「親父、お茶とお菓子」
「へい」
見事に曹操にやられてからもう一週間。わたしは唯一とも言える長所の馬術で何とか生き延びていた。
城は落とされ領土は奪われ、もう一人の兵士すら傍にはいない。別に桃香を恨む気なんてない。
幽州軍だけで曹操に勝てたとは思えないし、本来桃香には直接の関係はなかったんだから。
「どうしてるかなぁ………」
わたしの騎馬隊は一撃離脱の奇襲戦法を取ってたから、桃香たちがあれからどうなったとかは全くわからない。
何もかも失って身一つになったわたしは、特にアテや考えもなしに南を目指して旅を続けていた。
今さらわたしに何か出来る事があるとは思えないし、生きてても虚しいだけのような気もしつつ、魏領にいたら危ないっていう漠然とした意識から旅を続けていた。
自分が君主の器じゃないって事は、もう身に染みて解ってる。再起したとしても無駄な犠牲が増えるだけ。
ならせめて、誰かに仕えて尽力するか? 桃香は行方すら知れない。孫策はちょっと信用出来ない感じがするし、北郷には……今さらそんな調子の良い事言えるわけもない(会った瞬間に捕まえられてもおかしくない)。
そんな……解の出ない自問自答ばかりを繰り返してる。
「はあぁぁ~~………」
酒でも呑みたい。軟弱な精神でわたしがそんな事を考えている時、それは起きた。
「この店に来るのも久しぶりだな!」
「まあ、この街に来る事自体久しぶりだからな。だがあまり食べ過ぎるなよ姉者、一息入れたらすぐに出発だからな」
「少し腹に物を詰め込んだくらいで音をあげるようなヤワな鍛え方はしていないぞ。桂花じゃあるまいし」
赤い服の女と青い服の女が、茶屋の扉を開けて入って来る……って!
「(おいおい嘘だろ!?)」
見間違えるはずがない。額から撫で上げた長い黒髪と蝶の眼帯、不自然に片側だけ長い水色の前髪、あいつら……曹操の腹心の夏侯姉妹じゃないか!
「(よりによってなんて奴らに……徐州の制圧に向かったって聞いてたから油断した!)」
どうする。こんな店の中じゃとても逃げられない。逃げ回った挙げ句に背中から斬られるくらいなら、いっそ正々堂々……
「お待たせしやした、お客さん」
「あ、ああ……ありがとう」
空気読めよ親父! 少しでも目立ちたくないのに!
そう思った時―――
「おーい、注文していいかー?」
夏侯惇の声が、親父を呼んだ。……つまり、わたしも見られた。
「(終わった……)」
どこか諦観にも似た気持ちを抱いて、わたしはゆっくりと振り返る。
「(………あれ?)」
夏侯惇は、何食わぬ顔で店主に注文をしている。夏侯淵も同じく。確実にわたしを視界に入れているはずなのに、何の反応も示さない。
「(もしかして……行ける……?)」
半信半疑に思いながらも、こんな所に居たんじゃ生きた心地がしなかったわたしは、さりげなく机の上に代金を置いて、そそくさと店を出て行こうとして………
「待ちなお客さん、勘定がまだだぜ」
「(親父ぃぃーー!)」
親父に肩を掴まれた。食い逃げ疑惑の掛かったわたしに視線が……あっ、今目が合った。終わった、絶対終わった。
そう……思ったんだけど……。
「代金なら机の上に置いてる! 釣りは要らないから!」
「おっと、そいつはすいやせんでした。しかしいいんですかい、菓子にも茶にも手ぇつけてらっしゃらねぇようですが?」
「急に体調が悪くなったんだ。失礼する」
そんな、すごく日常的な会話を経て………
「…………………」
わたしは何事もなかったように、死地から抜け出した。抜け出す事が出来た。造作もなく。
「(……いや、助かったんだけどさぁ)」
何か釈然としないものを感じながら、そんな現状はその先も続く。
「流琉ー! あっちに面白そうな店あるよー」
「待ってってば季衣!」
うわっ、あいつらも見た事あるぞ! とか。
「何でたまの休日にあんたなんかの顔を見なくちゃいけないのよ!」
「ねねは新しい天界本を買いに来ただけなのですっ、迷惑してるのはむしろこちらの台詞ですなー」
「何が天界本よ! あんたいつから敵の回し者になったの? 華琳さまに報告して死刑にしてもらわなくっちゃ」
「主殿ならとっくにご存知なのです。活躍を独占したいのは解りますが、過ぎた嫉妬は見るに耐えませんなー」
「何ですってこのちんくしゃ!」
「ちんきゅーきーーっく!!」
曹操の軍師だよな、あいつら! とか。
「沙和、真桜、お前たち、またこんな所で仕事を放棄していたのか……」
「おー凪、ええ所に! ちょい聞いてぇな~、この新しいからくり夏侯惇将軍なぁ~」
「もうずっとこの調子で語り続けてるの。沙和もう限界、凪ちゃん変わって欲しいのー………」
「お前たち………いい加減にしろーーー!!」
戦場で終われた事ある! とか思いながら、冷や汗を流す日々を送り………
「…………………」
………そして、結局何事もなかった。旅先でいちいち曹操の武将や軍師に出くわす運の悪さにも泣きたくなるけど……それ以上に………
「ちょっとくらい気付けよぉーー!」
そんなに影が薄いのかわたしは!? そんなに印象に残らないのかわたしは!? バッチリ視界に入ってるのに全然気付けないくらい地味なのかわたしは!?
街から外れた山道の真ん中で、わたしは絶望に打ち拉がれる。
見つかって殺されるのはそりゃ困るんだけど、ちょっとくらい、誰か一人くらい気付いてくれてもいいじゃないか!
確かに黄巾の乱の時も連合の時もこの前の戦いでも桃香のおまけっぽかったのは認めるけど……もうちょっと何かこう……ん?
「…………ーん!」
……聞こえる。叫び声? 女の子……しかも聞き覚えがあるような。
わたしは草の根を掻き分けて声のする方に進んでいく。乱世の混乱に乗じて好き勝手にやらかす外道はどこにだっているもんだ。
愛紗や鈴々と比べたら凡才もいいトコのわたしだって、そんじょそこらの山賊風情に負けるほど弱くない。
そして、見据えたその先で、桃色の影が勢いよく倒れた。
「きゃうっ!」
間の抜けた鳴き声と共につまづいた女の子は……
「(桃香……!)」
徐州を落とされてから行方知れずになっていた盟友……桃香だった。
安心感から何かが込み上げてきて、すぐにでも呼び掛けたいのに声が出ない。
でも、それがある意味で幸いした。わたしは状況を把握する機会を得た。
痛そうに膝を押さえながら振り返った桃香の視線の先に……“わたしは追撃者”の姿を見つける。
粗末な剣と鎧をつけた男が三人。……賊にも兵士にも見えない中途半端な出立ちだ。
「へへっ、ようやく捕まえたぜ、劉備さんよ」
「だからわたし劉備じゃありませんってば! え~と~~じゅりえっとです!」
「じゅ……? まあいいや。俺は昔、黄巾党にいたんだよ。遠目にだけど義勇軍の頭張ってるあんたを見た事もある。とぼけたって無駄だぜ」
「テメェの首を差し出せば、曹操さまからたんまり褒美が出るだろうよ。恨みはねぇが死んでくれ」
好き勝手にほざいて、男たちは剣を桃香に突き付ける。桃香も、腰の宝剣を構えて威嚇する。
わざわざ『劉玄徳』を捜し出して曹操に突き出そうなんて考える連中だ。それなりに腕に覚えはあるんだろう。そんな奴らが三人。……桃香には少し荷が重いな。
わたしは剣を片手に飛び出そうとして……思い止まった。
あれをやろう。
「何だテメェは!?」
「わたしの名は白馬仮面! 自らの白き輝きに薄められし影を取り返す事を誓った、復讐の戦士!」
肩に掛けた短い外套を翻し、同じく白い仮面で素顔を隠した女戦士が、桃香を庇うように前に飛び出す。
「………白バカ?」
「………白バカ?」
「そこで切るなよお前ら!」
男たちに混ざって、さりげなく桃香までが首をかしげながら呟いている事実が涙を誘う。
「だって、なぁ……?」
「じゃあいいよもう仮面白馬で。はい仮面白馬仮面白馬」
途端になげやりになる仮面白馬。昨今の不幸続きで些か以上に情緒不安定になっている。
気を取り直して、仮面白馬は剣を男たちに突き付ける。
「自分勝手な欲望のためにか弱い少女の命を奪わんとする外道共よ! この仮面白馬が、輝く蹄も高らかに成敗してやる!」
口上を終えると同時に、仮面白馬は踏み込んだ。普通の……しかし常人からみれば凄まじく鋭い斬撃が、先頭に立っていた男の剣を根元から切り飛ばした。
「せいっ!」
続けざまに振り上げられた爪先が、鈍い音を立てて男のこめかみを抉る。
何が起きたのかもわからない間に受けた衝撃と激痛は、男の戦意を削ぐには十分だった。
「ちきしょう! 覚えてやがれ!」
「何が復讐の戦士だ! 落ちぶれた太守なんざ庇いやがって」
「お前らなんか曹操さまに殺されちまえ!」
負け犬の遠吠えを残して去って行く男たちの背中を見送って、仮面白馬は剣を鞘に納める。
キンッ、と鳴る鍔鳴りの音がわざとらしいくらいによく通る。
「カ…カッコいい~………」
「ホ、ホントか!?」
しかし凛々しい雰囲気も一瞬。桃香のほへ~っとした呟きに、仮面白馬は喜色満面に振り返る。
「目立ってたか!? 地味じゃないか!? ちょっとは役に立ちそうか!?」
「はいっ、とっても目立ってましたよ、仮面白馬さん!」
満面の笑顔で手を握り合う二人の姿はどこか滑稽だ。何はともあれ、仮面白馬には長い葛藤の中で僅かな光を見る結果となった。
しかし………その後がいけなかった。
「そうかそうか! やっぱりお前はいい奴だなぁ、“桃香”!」
それまでにこやかだった桃香の顔が一瞬にして険しく曇り………
「勝手に真名を……」
桃香とは思えないキレの良い動きで握った手を掴み上げ、そのまま引いた腕を仮面白馬の体ごと背負い………
「呼ばないでください!!」
そして、仮面白馬の意識は暗転した。
彼女が気絶している間に、好奇心に負けた桃香によって“白蓮”の正体がバレた事は言うまでもない。