えずに減らず口を並べる散に………打開策は無かった。
「(どこに逃げた……?)」
乱戦と一口に言っても、それは北郷軍の視点から見た乱戦である。
今の状況は、敵味方が入り乱れて混乱を極めた孅滅戦ではなく、陣形も統率も崩されて身動きの取れなくなった北郷軍を、魏軍が各個撃破しているような状態だった。
有体に言えば、魏の統率はそれほど乱れてはいなかったという事になる。
「(たとえこいつらを全滅させても、北郷一刀に逃げられては………)」
一度退がり、弓の弦を張り直した秋蘭は、戦場の兵の動きを注意深く観察していた。
北郷一刀を捕えたという報が無い事を悔やむべきか、取り逃がしたという報が無い事を喜ぶべきか判別がつかない。一刀の追撃を任せた真桜らの部隊の姿も未だ確認出来ていなかった。
「………ん?」
そうして戦場を見渡していたから、秋蘭はすぐに気付く事が出来た。魏軍の後曲、一刀がいるはずもないその場所がやけに騒がしい。
様子見をしようかと思った矢先に、丁度よくそちらの方向から大慌てで駆けて来る騎馬を見つけた。騎馬は「伝令! 伝令ー!」と叫びながら近づき、馬から飛び降りて秋蘭の前で膝を着く。
「何があった? 前線も突破されていない今、後曲に混乱など起きようがないだろう」
秋蘭は、一瞬脳裏を掠めた嫌な予感を、別の言葉を口にする事で否定する。
前線を固めるのは歴戦を潜り抜けた魏の精兵。しかし後曲にいるのは数を多く見せる事を主眼に置いた練度も経験も浅い新兵の軍。奇襲で背後を突かれようものならたちまち大混乱に陥る。
しかしそんな事は百も承知で慎重に軍を進めて来たのだ。この期に及んで伏兵に背後を取られる事などあり得ない。
「そ、それが………」
だが、秋蘭のそんな確信に反して、伝令兵は怯えるように言い淀んで………
「後曲が東方より敵の強襲を受け、虚を突かれた新兵らが陣形を乱し始めまして………」
あり得ない現実を報告した。だが、秋蘭が本当に驚愕するのはその後だ。
「一体どこに伏兵が隠れていた? 敵の規模は? 軍旗は?」
「潜伏場所は解りません。軍旗も掲げておりません。規模は………」
「規模は?」
「規模は………一人、です」
「……………………は?」
数秒自分の耳を疑って呆けた秋蘭は、我に帰ってすぐさま伝令の言葉を再確認する。
「もう一度言ってみろ。……敵の数は?」
「ひ…一人です……。突然東より駆けて来たかと思えば、鬼神の如き槍捌きで瞬く間に兵たちを薙ぎ倒ぷあっ………!?」
最後まで聞かず、秋蘭は伝令の頬を張り飛ばした。呆れてものも言えない。
「貴様らはそれでも魏の兵か。いちいち私に指示を仰がなければそんな事も満足に判断出来んのか。そやつがどれほど強いか知らんがたかだか一人、さっさと数で包囲して引っ捕えて来い」
「は……はいぃっ!」
有無を言わさぬ冷たい眼光に打たれ、その伝令が来た道を引き返そうとした時………新たに伝令が秋蘭の許に向かって来ていた。
先ほどと同じように、しかしより動揺と混乱を滲ませた新たな伝令が、秋蘭の前に膝を着き………
「単騎にて我が軍後曲より強襲を掛けた何者かはなおも抗戦中! 中軍……突破されました」
「………な…に……?」
秋蘭の表情が、今度こそ凍り付いた。