「ほ、北郷様……」
「止まるな! ここで止まったら完全に囲まれるぞ!」
立ち止まる暇もない。考えを纏める余裕もない。とにかく、ここで進軍を止めたら四方から囲まれてしまうという事だけを強く意識した。
「狼狽えるな! 浮き足だてばそれこそ敵の思うつぼだ。俺たちの方針は変わらない、眼前の敵を打ち破って活路を開く!!」
『応!!』
俺の……似合わない、精一杯に強がった号令に、兵の皆は間髪入れずに応えてくれる。
予定通りに蓮華と挟撃で目の前の季衣の部隊を打ち崩して、その足で許昌に入って一度体勢を立て直す……それがベスト、か?
「(初めてだ、こんなに気持ちが覚束ないのは…………)」
前の世界からずっと、俺の傍にはいつだって頼りになる仲間が居てくれた。……でも、今はいない。俺がどれだけ自分を信じる事が出来てないか、よーく判る瞬間だ。
体が硬い、汗が冷たい、背筋がうすら寒い、視界が不安定にぼやけて見える。
だけど………
「(やるしかない…………!)」
歯を食い縛って気合いを入れる。ここで頑張れなきゃ、俺が普段からやってる事は自己満足にすらならない。
俺が、俺を許せなくなるから。
「皆の命、俺が預かる! 剣を握れ、槍を掲げろ、身の慄を打ち払え!」
張り上げる鼓舞は、俺自身に向けたものでもあった。意図しなくても、頭は嫌なほど冷えている。後はビビらず冷静になれるかだ。
気合い十分な怒号に背中を押されて、俺は剣を片手に先頭を駆ける。その隣に周泰が並ぶ。
城から打って出た蓮華の軍と、背後から速攻を掛けた俺たち。完璧に思えた挟撃が成立するより早く………魏軍が“前後に”割れた。
『許』の旗を持つ部隊が蓮華の軍に、『典』の旗を持つ部隊が俺たちに向かって“正面から”ぶつかる。
「(………くそっ!)」
元々こうなるように仕組まれてたのか、それとも咄嗟の事態にも即応出来るほどよく訓練されてるのか、どっちにしても厄介極まりない。
「はあああぁあぁ!!」
迫り来る穂先を切り飛ばしながら、俺はがむしゃらに咆えた。
ここで止められたら、皆死ぬ。その恐怖心すらも必死に力に変えるように。
「敵前線、崩れました!」
「よし! このまま行くぞ!」
実際には3分と経っていないはずの、でも俺たちには途方もなく長く感じた死闘が、季衣の部隊の前線を打ち崩した。
奇襲は叶わなかったが、元々兵を二分して戦えるほど季衣の部隊は大軍じゃない。蓮華は………まだか。
「気を緩めるな! まだ活路を開いたわけじゃないぞ!」
季衣の部隊を蹴散らし、突破した勢いを活かして、俺たちはそのまま『典』の旗を掲げる軍を後ろから強襲する。
元々蓮華の軍と鎬を削っていた所に背後から突撃されて、『典』軍は季衣共々軽い混乱状態に陥った。
「(よし……!)」
紙一重ではあったけど、何とか上手く行った。混乱状態の魏軍を蹴散らしながら通り抜け、俺たちは一旦距離を取り、そこで………
「……え…………」
俺たちの一撃離脱よりも一足早く、許昌の城門へと引き返していく呉軍の姿を見た。
「北郷様! 先ほどの魏の伏兵が包囲網を展開、包み込むように迫って来ています!」
「っ……それでか」
周泰の叫びで一瞬の動揺が消し飛ぶ。乱戦状態にあった俺たちよりも、正面衝突だった蓮華たちには魏軍の動きがよく見えていた。だから無理に混乱した典軍に攻勢を掛けずに素早く退いてるのか。
季衣らの部隊が混乱した事もあって、赤い軍勢は首尾よく堅固な城門の内側へと逃げて行く。本来なら俺たちも呉軍と合流して一度許昌に入るのがベストだった、けど………。
「……全軍反転! 敵陣の隙を突破して、この窮地から離脱する!」
「ほっ、北郷様? わたし達は入城しないのですか? 孫権さまなら同盟軍も迎え入れてくれますよ!」
俺の無謀気味な指示に、周泰が驚いたように叫ぶ。確かに俺もそうしたかったけど………
「ダメだ、このタイミングじゃ間に合わない」
「孫権さまは盟友を見捨てたりしません!」
「蓮華は呉を誰より大切に思ってる。俺たちを助けるために自国の民を危険に曝したりしないよ」
このまま城門に向かえば、俺たちと一緒に魏軍まで迎え入れてしまう可能性が極めて高い。蓮華がそれを是とするわけもないし、俺もそれが正しい判断だとは思わない。
つまり、このまま城に向かっても鎖された城門と魏の大軍に押し潰されて全滅するだけだ。
「あ……え………う………」
「君は俺の仲間である前に、蓮華の臣下だ。戻るなら今のうちだよ」
周泰一人なら、呉軍が城門を閉じる前に合流する事も可能だと思う。
………本音を言えば、生きてこの場を切り抜ける自信もない。彼女が付き合う義理もないだろう。
しかし………
「い、いえ。此度の戦で呉の魂を疑われたくありません! 微力ながら、身命をとして北郷様を御守りします」
「………そっか、ありがとう」
周泰の勇ましい言葉を、俺は抗弁する事もせずに受け入れた。俺たちが援軍を出した公的な理由と同じように、彼女たち呉にとっても俺を見殺しには出来ないんだろう。
非常識なりにそれくらいは判るから反論もしないし、本音を言えば付いてきてくれるのは物凄く頼もしい。
「死ぬ気で生き残ろうな」
「はい!」
元気の良い返事を貰って、俺は馬首を返して軍を旋回させる。狙いは囲まれて孅滅される前に一点突破で包囲から離脱。けど…………
「(………どこを抜ける?)」
うちの騎兵部隊だって練度じゃ負けてない。周泰も恋や星ほどではないけどかなり強い。でも……魏軍も強い。
単純に将の実力だけでは判断出来ないし、何よりあの旗の中で俺が確信出来るのは春蘭と桂花だけだ。旗にフルネーム書いとけよ、くそっ!
「(どうする……どうする………)」
薄い所なんて無い。あったとしても罠かも知れない。弱点なんてわかんねぇ。……でも、このままうろうろしてるのが致命的だって事だけは判る。
「(…………ん?)」
パニック寸前の頭を必死に落ち着かせて少しでも判断材料を探す俺は……映る視界に一つ閃く。
「全軍駆けろ! 目指すは軍旗は『夏侯』! 敵を蹴散らし俺の背中を目指して走れ!!」
「北郷様!? 夏侯惇は魏武の大剣とまで呼ばれる曹操軍最強の将ですよ!」
「知ってるよ、だけど………一か八かだ」
確信は無い。じいちゃん家で読んだ本と、実際に見渡すのとじゃわけが違う。
「……あれは『八門金鎖の陣』だ。『生門』から突入して『景門』を抜ける。最強の部隊を切り崩して混乱に乗じよう」
もしかしたら、あれは『八門金鎖』じゃないのかも知れない。例え『八門金鎖』だとしても、俺が正確に『門』を見抜ける自信もない。おまけに、突入中に春蘭本人に見つかったらお慰みだ。
それでも俺は……半信半疑な見解を、敢えて断言する形で言った。ここで俺が自信なさげな態度見せたっていい事なんて一つもない。
生兵法は大怪我の元って言うけど、今は藁にも縋りたい。……って言うより、他に縋るべきものがない。
「遅れるな! 止まるな! 脇に逸れるな! ただ俺が進んだ足跡を駆け抜けろ!!」
『応!!』
恐くても、無謀でも、迷わない。こうなったら死に物狂いで突っ走ってやる。
「な、何故一刀は敵軍に向かって行く!? 兵力の差が判っていないのか!」
民の不安と兵の疲労も最早限界に近づいていた、もう何度目かの功城戦。
明命の報せが届いた事を証明するように、十の軍旗を掲げた騎馬隊が魏軍の背後に現れ、我々の窮地を救った。
しかしそれを待っていたかのように現れた大量の魏の伏兵が、我らに撤退を余儀なくさせた。とてもまともに戦って勝てる数ではない、それを一刀も判っているはずなのに、彼は軍を反転させて魏の大軍に突貫していく。
わたしはその光景を、許昌城の城壁の上から呆然と眺めていた。
「………英断かも知れません」
「っ……どういう事だ!」
言い知れない苛立ちを、常と変わらず平静な思春にぶつけてしまう。あれが英断? 単なる無謀ではないか。
「仮に北郷がその背に“魏の大軍を引き連れて”許昌を目指したとして、蓮華さまは彼の者らを入城させましたか?」
「!? それ、は………」
わたしはこれまで状況把握に精一杯で、そんな判断をする余裕がなかった。
―――思い返してみても、あの時一刀が間に合っていたかどうか判らない。
「(間に合わなかったら、わたしは……どうしていた……?)」
口をつぐんだわたしが解を見つけるよりも早く、思春がその口を開く。
「蓮華さまが最終的に採るだろう選択を、北郷は悟ったのかも知れません。だから、我らを頼る事をしなかった」
「………………」
思春の言葉は、推測の域を出ない。当然だ。わたし達はそんな風に決め付けられるほど一刀の人となりを知っているわけではないし、一刀にとってもそれは同じだろう。
………止そう。今は、これから我々がどうすべきかを考えるべきだ。
我らの危機に駆けつけ、我らの心情まで見透かして一刀は魏軍へと立ち向かっていった。
………ならば、わたしの採るべきは――――
「(貴方が命を懸けてくれた好機を、最大限に活かす事………!)」
「すりー、つー、わん………ふぁいやー!!」
『ふぁいやぁああーーー!!』
風の号令に合わせ、虎牢関の城壁から矢の嵐が降り注ぐ。
決して少なくはない矢の雨は、しかし迫り来る津波のような群青の群れの前では霞んでしまう。
「むー………」
難しい顔で唸る風の眼下で、城壁へと辿り着いた魏兵らが犇めいていた。
彼らはその手に剣を持っていない。槍も、弓も、斧も持ってはいない。
その手に在るのは降り注ぐ矢を払い除ける盾と、泥を目一杯に詰め込んだ土嚢。
鎖を伸ばして城壁を登るでもない、破城槌で以て城門を破ろうとするでもない。魏の軍勢は土嚢を城壁に投げつけては後方の味方と入れ替わりに退がる、という作業を延々と繰り返していた。
矢に倒れた味方がいれば、その屍すらも土嚢の山の一部とし、城壁へと架かる山の礎とする。
「消耗戦を嫌がっているのは曹操さんの方かと思っていたのですが、はてさてー」
油を浴びせて火矢を射かけても、上から土嚢を被せて鎮火する。高く聳える虎牢関に対してこんな戦術が採れるのは、長い時に渡る準備と兵数の賜物。
「…………………」
風はしばらく考え込むように目を瞑り、そして開く。
「皆さん、虎牢関に火を掛けちゃってくださいー。少しでも魏軍の足を止めて、風たちは洛陽まで撤退するですよー!」
「し、しかし御使い様も趙将軍もまだ……!」
「お兄さんがいたらこうすると思うのです。ほら、敵が城壁を登り切る前に着火しますよー」
「わ、わかりました!」
関が、空が、紅く染まる。
戦いから逃れるために放たれた炎は、しかしこれから燃え上がる大陸の戦乱を表すように激しい紅蓮を灯していた。