魏軍の侵攻を受け、必ず来る再起の時に願いを込めて、皇帝・劉協、そして彼と北郷一刀を慕う都の民草は南方の宛へと向かう。
そこからさらに西方を目指す長く辛い旅になる上、彼らは魏軍の追撃に見舞われていた。
「…………宛には、まだ着かぬのか」
「はい……。お身体は平気ですか」
「朕の事などよい。……しかし、このまま民に過酷な旅を強いるのは心が痛む。女子供や老人もいるというのに」
その流軍の先頭で、疲弊した協君と雛里が言葉を交わす。協君はまだ幼い上に、決して身体が丈夫な方ではない。それは雛里も同様だ。
それでも口にするのは民草の心配。しかし行軍を遅らせる事は出来ない。
一刀が自身を釣り餌に魏軍を引き付けた行いが無為になったわけではない。半数以上の魏の大軍が西方を目指し、南に向かったのはそのさらに半数だ。
それでも、魏の軍勢は既に撤退軍に半分手を掛けていた。弱者に過度の負担を掛けると解っていても、速度を落とす事は出来ない。
「あの者に殿を任せて、本当に大丈夫なのか? 素人目に見ても化け物染みて……いや、化け物なのは判るが……」
「華蝶仮面は散さんと一緒に街を守っていた正義の味方ですから、武に関しては超がつく達人だと思いますけど………」
協君と雛里がいるのは軍の先頭、そして人民を挟んで中軍は風、そして最後尾に(軍を指揮しているわけではないが)貂蝉がいる。それゆえ、先頭の協君らに魏の追撃に曝されている最後尾の兵たちや貂蝉の情報が届くのは最も遅い。
不安ばかりが掻き立てられて、しかしひたすら南を目指す以外に出来る事はない。おまけに、貂蝉に関してはあまりにも謎が多すぎる。
命を懸けて戦う兵も、最早信じてついて行くしかない民も、そして彼らの信頼と意識を預かる導き手らも、押し潰されそうな重圧に神経を削られながら歩いていく。
「…………あれは?」
立ち向かわずに背を向ける、それでも紛れもない戦いを続ける彼らの前に――――
「お待ちしてました」
七つの影が進み出た。
「何故だ! 何故今すぐ奴らに追撃を掛けん!」
一方、撤退軍に追い付き、帝を連れ去るように命じられた春蘭の部隊も、協君らが懸念したほどの激しい攻勢に出ているわけではなかった。
正確には、攻勢に移れずにいた。
「今行けば民草にも甚大な被害が出るのです。………正確な敵戦力も判り辛いし、思った以上に面倒な戦になりそうですなぁ」
「おのれ、人民を楯にするとは卑怯な……!」
「……どちからと言うと、必死に逃がそうとしているように見えますが……」
「ねね達にとっては好都合なのです。殿の軍のみを蹴散らした後に早足で追い越して回り込み、帝と人民を都に連れ戻せば良いのですから」
春蘭、音々音、凪。彼女らは既に号令一つで撤退軍の尾に食らい付く事が出来る。しかしそれによって起きると予想される乱戦は同行している民草をも巻き込みかねず、それは彼女らの主にとっても彼女ら自身にとっても望むものではない。
おまけに、前方に続くのは広く深い樹海。ただでさえ兵と紛れて民の位置が掴みにくい上に、撤退軍は小さな穴に吸い込まれるように細い山道へと逃げ、その姿を深緑の天幕へと隠して行く。
「(ええいっ、まだ戦ってはダメなのか……!)」
覇道を進む魏にとっても、皇帝を迎えて大義を得る事は大きな意味がある。歯噛みするような焦燥に駆られながら、春蘭は撤退軍の後ろ姿を睨み付けていた。
そうして追撃部隊にとって恐ろしく長い時を経て、遂に撤退軍の“全てが”樹海の奥に姿を消す。
「よし、全軍進軍開始!!」
「ちょっ! あんな兵を伏せやすい地形に何の策もなしに突っ込むつもりですか!?」
「殿が消えるまで待ったのだ! もう先方はどこまで行っているかわからん! これ以上待っていられるかっ!!」
意気揚々と号令を掛けた春蘭は、尚も苦言を並べる音々音を一喝して黙らせた。二人が目上である事、自分が義勇兵上がりで軍略に然程優れていない事を自覚している凪は、黙ってそれに追従した。
「続け、魏の精兵たちよ! 敵が伏していようが関係ない! 道阻む者全て蹴散らせ!」
駆ける春蘭を筆頭にして、魏軍が山道に雪崩れ込む。当然、凪も音々音も春蘭に続いている。
「(まあ、仕方ないですなぁ)」
危険を冒してでも先を急ぐ。この状況でその判断が間違っていると断定も出来ないので、音々音はそれ以上強く諌めはしなかった。………この時は、まだ。
「(おかしい……)」
春蘭を追って必死に馬を走らせながら、音々音は今の状況に思考を巡らせていた。
狭い山道、追って来る軍勢、北郷軍は少しでも長く時間を稼ぎたいはず。……にも関わらず、追撃部隊が山道に突入しても矢の一本すら降って来ない。
まだ敵影こそ見えていないが、この調子では魏軍も無事に山道を抜けてしまう。
「(威圧に耐えられず、なりふり構わずただ逃げた? いや、それは無いのです。程立や鳳統、北郷軍の軍師がそれほど無能とは…………)」
ただ真っ直ぐに逃げるよりも、地形を活かした奇襲を掛けて攪乱した方が遥かに時間を稼げる。
音々音はそれも十分に解った上で春蘭を強く止めなかった。この追撃部隊が黄巾の乱から戦い続けている精兵のみで編成されている事も考慮しての判断である。
しかし、慮外に山道に何も仕掛けられていない事が却って音々音に警戒心を抱かせていた。
やがて山道も抜けようかというそこに辿り着いた時――――
「っ……な!?」
道に立ちふさがるように待ち構えている七つの影が、春蘭の疾走を止めた。
全く予期出来ない光景に、驚愕のあまり思考が止まる。
「へっへ~、驚いてる驚いてる♪」
一人は、金の鎧を纏い、身の丈ほどの大剣を肩に担ぐ緑髪の少女。
「文ちゃん、お願いだからあんまり調子に乗らないでよね」
一人は、こちらも金の鎧を纏い、同色の大槌をその手に握る、黒髪を切り揃えた少女。
「にゃはは、二人はこんな時でも相変わらずなのだ」
一人は、一丈八尺の蛇矛を持つ、赤い髪の小柄な少女。
「久しぶりだな、夏侯惇。いつかの借り、ここで返させてもらおう」
一人は、自身の象徴とも呼べる青龍刀を構えた、黒く長い美髪を片端で束ねた少女。
「…………………」
一人は、戦場の中であまりに場違いに琴を奏でている、平らな帽子を被った金髪の少女。
「忘れるなよ、わたしもいるからな! 絶対忘れるなよ!」
一人は、緊張しながらも自己主張を忘れない普通の女性。
そして――――
「…………………」
両手で握った王剣を正眼に構えて目を瞑る、桃色の長い髪を持つ少女。その閉ざされていた瞳が、開かれる。
「……この道は通しません。どうしても通るって言うなら……」
意志を示して、言葉で伝えて――――
「わたし達が、相手になります」
徐州より追われし大徳・劉備軍、推参。
「退きましょう」
背後から掛けられた音々音の言葉が春蘭には信じられず、しばしの沈黙を経て思考が理解に至ると同時に、振り向いて怒鳴りつける。
「っ貴様は馬鹿か! 帝どころか、以前取り逃がした宿敵まで揃いも揃って目の前にいるというのに、ここで帰れとはどういうつもりだ!!」
河北に於ける大戦で取り逃がした桃香を含めた劉備陣営の将たち。今まさに斬り掛かろうとしていた矢先の音々音の制止は、春蘭の闘志を甚だしく阻害した。
無論、音々音もそれで黙ったりはしない。
「何の策もなしに、たった七人で殿などするはずがありません。挑発に乗れば、必ず手痛い打撃を被る事になるのです」
春蘭に説明をしながら、音々音の視線は一人静かに琴を弾いている朱里へと向けられている。
河北での戦い。己の用兵と軍略に絶対の自信と実績を持っていた音々音は………完膚なきまでに敗北した。
戦そのものは魏の勝利に終わったが、数で圧倒的に上回っていた魏軍が劉備軍から受けた被害は相当なものだった。
先見で一つ一つ上を行かれ、思いも寄らぬ用兵と奇策に虚を突かれ、必殺の策も軽々と捌かれて逆撃を受けた。戦には勝っても、軍師としての知略戦で音々音は完全に敗けたのだ。
だからこそ、音々音は確信する。神参鬼謀の諸葛孔明が、こんな無意味な自殺行為をするはずがないと。
「(こんな偶然があるはずがありません。とっくに北郷軍の傘下に降っていたとは、迂闊だったのです)」
眼を凝らす。琴を弾く朱里の遠く背後で、僅かに不自然に草木が揺れた。
「(やはり伏兵。とすれば狙いは………)」
桃香らのあまりに突飛で不可解な登場は、却って音々音に冷静さと慎重さを取り戻させた。そして、遅まきながらそれに気付く。
『難道行くに従って狭く、山川相迫って草木の茂れるは敵に火計あるべし』
自分が北郷軍の軍師ならば、自軍を大きく上回る敵に何を以て対するか。
「(火計……!?)」
自身が導き出したその解に、音々音の背筋に寒気が走る。
虎牢関の敗走、洛陽の放棄と逃走、北郷一刀の無謀な囮、それら全てが、ここに魏軍を誘き寄せるための布石だったようにすら思えて、嫌な予感は爆発的に膨らんでいく。
「何かある、だと? そんな曖昧な事をいちいち気にして戦が出来るか! お前のような臆病者が軍の士気を落とすんだ!」
「果たして臆病はどっちですかなぁ」
憤る春蘭に、音々音はわざとらしく肩を竦めて見せた。
「許昌では北郷一刀を取り逃がし、今回こそ汚名返上しなければならない。功を焦って失態を怖れているのはどちらかと訊いているのです」
「貴様……っ!」
図星を突かれ、春蘭が音々音の胸ぐらを掴み上げた。しかし音々音は絞められるままに言葉を続ける。
「それでまともな判断が下せるつもりですか。お前の自尊心のために、主殿から預かっている兵を死地に追い込むとでも?」
「ッ………」
春蘭を納得させるための方法は心得ている。彼女の崇拝する主君の名を使って、怒れる武人を宥めすかす。
「参謀であるねねの進言を取り入れるように、とも言われてましたなぁ」
「っ……~~~~」
矜持、怒り、未練、恐怖、羞恥、屈辱、忠誠。あらゆる感情に胸の中をぐちゃぐちゃにかき回されて、春蘭は長い葛藤を経た後に――――
「………撤退だ」
滅私奉公の選択をした。