「妙ね………」
戻って来た斥侯の報告、斥侯が何事もなく戻って来れたという事実、その双方に華琳さまは眉を潜める。
たとえ兵力で上回っていようと北郷軍は侮れない。華琳さまを含めた皆の総意に基づき、我々は洛陽の遠方に陣を構えていた。
それも仕方ない。張三姉妹の公演によって兵を著しく募ったとは言っても、そのほとんどが少し前まで鍬や鋤を持っていた若輩者。
士気の高さは類を見ないほど高いが、練度や連携は御粗末極まりない。
如何に数の脅威を敵に見せつけ、穂先に据えられた歴戦の精兵を活かすか。それと同時に、如何にあの……新兵たちの恐くなるほどの士気の高さを直接的にぶつけて活かすかが肝要になる。
それは裏を返せば、どんな些細な綻びが統率を乱すか判らないという事だ。
これでも、慎重過ぎるという事はない。しかし………
「何を考えているのかしら」
戻って来た斥侯の報告は、そんな我々の警戒を空回りさせるものだった。
『洛陽の前に、北郷軍の兵は一人もいない』
虎牢関を落とされた今、どんな無能でも王都の危機を予測出来るはず。なのに兵の一人も配していない、敵の密偵に易々と情報を持ち帰らせる。
これは………
「罠……でしょうか」
「あり得るわね。……虎牢関を抜いた今、急いて事を仕損ずる事もないか。……桂花」
「御意。密偵の数を倍にし、より広範囲の索敵を行わせます」
袁紹でもしないような無警戒な北郷軍の動きが殊更不気味に映り、私たちはさらに二の足を踏む事になった。そして、その結果として得られた実状に驚愕させられる。
洛陽周辺に伏兵は無し。それどころか城壁の上にさえ兵の姿が見えない。その代わり、洛陽よりやや西方に一つの陣地を発見した。……旗は、十文字の牙門旗。
「籠城戦、というならまだ解るのですが……やはりただの馬鹿なのでしょうか」
桂花は『男は馬鹿で下品で低俗な生物』という持論からそんな事を口にするが、さすがにそれはないだろう。
北郷一刀……華琳さまが少なからず関心を向ける男。意味もなく都から離れているはずがない。
かといって、伏兵がいない以上罠があるとも考えにくい。
「鉄壁を誇る虎牢関を突破されたのです。籠城しても時間稼ぎにしかならない事を解っているのでしょうなぁ」
「………時間稼ぎ、か」
ねねの曖昧な分析を反芻して、華琳さまはしばし考え込み――――
「このまま洛陽に向かうわよ。城兵が潜んでいたとしても、薙ぎ払って突破しなさい」
『はっ!』
そう、決定を下された。
予感は、あった。
「罰当たりめ! この洛陽を一体何だと思ってやがる!」
既に北郷軍が洛陽を完全に放棄していた事、ではない。
「帰れ逆賊! 自分が朝廷の臣である事すら忘れおって!」
功城戦をする必要すらなく都に入城出来た事、でもない。
「王都・洛陽を、漢室十二代の歴史を返せ!!」
洛陽を占領し、そこに足を踏み入れる際に起こる……これを。
「てめーらのせいで御使い様は……皇帝陛下は……っ!」
「馬鹿っ! 余計な事しゃべんじゃない、殺されちまうよ!」
「いや、俺は言うぞ! あいつらさえいなきゃこんな事にはならなかったんだ!」
「ほんごーしゃま、いっちゃったぁあ~~……!」
「帰れ! この叛逆者ぁ!!」
十の名を背負う兵士ではない、華琳さまが救わんとしている民草たちからの……罵言雑言の嵐。
「(あの時と、同じだ………)」
エン州を落とした時も、冀州を落とした時も、幽州を落とした時も、こんな事にはならなかった。
だが……徐州。劉備を下して領土を奪った時も、これと全く同じ現象が起きた。
「っ……」
「華琳さま!!」
種々雑多に投げつけられてくる物の内の一つ、どこからか飛んで来た小石が………華琳さまの額に、当たった。
「貴様らぁっ!!」
一瞬で頭に血が上る。誰が石を投げたのかも解らぬまま、私は衝動的に弓に矢をつがえていた。
今にも放たれそうになっていた一矢を―――
「やめなさい!!」
華琳さまの振るった大鎌の一閃が、弾いた。冷たく、激しく、強烈な怒りを伴った眼光に打たれて、私は急速に熱を失い、我を取り戻した。
私と同じように足を踏まれて止められている姉者や、ねねに蹴り飛ばされて転がっている桂花の存在にも、今更のように気付く。
「(………しまった)」
私は……本質的には姉者とさして変わらない。そう自覚しているからこそ普段から自分を律しているというのに……。
「(華琳さまの御心は、以前から聞いていたはずなのに……!)」
自分で自分に腹が立つ。華琳さまの御心を知っていながら私憤を抑えきれなかった自分自身が許せない。
「………楽進、李典、于禁」
『は、はい……!?』
「“制圧”しなさい。あまり手荒に扱わないようにね。私は春蘭たちを連れて宮に向かう」
『っはい!!』
あくまで淡々と告げた華琳さまの命を受け、三羽烏が裏返った声で応えた。
「…………………」
罵声と投擲される物の雨を意に介さず、華琳さまは一人で足を進め出す。私は、姉者は、桂花は、ねねは、何も言わずに後に続いた。
「…………………」
“あなた達には任せられない”。その背中に、言葉以上に強くそんな意志を伝えられながら。
「………………」
王都の宮殿。その広大な玉座の間を悠然と進む華琳の表情には、喜悦や優越の欠片も宿ってはいない。
それは、まだこの場所が本当の意味で自身の御座となったわけではない事を理解しているからか、或いは別の理由からか。
鉄の意志からなる仮面の内側の感情を悟れる者はこの場にいない。
「皇帝を連れて洛陽を放棄、か。相変わらずやる事が無茶苦茶ね、あの男は」
常と変わらぬ余裕と覇気を持って楽しそうに喋る少女に、その臣下らは揃って口をつぐんだ。
何を言えばいいのか解らない。華琳はそんな臣下たちの内心に当然気付いて、当然無視する。
「都の人口がかなり減っているようね。……あれだけ慕われているのなら、ついて行ったとしても不思議はないか」
それは作戦会議というよりも、状況確認に近いものだった。
密偵に探らせた都の内外の状況、それを分析した上で王たる華琳がどんな判断を下すかを彼女の武具たる臣下らは待っている。
「北郷が西に陣を張っているのは私をそちらに引き付けるため。……見縊られたものね……いや、買い被られているのかしら」
常と変わらないように見えて、今の華琳の言葉はどこか独白染みていて異質だ。
「私が貴方の思った通りに動くと、本気で思っているの?」
その事に華琳自身気付いてはいるが、うまく矯正が利かないでいる。
「秋蘭は真桜、沙和、流琉、柳葉の部隊を率いて十文字の旗を落としなさい。春蘭は音々音、季衣、凪と共に南方へと進軍」
「南方……ですか?」
「北郷一刀が西に誘っているという事は、そこに天子はいないでしょう。自身を囮にして天子と人民を逃がしたとすれば、残る逃げ道は南しかないのです」
華琳の命令の意図が読めずに訊き返した春蘭に、横から音々音が呆れ顔で説明する。
「君主自らが囮に? そんな馬鹿な話があるわけがないだろう」
「馬鹿はあんたよ。北郷一刀が連合相手に最初にやった事、憶えてないでしょ」
春蘭に悪態をつきつつも、桂花も心の奥では同じ感想を持っていた。玉を敵の矛先に差し出すなど、軍師でなくとも理解に苦しむ判断だ。
「そういう男よ。私は桂花と共に洛陽に残り、慰労と鎮圧に努める。春蘭は帝を、秋蘭は北郷をそれぞれ連れて来なさい。ただし春蘭は、帝と共に移動しているだろう民草には危害を加えない事」
「「はっ!」」
「吉報を待っているわ。皆、奮励努力せよ!」
華琳の激が魏の戦士たちを打つ。誰に認められる為でもない、救うべきもののために修羅の道であろうと毅然と立つその誇り高い姿こそが、彼女らに何よりの力を与える。
「動き出したようですね」
都から西に離れた陣地で、一組の男女が遠く砂煙を視認する。
「思ったよりもたついてくれたな。この間に協君たちが少しでも進んでてくれてるといいんだけど……」
片割れの男、北郷一刀に、片割れの女、鳳徳こと散が訊ねる。これから死闘に身を投じるというのに、二人とも不思議と落ち着いていた。
「意外と心配してないようですね。魏軍があちらに向かう確率も低くはないでしょうに……それだけ貂蝉の腕を買っているのかな? と」
散の疑問は、最初は協君や人民を守るために自分をあてがうつもりだったはずで、しかも最初はやはり反対だったように見えた一刀が、どうしてあっさりと自分の同行を許したのか、というものだ。
貂蝉との不明確な関係も含めての、純粋な好奇心でもある。
貂蝉の実力を知っている散が適当につけた“あたり”を、しかし一刀はあっさりと否定した。
「いや、逆だよ。そういう点に関しちゃ俺はあいつを全く信用してないし、あいつが俺たちの為に魏軍と戦ってくれるなんてこれっぽっちも思ってない」
「へ?」
それも、あまりにも予想外な答えで。さすがの散が呆気に取られた声を出す。
「あいつはきっと……物語に大きく干渉したり、流れを変えたりする事は“出来ない”。それでも何だかんだで面倒見のいいヤツだから、何かヒントはくれると思うんだ」
「……何を言ってるのかさっぱりかな、と。遂に本格的におかしくなりましたか?」
「違うっての。話半分に聞いといてくれ」
続けるぞ、と一言置いて、一刀はまた口を開く。別段、理解して欲しいとも思っていない。
「でもあいつは、散に殿を任された時にあっさり引き受けた。戦うつもりもなくて、俺たちを陥れる事もしたくない……だから判った」
「何がですか」
散にはわけが解らない。一刀は嬉しい確信に笑みを強める。
「散がいなくても、そして貂蝉がいなくても、協君たちは無事に逃げ切れるって事さ」
後は俺たちだけだ。喉元まで出かかったその言葉を、一刀は寸での所で呑み込んだ。