「………………」
……三国志なら、徐州を失った劉備は袁紹の所に身を寄せて、関羽はしばらく曹操の客将になって袁紹軍と戦う。そんな流れだったはず。
「………………」
でも、この世界では既に袁紹は華琳に攻め滅ぼされてるし、何の手掛かりにもならない。
「………………」
『前の世界』で『劉備』の立場だった俺の経験も、アテにならない。袁紹を滅ぼしたのも、華琳を打ち破ったのも俺たちだ。参考にすらならない。
「…………………」
前の世界とこの世界は違う部分もかなりある。だけど、『前の世界で俺が大丈夫だったんだから』って意識が心のどこかにあったのかも知れない。
「(愛紗……鈴々……朱里……桃香……それに伯珪……)」
皆の姿を思い浮かべると……月や詠とダブってしまう。
何とかする事が出来たんじゃないか、そんな……今さらどうしようもない事ばかりが何度も何度も頭の中で回り続ける。
そんな思考の海から…………
「お兄ちゃん、また暗い顔してるぅ。えいっ!」
やけに可愛らしい、聞き覚えのない女の子の声と………
「ふおぉおおぉお!?」
耳をついばむ柔らかい唇の感触が引っ張り上げた。
思わず自分でもよくわからん動きをした俺は、振り上げた足(ってか膝)を机の内側に強打して蹲った。……かなり痛い。
痛む膝を擦りながら恐る恐る振り返ったそこに――――
「ふむ……反応としてはなかなか悪くない」
何か満足そうな顔で頷いてる星がいた。……えっと………今の、お前か?
「さっきの『お兄ちゃん』て……星?」
「はて、何のことやら」
もったいぶった言い回しで笑みを深める星に、これ以上の追及の無意味を知る。
いや、それ以前に……
「一体いつの間に部屋に入って来たんだよ……」
ここは執務室じゃなくて俺の部屋。机の場所から扉は丸見えだし、星が入って来たらすぐに気付く。
「入るなら窓じゃなく普通に扉から入って来てよ」
「失敬な、私は普通に扉から入ったぞ。ご丁寧に“のっく”までして、な」
………え?
「マジでか」
「無論だ。いくら呼んでも反応がないから、思わずそういう趣向なのかと疑ったぞ」
どういう趣向だ、とは思ったけど、ちょっとツッコミ入れる気にならなかった。
つまり星は堂々とノックまでして扉から入り、堂々と俺の後ろに回り込んで悪戯をした。俺はそれに気付かなかった、と。
うっわ………
「……おぬしに“気にするな”、と言うのも無理な話か」
「ごめん………」
おどけた態度から一転。星の紅い瞳が真っ直ぐに俺の目を見る。よくわからない気持ちのまま、俺はほとんど反射的に謝っていた。
「謝らずとも良い。……それに、妙な強がりをしなくなっただけマシよ」
「星に隠し事は出来ないもんなぁ」
「よく言う」
じとっとした眼でたっぷり十秒俺を睨んだ星は、軽く肩を竦めて硯に水を流し……ておいっ!
「何やってんだ!」
「身が入らぬ内にやる仕事など非効率甚だしい。こんな美人が気晴らしに付き合ってやるというのだ、もう少し嬉しそうにしろ」
「強引に話進めるなよ!?」
俺の首根っこを掴んで引きずっていく星。こんな強引なのも珍しいけど……やっぱり気を遣わせてるのか。
「……案ずるな」
小さい呟きが、それでもはっきり耳に届く。
「あの者らは、そう簡単に天運に見放される輩にござらんよ。それは一刀……おぬしが一番良く解っているのではないか?」
声音だけを聞けば、余裕を持っているようにも聞こえる。だけど俺を引きずる星は振り返らない。目を見せようとしない。
……それだけで、解った。
「……ああ、そうだな」
気休めでしかないのかも知れない。いや、気休めだと思う。
それでも、不安や絶望に呑まれないためには、信じるしかない。
確信も根拠もない。それでも信じる事しか出来ないなら、信じよう。
「(愛紗……鈴々……朱里……伯桂……桃香……)」
―――必ず生きて、また会えるって。
「ぐすっ……うぅぅ…………」
「朱里ちゃん、元気出して? ね?」
魏軍との戦い。進路も退路も断たれて陣形を崩された無茶苦茶な乱戦の中で、わたし達はただ生きる事だけを考えて必死に逃げ延びた。
勝つどころか、桃香さまの安否を確認する余裕すらなくて、わたしと文ちゃんが助けられたのは一番近くにいた朱里ちゃんだけ。
「あたいらだって生きてんだから、絶対愛紗や鈴々だって逃げるくらい出来てるって!」
「………桃香さまと白蓮さんは?」
「それは………わかんない?」
「うわぁああ〜〜ん!」
そして、戦場から逃れて徐州を目指す途中に立ち寄ったこの村で、わたし達は徐州が曹操さんに落とされた事を知った。……って言うか文ちゃん、もっと気を遣ってあげなきゃダメじゃない。
「大丈夫大丈夫! あたいと斗詩だって麗羽さまがどこ行ったかなんて全っ然わかんないけど、死んだなんて思ってないぜ?」
………麗羽さまと桃香さまを同じ感覚で語るのは何か違う気がするけど、朱里ちゃんは顔を上げてくれた。
文ちゃんは気を遣ってるとかじゃなくて本気でそう思ってるから、そういう言葉は却って心に響く。
文ちゃんの能天気を、わたしも少し見習った方がいいのかな……。
「……軍師失格です。義勇軍の頃から桃香さまや皆で築き上げてきたもの……全て失ってしまいました。こんな結末を迎えないために知恵を搾るのがわたしの役目なのに……」
最近気付いたけど、朱里ちゃんって結構卑屈。しかも思い詰める性格みたいで、一度沈んだらどこまでもどこまでも落ちていく。
「(まあ、今回ばっかりは堪えるか〜………)」
昔からの仲間は誰一人生死すら判らない。今まで積み重ねてきたものも全部奪われて、傍にいるのは降将で付き合いの短いわたしと文ちゃんだけ。
「(麗羽さまも、今の朱里ちゃんみたいな気持ちだったのかな……)」
急に心配になってきちゃった。何だかんだで元気にやってる気しかしないけど、あれで寂しがり屋だし。
それに、麗羽さまから見たらわたし達って死んだ風に思われてるのかも……。
麗羽さまがそういうのをどう考えてるかとかは、さっぱりわからない。
でも……今は朱里ちゃんを元気づけなきゃ。
「そんな事ないよ。朱里ちゃんの策が無かったらわたし達、曹操さんに太刀打ちなんて出来なかったもん。一人残らず皆殺しにされてたかも」
「そーそ。何はともあれこうして生き残れたんだし、もっと景気の良い顔しろって! なっ?」
「はうっ!?」
わたしの言葉尻に繋いで、文ちゃんが元気一杯の笑顔でバンバンと朱里ちゃんの背中を叩く。便乗して、わたしも朱里ちゃんを背中から抱き締めてみる。
「ああっ! あたいのおっぱいが〜〜!」
「文ちゃんのじゃないってば〜………」
「はわっ、はわわわ………!」
何だか目を回して慌ててる朱里ちゃんの頭を、帽子越しに撫でる。
「(可愛いなぁ……)」
妹とか出来たら、こんな気分なのかも。
「文ちゃんじゃないけど、ここは素直に喜ぼうよ。生きてさえいれば、やり直せる事もいっぱいあると思うから」
口に出したら拗ねちゃいそうだけど、正直子供に言い聞かせるみたいな気持ちで語り掛けた。
そうして、朱里ちゃんはしばらく黙り込んで……
「くすっ」
小さく笑って、わたしの胸から飛び出して、振り返った。
「その通り……ですね。過去の失敗を教訓にするのは大事な事ですけど、そこで歩みを止めるわけにはいきません」
わたしの言葉を、わたしが込めた以上の意味で受け取っちゃったらしい朱里ちゃんの顔が、良い意味で強張ってる。
「桃香さまがわたしが見定めた通りの御方ならば、猪々子さんの言う通り、きっと生きています。まだ……諦めるには早すぎるのです!」
「おー!」
「お、おー!」
何かに火が点いた朱里ちゃんに、文ちゃんがノリノリに、わたしがちょっと戸惑いながら乗る。
……少しは元気、出たのかな。
「おっちゃん、春巻と焼売を十個ずつ追加なのだ!」
「こら鈴々、そんなに食べるな! 宿代が無くなるではないか!」
「そうなったら野宿すればいいのだ。鈴々は食だけあれば生きていけるもんね」
「獣かお前は!」
悲しむ暇も無いとはこの事だ。徐州は落とされ、桃香さまや朱里たちの行方も知れないというのに、鈴々のあまりに呑気な態度に引き摺られて感傷にも浸れん。
しかし、緊張感の無さを叱り飛ばす気になれないのも事実だった。……義姉として、若干の引け目がある。
『止めるな鈴々! たとえ敵わずとも、我らの思いの丈を我が青龍刀に乗せて魏の分からず屋共に刻みつけてくれる!』
『お姉ちゃんは絶対こんな所で死なないのだ! これからも頑張らなきゃいけないお姉ちゃんの傍に、愛紗がいなくてどうするのだ!!』
……武人として潔しと、安易な討ち死にを選ぼうとしていた私を止めたのは、普段私が口うるさく説教をしている鈴々だった。
何より……鈴々の方が桃香さまを信じ、そして諦めていなかった。
今は、あまりしたり顔で小言を並べるのも憚られる。それに……気楽に振る舞ってはいるが、鈴々とて桃香さま達の事が心配ではないはずがない。
わざわざ口に出して確認するまでもなく、私たちの当面の目的は桃香さまとの再会だ。
しかし………
「………………」
手掛かりなら、ある。徐州という帰るべき場所は失ってしまったが、行く場所が無くなったわけではない。
つまり、桃香さまならどこに行くか、を考えればいい。
生きていない場合の事など考えない。もしもの時はあの時の誓いに準ずるだけだ。
死す時は同じ。冥土の果てまで御供するまでの事。
しかし………
「………………」
心当たりならある。あまり考えたくはないが、桃香さまが真っ先に向かいそうな所がある。
……そして、朱里もきっと同じように考えるだろう。
「……ご主人様」
「にゃ?」
何故か意味不明な言葉を漏らした自分の口を、私は慌てて塞いだ。