「……これからどうなるのかなぁ」
いつもの仕事風景、いつもの執務室、いつもの顔ぶれ。蓮華と別れた翌日のそんな一時に、俺は少しナーバスな呟きを漏らす。
半分以上独り言だったのに、皆の瞳が一斉に俺に集まった。
「どうもこうも、曹操を倒せば終わりでしょう」
『仕事中だから』と装備している眼鏡を軽く押し上げた稟が、俺が言葉にしなかった部分も正確に読み取ってくれる。
「……今やこの大陸に、曹魏を越える王も勢力も存在しません。彼の国を打ち破る事が出来れば、太平はすぐそこです」
胸の前でギュッと両の拳を作る雛里にも、並々ならぬやる気が感じられる。
……確かに、前の世界でも白装束や周瑜が引っ掻き回したりしなければ、華琳と決着を着けた時点で大陸は平定したも同然だった(正確には、道士に操られた華琳を助けたんだけど)。
伯符と手を結び、蓮華も気を許してくれた(と思う)今、最大の障壁は曹魏だけ。
理屈は解るんだけど………
「うん、その曹操の出方がどうなるかなぁって思ってさ」
そう簡単に行くかどうか。前の世界でも華琳には随分苦しめられた。
気付かれないよう秘密裏に国境に兵を集めてたのも見抜かれ、勝った勢いで攻め上ったら補給路を断たれて追い返されたなんて事もあった。おまけに、兵法の基本である『敵より多くの兵を』って鉄則でも、悉く上をいかれていた。
そんな状況でも勝ち続けられたのは、間違いなく愛紗たちのおかげだ。
………そして、愛紗や鈴々、朱里に支えられていた桃香は、負けた。
「曹操さんもお兄さん以上にはいぺーすでぱーりーしてますからねー。いくら北を制したと言っても……というより、制した直後だからこそ今は動けないと思うのですよ」
「……風、解る言葉で話してくれる?」
やっぱりいつも通りにのほほんと、けど重要なアドバイスをくれる風の頬っぺたを、稟が手遊びのように引っ張る。
………華琳は今、動けない。俺たちも連戦続きだったとはいえ、魏ほど無茶な戦をしてたわけじゃない。
つまり――――
「攻めるなら今、って事か」
声が無意識に強張った。多分、顔もそんな感じ。
「……我が国も決して万全の状態とは言えません。でも、この機を逃せば魏は河北の豊かさを力に変え、太刀打ちの出来ない怪物へと成長するでしょう」
不安に揺れていた俺の言葉を、いつもは弱々しい雛里が力強く肯定する。
「(弱音吐いてられないな……)」
前の世界での俺の居場所にいる桃香が、俺が前の世界で勝てた華琳に負けた。
『俺がいたから前は勝てた』なんて馬鹿馬鹿しい自惚れは毛ほど持ってない。
今の桃香の傍には星も、恋も、翠も紫苑もいなかったんだ。それに華琳だって前の世界とは違う。
“世界が違う”。前みたいに上手く行く保証なんてないし、不安も当然ある。
でも………
「(ここにいる皆だって、愛紗たちと同じくらい頼もしいもんな)」
そう思ったら、不思議なくらいに緊張が抜けた。
「曹操はもはや漢王朝には屈するまい。貴様の裁量に任せる。朕の名を使って正義を名乗るも構わない」
「皇帝陛下のお墨付きか、心強いね」
「………貴様、からかっているのではあるまいな。いや、からかっているだろう」
「からかってなんかないよ。本当に感謝してる」
そうやって協君にもみあげを引っ張られて痛い思いをしていた時に、“それ”が俺たちを呼ぶ。
「(ああ……前の世界は、随分俺の都合のいいように流れてたんだな……)」
後に俺は、そんな言葉をしみじみと噛み締める事になる。
「………………」
迷っているつもりはない。私は華琳さまの剣であり盾。そもそも考える必要すらないのだ。主に使われる武具自体の意志など無用のものなのだから。
それでも、どこか憂いにも似た感情を抱きながら、私は城の回廊を歩いていた。
皆が事に備えて奔走し、民は明白な戸惑いと恐れを抱く中、華琳さまの姿は見えない。
別に何日も姿を消していたというわけではない。朝から一度もお見かけしていない、ただそれだけの理由で、私は無理矢理時間を作って華琳さまを探していた。
「(自室にも執務室にも玉座の間にも居られなかった。街に出られているなら、少し時間が足りないか)」
流石に街中を探すほどの暇はない。むしろ華琳さまが視察以外で街を回っているのなら私の心配は無用のものだったと結論づけて、私は城をもう一回りしようとして…………
「(あ………)」
その御姿を見つけた。広い庭園の中程にある東屋に座り、何か書物を読んでいるようだ。
「(休憩の妨げにならなければ良いのだが……)」
などと思いつつも、私はやや早足で華琳さまの許へと向かう。姉者と違って本心を“表に”出さない事には慣れてはいるが、さて。
「ねぇ、秋蘭」
「はい」
私が近づいてすぐ、華琳さまは書物に目を向けたまま私に声を掛ける。おそらく、私が華琳さまを見つけるより先に私の存在に気付いていたに違いない。
「私たちが立っているこの大地は、丸いのだそうよ」
「…………は?」
透明な笑顔を浮かべた華琳さまの脈絡のない発言に、私は無様な返答を返してしまった。
不覚……しかし、大地が丸い? どういう事だろうか。
「限り無く広がる世界に比すれば私たちは矮小に過ぎ、それゆえに大地の形すら解らない、という事らしいわね」
「失礼ですが……何の話か理解しかねます」
「読んで御覧なさい」
薄く笑って、華琳さまは読んでいた書物の表紙を私に見せる。これは……
「『天界常識論 “それでも地球は回る” 著・宝慧』……何でしょう、これは」
「音々音に借りたのよ。城の蔵書は全て読んでしまったしね」
何でもない事にように言ってのける華琳さま。しかし……これは……。
「まだ……あの男に拘っておられるのですか……」
「あら、妬いてくれているのかしら?」
「そこまで不遜……には“なりたくありません”よ」
「ふふ……正直な子は好きよ」
北郷一刀。思えば、華琳さまの様子がおかしくなったのも奴との接触がきっかけだったようにも思える。……ただ、それを言うなら“時代が動きだしてから”だ。考え過ぎだとは思うが。
「私との戦いで死に損なう事が出来たなら、この手にする価値はあるのか。それとも……手にした瞬間にその価値の全てを失ってしまうものなのか……。掴み取るまで解らないのが興とも言える。……見方によっては、これも執着というのかしら?」
常と変わらない余裕と覇気を纏わせて、華琳さまは私の眼を見る。……逸らせない。
「御意の儘に。華琳さまのお望みとあらば、彼の者の首を落とすも鎖に繋ぐも私たちが叶えましょう」
結局、私は出過ぎた言葉を飲み込む事にした。……いや、その必要性を感じなくなった。
「しかし華琳さま……この妖しげな教典に書かれている与太話を信じておられるのですか?」
「信じている、というわけではないけどね。作り話にしても、これだけ趣向を凝らせていれば中々面白いと思わない?」
「確かに」
二三、他愛ない話を続けてから、華琳さまは所用で席を外された。
立ち去る背中。小さな……しかし誰より広く大きく映るその背中を、私は静かに見送る。
「(心配、無用か)」
敵わない。絶大の信頼を伴った安堵を得て、私は決意を新たに進み出す。
秋蘭と別れ、再び一人になった華琳は……城の鐘楼の上、城壁よりもなお高いその場所に立っていた。
「………………」
少し冷たく、強い風に頬を撫でられて、少女はただ遠くを見る。
波紋一つ揺れない水面のように静かな横顔からは、一切の感情が読めない。だからこそ芸術とも見える一枚の絵画のようだった。
「己が立つ大地の事すら解らない、小さな人の身……か…………」
儚く、微笑む。やはりそこに心の揺らぎは広がらない。
「それでも、足跡くらいは見えるものね」
水のように、風のように、火のように、空のように、形は無く、しかし多様な顔を持つ。
「……ここまで来たのよ、引き返せない道を」
誰にともなく零れた言葉は、儚く、しかし深い。
遥か続く彼方を見つめる少女の心を、誰一人として知る術は無い。
―――その心を持つ少女自身にさえも。
いつものように朝起きて、以前は一人で食べていた朝食を食堂で誰かと摂る。
それは朝稽古で傷だらけになった一刀だったり、その一刀を叩きのめした趙雲だったり、食事の匂いに誘われてやってくる呂布だったり、時折学問を教えてくれる軍師たちであったりする。
拙く、質問ばかりで皆の手間を増やしながらも政務に携わる。しかしそれを活かさぬつもりはない。
一つ一つの事柄、文面に並ぶ一字一句について思考を巡らせ、考える。
役に立っているなどとは言えん。しかし充実した何かがある。
誰も近寄れぬ高貴な存在として“飼われていた”時とは違う、生きているという強い実感。
「(む………)」
不意に、これが夢だと気付いた。代わり映えせぬ日常を夢にまで見るとは、眠った気がせん。
苦笑混じりにそう思った瞬間、目に映る光景の全てが紅蓮の炎に包まれた。
夢だと判っているくせに、朕は無様なほどに狼狽えてしまう。
そして―――――
夢から覚めて、その先に見たモノを忘れた。