「皆、行っちゃったのか………」
伯符の所に援軍の要請に行ってくれた散が戻って来て、オーケーが出たと判った途端に星たちは出陣した。
俺は見送りもさせてもらえなかった。代わりに、皆が顔を見に来てくれたくらいだ。
鍛練で圧倒された挙げ句に池に落ちて寝込んでるって、自分でもかなり情けない。
「“行っちゃった”とは何ですか。袁術を討つと決めたのはあなたでしょう」
「うぅ……ごめん……」
出陣どころか仕事一つ出来ない。今は稟が俺の部屋の机で政務をやりながら………合間を見ては俺の様子も見てくれてる。
文字通りに頭が上がらない。なんかぐらぐらするし、喋ってる自分の声すら頭に響いて気持ち悪い。何より体がだるい。
いや違う違う、今は稟や皆に申し訳ないって話で。
「……仕事、忙しい?」
「戦時下な上、人手も足りないんです。忙しくないはずがないでしょう」
気になって声を掛けたら、思わぬカウンターが。申し訳ない以上に居たたまれなくなって、俺はのそのそと布団から這い出した。
稟がこの部屋で仕事してるのは、もちろん俺の看病のためなんかじゃない。そういうのは侍女の人がやってくれてもいいし、ぶっちゃけ寝てるだけなんだから放置してくれてもいい。
稟がここにいるのは、稟が俺より遥かに有能だろうと、形式の上で俺の了承が必要な書簡とかがあるからだ。
「…………あれ?」
……別に、それでも稟がここで仕事する必要なくないか? 俺の了承が要るのなんて後でまとめて持って来てくれればいいんだし。
「何を起き上がっているんですか?」
「うおっ……!?」
熱に浮かされた頭でちょっと考え事をしてる間に、机に座ってたはずの稟の顔が目の前にある。
「眠くないのは解らなくもありませんが、それでも横にはなっていて下さい」
「…………はい」
有無を言わさぬ半眼で睨まれて、俺はおとなしく寝台に戻る。……怒ってる、んだよな? なのに微妙に上機嫌に見えるのは気のせいか。
「少しは熱は下がりましたか?」
横になった俺の額に手を当てた稟は、ふと気付いたように手を引っ込めた。まあ、手袋してたら体温計れないしな。
「じっとしていて下さい」
だから、手を引っ込めた稟は手袋を外すのかと思った。でも、稟は手袋ではなく眼鏡を外して………
「ッッ!?」
自分の額を、俺の額にコツンと当てた。俺はあまりに予想外な稟の行動に呼吸を忘れる。一歩間違ったら、簡単に口と口が触れ合ってしまうほどの近距離。俺の視界には、瞳を閉じた稟の目蓋しか見えない。
「………まだ熱いですね」
息が詰まるような……いや、正しく詰まっていた数秒を経て、目の前で青い瞳が姿を見せ、そして呆気なく離れた。
……風邪じゃなくても、頭部が熱いのは仕方ないと思う。
「(にしても………)」
髪を下ろした、眼鏡も掛けていない稟を見つめる。まあ、女の子がイメチェンするのがおかしな事とは思わないけど……稟ってちょっとお堅いから違和感が………。特にグラスレスに。
「何ですか?」
「い、いや……何でも…っ…ごほ、げほっ!」
胸の動悸を悟られないように咳払いで誤魔化そうとしたら、本気で咳き込んでしまった。落ち着け、俺。
「………………」
いつも所構わず鼻血出す稟が、あれだけ俺に接近して平然としてる。………俺だけドキドキしてるのが馬鹿みたいだ。
「……私と二人では、落ち着きませんか?」
「………え」
見透かすように言葉を零した稟が、踵を返して部屋から出ていく。俺はその背中を何がなんだか解らないまま見送って、追い掛けようとして、思った以上に動いてくれない体に気付いて、止める。
稟の眼鏡も仕事の書類も机の上に置きっぱなしだ。すぐに戻って来るだろう。
「…………………」
稟の負担、出陣した星たち、この動きに対して諸公がどう動くのか、色んな悩みの種を飲み込んで、今はさっさと風邪を治そう。
白衣の天使が戻って来るまでの間に、俺はそんな風に自分の中で結論づけた。
「一刀が動いた、か。それじゃこっちも、予定通りに事を進めましょう」
一刀の使者から開戦の報告。密偵から、豫州の兵が西方に向かって大規模に動き出したって報告が同時に入った。一刀が宛に攻め込み、袁術が援軍を呼んだって事ね。
「北郷が袁術を攻めて兵を宛に集める。我らは手薄になった豫州を呑み込み、隙あらば宛に向かう豫州軍の背後を突く。こちらにとっては良い事尽くめね」
「“そっち”じゃないわよ。なに腹黒く考えてんだか」
「やる事は一緒でしょ。私だけ悪者みたいに言わないで欲しいものね」
冥琳の言う事ももっともだし、一刀が兵を出せば連動して動くって手紙に書いたのは私。でも、私が言いたかったのはそっちじゃない。
「ね、姉さま……。本当に五万の兵しか連れていかないおつもりですか?」
「あら、私が冗談言ってるように見えた?」
「そ、そうではなく……いかに北郷と挟撃を掛けるとはいえ、もう少し連れて行かれた方が………」
蓮華は私たちの身を案じてるんだろうけど、残念ながらちょっと的外れかな。
「権殿、今はご自分の心配をなさった方が良いな。権殿の役目、よもや忘れたわけでもあるまい?」
「そ~そ、さっき冥琳が言ってたみたいに、私たちの方はかなりおいしい条件で戦うんだから、心配なんていらないわよ」
淮南に集めた兵力は、総勢で十四万。この内五万しか袁術にぶつけないのには、徐州の劉備に備えるって以上の理由がある。
「これから先の呉の安寧のため、重要なのはあなた達の働きの方よ。わかってる?」
「うんっ♪ 心配しないで、蓮華お姉ちゃんにはシャオがついてるんだから!」
「あら頼もしい。蓮華も見習わないといけないわね?」
末の妹、小蓮。
「お、お任せ頂いた大任に、お寄せ下さった信頼に、我が全力でお応えします!」
新参の軍師、亞莎。
「当然です。姉さまに任されたこの呉、必ず守り抜いて見せます」
そして、おそらく私以上に王としての資質を備えた妹、蓮華。
「穏、蓮華たちを支えてあげてね。私たちがいない所で軍を任せるのは初めてだし、緊張しちゃうと思うから♪」
「はいはーい♪ お任せくださーい」
この三人は、呉の新星。私や冥琳にもしもの事があれば、この呉を背負う者。もしもの事が無くても、“世が世なら”私よりも呉の王に相応しいはず。
江東には豪族が多いし、私の武力制圧に不満を抱く輩も多い。だから私が兵を率いて国を空ければ、野心を抱く者は必ず発起する。
今回の出撃で一番大事なのは、袁術を倒す事でも、豫州を手に入れる事でも、内側の不穏分子を取りのぞく事でもない。
小覇王・孫策がいなくても、呉は崩れない。江東には虎の娘、孫仲謀ありと知らしめる事。
「じゃ、呉の未来は若い者に託して、私たちはお友達との約束を果たしに行きましょ」
豫州を通じて十と繋がれば、これからの呉の発展にも繋がる。……一度、蓮華と一刀を会わせてみるのも悪くないかも知れない。
「大変です! 陛下! 大将軍!」
「何じゃもう、朕は今おやつを食しておる所なのじゃぞ?」
玉座で何もしないで杏仁豆腐をパクパク食べてるお嬢様を眺めていると、いきなり兵隊さんが駆け込んで来た。も~、お嬢様ったら『朕』だって、相変わらず似合ってなくて可愛いぞ☆
「それどころではありません! 北方より十万を越える大軍が怒涛の勢いで攻め込んで来ています! 早くご指示を!」
わー、たいへんだー。……え?
「なっ、な……何じゃと!? 朕は皇帝なのじゃ! この大陸で一番偉いのじゃぞ!? なのに何故朕の国が攻められねばならんのじゃ!?」
相変わらず思い込みの世界で生きてる美羽さまは可愛くて仕方ないんだけど……ちょっと洒落になってないかなぁ……。
「北って言うと、北郷さんですよね? 関の兵隊さんは一体何をやってたんですか?」
「何の連絡も無いうちに、突然現れたのです。おそらく、一人残らず捕われたか……殺されたか」
敵は十万以上の大軍。全く抵抗せずに降伏って所かなぁ。美羽さま人気無いし。
「とりあえず、大至急豫州の方に援軍の要請に行っちゃってください。とても宛の兵力だけじゃ持ち堪えられませんから」
「は……はっ!」
けど、それって別に北の関に限った話じゃないんだよねぇ。うちの今の兵力……六万くらいだっけ?
「七乃よ! 身の程知らずの反逆者に目にもの見せてやるのじゃ!」
「いやぁ~~、それちょっと、っていうか絶対無理ですってばぁ~………」
相手はよりによって天の御遣いだの地獄の使者だの暴君だの魔王だの、大仰な仇名ばっかり持ってる大陸最強の北郷軍。……援軍が来るまで持ち堪えられれば恩の字じゃないかな~。
「何を弱気な事を言っておる! 朕は仲国の皇帝、七乃はその大将軍じゃぞ!? 懲らしめて懲らしめて、二度と朕に逆らえないようにたくさんおしおきしてやるのじゃ!」
「だから無理だって……」
「何か言ったかえ?」
「いえ、何も。頑張ってきまーす♪」
こうなったら、戦うしかないかー。とりあえず出鼻だけ挫いてさっさと尻尾巻いて城に逃げちゃおう。冬だし、籠城した方が絶対向こう嫌がるはずだし。
「頑張れ七乃! 負けるな七乃! 朕をしっかり守るのじゃぞ!」
美羽さまの声援を背中に浴びながら、私は兵隊さんと一緒に玉座の間から出る。そしてしばらく歩いて城壁の上に来て、遠くに薄ら見える影を捉えた。……あれ、全部敵兵? 十万どころか十五万くらいいそうなんですけど………。
「あのー、ちなみに敵将が誰とか解ります?」
「出城の物見の報告によると、趙、華、程、鳳が二色、深紅の呂旗も確認されています」
「………………」
あははははは♪ ………美羽さま連れて逃げる準備しとかなきゃ……。