「かたじけない。しかし、よくあの混戦の後に私一人を見つける事が出来たな」
焼け朽ちた虎牢関から少し離れた山の奥。猟師が狩りの為に設けたであろう山小屋がある。
「元々わたしは、そういう隠密行動が得意ですから。隠れる事が得意な分、隠れる側の行動も読みやすいんです。……正直、運が良かったというのも大きいですけど」
キツい匂いのする薬草を磨り潰し、傷口に塗り付け、その上から包帯を巻く。応急措置にしては十二分な手当てを受け終え、水色の髪の少女は傍らの槍を握った。
「ともあれ、ご無事で何よりです」
「私は、な……。散り散りになった兵たちはどうなったか判らん。……負け戦とは惨めなものだ」
自嘲気味な笑みを零す少女の顔に、しかし自虐の色は浮かんでいない。立ち上がり、身体の調子を確かめるように槍を振るう。
一瞬二撃。鋭い刺突と斬撃が風を切り、紅い光跡を残した。軽く調子を確かめただけのその所作に、黒髪の少女は息を呑む。
「さて、おぬしはどうする? もう十分に呉国の義と矜持は証明してもらったと思うのだが」
「いえ、でも……って、どこに行くんですか! 傷口が開いてしまいますよ!」
当然のように立ち上がった水色の少女を、黒髪の少女はあたふたと止めようとする。その慌てる様子を面白そうにクスリと笑い、水色の少女は蝶の羽を思わせる白の衣を纏った。
「あの阿呆の事なら、おぬしがこれ以上気に病む必要はござらんよ。餓狼の牙に自ら首を曝す鹿を守れなかったとして、“見捨てた”などと誰が思う」
励ますような、そして誰かを呆れるような水色の少女の言葉に、黒髪の少女はしばし俯いて口をつぐみ………
「………………」
そして意を決して語りだす。語るべきか判らなかった、そんな間を挟んで。
「…………大切な、方なんですね」
「………何か?」
敢えて聞こえないフリをして、水色の少女はとぼけた。黒髪の少女は続ける。
「蓮華さまが真名をお許しになったわけが、解ったような気がします。……いくらでも自身を守る方法があるのに、民と臣下を守るために自ら命を懸ける。武に秀でているわけでもないのに。………勇敢で、そして優しい方です」
しみじみとそんな言葉を並べる黒髪の少女に…………
「…………はぁ」
水色の少女は、酷く感情の籠もった溜め息を吐いて壁に手を着いた。次いで、「馬鹿を言うな」と言わんばかりに黒髪の少女に詰め寄る。
「何が勇敢なものか。奇抜で大胆なら何をしても良いというものではない。どんな状況であろうと国を司る主が死地に飛び込むなど兵法で言えば下の下だ。優しい? あれはただ我が儘なだけよ。自分の優先順位を押しつけた挙げ句に我を通す。だから自分を囮になどと馬鹿な事を平然と口にする。そもそもあやつの“大切なもの”はあまりに広すぎるのだ。誰彼構わず懸想しては『好きだ』などと宣い、しかもそれが本音だから尚さら質が悪い。あやつの『大切なもの』全てを守ろうとしていては盾も槍も全て心臓になってしまうというものだ」
「は……はい………」
堰を切ったように日頃の鬱憤を並べ立てられ、黒髪の少女は呆気に取られた返事しか返せない。
ひとしきり文句を言ってすっきりしたのか、水色の少女はクルリと背を向け、戸に向かう。
「………だから放っておけんのだ。厄介極まりない」
「!?」
並べ立てられた多くの言葉よりも、背中越しに零れたその一言に重みを感じた黒髪の少女は、直感的に気付いた。反射的に止める。
「無茶ですよ! そんな体で、たった一人で、一体何が出来るっていうんですか!」
彼女の主に頼まれ、彼女を助けに来た少女である。このまま行かせられるわけがない……“のに”………
「何が出来る、か。まったくもってその通り。だが………」
水色の少女は振り返る。不敵に微笑み、黒髪の少女に流し目を送る。
「己が文字通りの万夫不当の武人かどうか、試すもまた興とは思わんか?」
その軽薄な態度とは裏腹な強い瞳の光に打たれて、黒髪の少女はその背中を見送る事しか出来なかった。
「どうした盲夏侯! たった七人に怖れをなしたか! それでも魏武の大剣か!」
「鈴々は逃げも隠れもしないのだ! 本気出してあげるから、かかって来ーい!」
「あたいが怖いのかー! このデコっぱちー! 後退りハゲー!」
「えっ、と………ばーーか!」
愛紗、鈴々、猪々子、桃香の罵声を受けて………
「ぐ…ぬう……ぎっ………!」
「挑発です。あんな手に引っ掛かってはそれこそ物笑いですぞ?」
唇の端から血が滲むほどの屈辱に耐え、春蘭率いる追撃部隊は引き上げて行く。
「(やはり我らをはめるつもりですか。そう何度も同じ手には乗らないのです)」
たった七人にも関わらず執拗に春蘭を挑発する劉備軍を観察し、音々音はより強く自分の判断に確信を持った。
「(主君まで引き連れて琴など弾いて、ぱふぉーまんすが過ぎましたな)」
今も静かに琴を奏でる朱里を睨み、春蘭同様に心の中で雪辱の炎を燃やして、音々音は春蘭を宥めながら引き返して行った。
『…………………』
琴の音も止み、ほんの少し前まで一触即発の戦場だった山道に、耳に痛いほどの静寂が広がって…………
「ふ……へえぇぇぇ」
聞く者全ての力が抜けるような吐息に破られた。その発信源たる桃香は、緊張の糸が切れたようにぺたんと地べたに座り込む。
「死ぬかと思ったよぉ~」
「というか、悪口の程度がかなり低くなかったか? ばーかは無いだろ、ばーかは」
「にゃはは、お姉ちゃんは普段悪口なんて言い慣れてないからなー」
「文ちゃんのが一番酷かった気がします」
「なんだよー、白蓮さまも斗詩もやらなかったくせに。ノリ悪いよなー」
「ねー♪」
桃香の物腰が砕けたのを合図とするように、各々が常の調子で口を開く。その相変わらずな様子に軽く目眩を覚えつつ、愛紗は朱里に歩み寄った。
「しかし、本当に七人相手に魏軍が撤退するとはな」
「陳宮さんは知略も洞察力も備えた優秀な軍師です。だからこそ、以前の敗戦を基に慎重な判断を下すだろうと確信していました」
自分に驚嘆と称賛を向けられたと気付いて、朱里も平静を繕った仮面を捨てた。本来、敵軍を前にして平然と琴など弾ける性格ではないのだから、今までは必死に無理をしていたのだ。
「しかし、朱里にしては珍しく一か八かだったんじゃないか。追撃部隊の大将が夏侯惇だって判った時は、正直肝が冷えたぞ」
言葉通りに額の冷や汗を拭って、白蓮も朱里に話し掛ける。今回の功労者を称えて、同時に説明を求めて、皆が近づいて来る。
「兵も持たない今のわたし達ではこれが精一杯でした。それに、あまりその心配はありませんでしたよ」
怪訝そうに首を傾げる桃香、愛紗、白蓮、斗詩。あまり興味なさそうな鈴々、猪々子に、朱里は穏やかな笑顔を向けた。
「曹操さんは人物の力量を見極めて使う才覚に優れています。直情型の将のみを部隊に配する事はまずしません」
こうなる事は必然だった。そんな朱里の言い様に、愛紗は背筋が冷えるのを感じた。
軍略や兵法、天文や政策どころか、大した面識も無い敵軍の将たちの能力や心理まで正確に見抜いて実際に手玉に取る朱里の頭脳に、味方ながらに畏敬の念を覚えたのだ。
そんな天才軍師を称える声は、さらに後ろからも掛けられる。
「まあ、普通はあの大軍をハッタリで追い返したりしようとは思いませんけどねー。お姉さんの行動力を、孔明ちゃんがうまくさぽーとしてる感じでしょうか?」
「風ちゃん!」
茂みの中から服の裾を気にしながら現れた風。同時に、手足に枝葉を縛り付けた北郷軍の兵士が十数人程度立ち上がる。
「風ちゃんもお疲れさま。付き合わせちゃってごめんね」
「そもそも他人事ではありませんし、受けただめーじは腰がちょっと痛くなったくらいですから、気にしなくていいですよー」
桃香らは兵を持っておらず、貂蝉にも兵の統率は任せられない。風が交代でここにいるのもある意味必然だ。
草木を揺らして伏兵を“匂わせる”には、僅かなりとも数は必要だったから。
「………よく、我らの協力を受け入れる気になったな」
些か以上に壁を作りながら視線を逸らして言うのは、愛紗。反北郷連合で戦った経緯もあり、以前から再三『北郷軍との和解は不可能』と桃香に進言していた愛紗だ。
風の対応が信じられない上に気まずく思うのも無理からぬ事だった。
対する風は、まったくの自然体。
「そもそも風が許す許さん決める事じゃねーからな。まあ、稟やら散やらは結構うるさく言うかもだけどよ」
宝慧まで駆使して緊張感を破壊する。嫌な事はサクサク忘れる性格だ。そして風は柔軟性に富んだ軍師である。反北郷連合の際の成り行きも、時代の必然として受け入れていた。付け加えれば、あの時の“悪あがき”も憶えている。
「ね! だから言ったでしょ?」
嬉しそうに愛紗にそう言って、桃香は風の手を取ってくるくると回りだす。
「(そういえば、義勇軍だった頃からこの二人は仲が良かったな………)」
北郷軍と再び手を取り合える好機にはしゃぐ主君の姿に、胸中に並々ならぬ心配を押し隠しているはずの主君の姿に、漠然とした不安を感じる愛紗は……
「(北郷、一刀……)」
もう一つ、自身の心の矛盾した動きに戸惑っていた。桃香が一刀に関わる事を好ましくないと思っているはずなのに、何故か北西の空が気になって仕方ない。
―――居ても立ってもいられないほど。
「大丈夫だよ、愛紗ちゃん」
そんな愛紗に、桃香は微笑み掛ける。想いを寄せる男が今も死地にあると知って、平静を保てるような人物ではない。それなのに、不安の欠片も感じさせない笑顔で。
「(強く、なられた)」
ついて来て良かったと心底から思う。なのに…………
「信じよう、絶対一刀さんに生きてまた会えるって」
愛紗の心の暗雲は晴れず、ただ広がり続けるばかりだった。