窓越しに月明かりの差し込む寝台の上、まだ薄暗い夜半に、少女の目蓋がピクリと動く。
誰かに起こされたわけでも、おかしな気配を感じたわけでもない。何となく目が覚めてしまったのだ。
薄く開かれた紅い瞳、月明かりに輝く水色の髪。趙雲こと、星である。何故か覚醒してすぐに目が冴えてしまった彼女は、枕代わりにしていた男の二の腕で頬を擦った。
白い寝台と白い布団に覆われた二人は、一糸纏わぬ生まれたままの姿。
「(………一刀)」
少し顔を上げて、愛しい主君の顔を眺める。安らか……とは言えない寝顔に手を伸ばして、掌を頬に当てる。
「…………………」
月は、詠は、一刀を暴君に仕立て上げて保身を謀り、逃げた。少なくとも星は裏切りだと感じ、他の皆も同様の気持ちを抱いた。
しかし一刀は、そんな二人の為に涙を流し、傷ついた。君主としては不器用に過ぎる。
「(だからこそ、か………)」
今この時も強く惹かれる自分の心を見つめて、星は微かに自嘲する。まったく厄介な男に惚れたものだ。
「(………そう、“だからこそ”)」
裏切った仲間の死でさえ傷ついてしまう一刀だからこそ、仲間に心配を懸けないために心を押さえつけてしまう一刀だからこそ、そして……そんな一刀を愛したからこそ、放っておけない。
「………お前はお前のままでいい」
見上げていた頭を優しく引き寄せ、掻き抱く。
格好悪くてもいい、情けなくてもいい、八つ当たりをしてもいい、ただ……強がらないで欲しかった。
在りの儘の一刀でいて欲しい。もし傷ついてしまっているなら、自分の全てを使って癒してやりたい、慰めてやりたい。
どうしようもないほど、狂おしいほど、張り裂けそうなほど溢れだしてくる想いを、星は穏やかな微笑みとして現す。
いつしか、眠ったままの一刀の腕が星の背中に回されていた。無意識ゆえか、一刀は子供が泣き付くように目の前の胸に顔を埋める。
「私たちが、ついているからな………」
子を慈しむ母親のような微笑みと手つきで、星は一刀の背中や頭を撫で続けた。
―――いつまでも、いつまでも。
「………え?」
星が部屋に忍び込んでた翌日の朝、執務室に直行した俺に告げられたのは、全く予想だにしない言葉。
「だから、今日は一刀殿の仕事はないと言ったんですよ」
扉から入った途端、稟、風、雛里の三人でバリケードみたいに壁を作って、そんな事を言ってくる。
「……でも、ならその机の上に積んでるのは何だよ」
「あ、あれはわたし達の担当です。ご主人様にお手伝いして頂く事は……」
「俺の分担ないんなら分けてよ。手伝うから」
「兄ちゃん、これ読めるかい?」
昨日は俺も含めて皆随分気合い入れて仕事やってたのに、何でいきなり? 風に到っては、紙切れに大きく文字を書いて見せてきた。
「『空気』。……俺、空気読めてない?」
「全然ですねー。そこで普通に読んだ挙げ句わざわざ訊き返すあたり、かなり読めてません」
そのまま三人揃って俺をぐいぐいと押して、執務室から締め出した。
「何なんだよ……」
『仕事あるか?』って訊いて『空気読め』って返って来たって事は、実際には仕事があるって事……だよな。
つまり仕事はあるけど、俺にはやるな、と。
「………気遣わせちゃったのか?」
非番でもないのに無理矢理休ませられるってのは、そういう事じゃないのか。もしかして星も……その時の俺はそんな風に考えていたのだが―――――
中庭に行けば…………
「お~っと、手が滑った~」
足を踏み入れる前に散の短戟が飛んで来て、危うく刺さる所だった。
厨房に行けば………
「見るなぁああーー!!」
俺が入ったのが女湯か何かかと錯覚するくらいの勢いで、舞无に追い返された。
仕方ないから自分の部屋で一休みしようかと思ったら………
「立ち入り禁止や」
何故か霞が門番になっていた。
「今日は忙しい。暇を持て余しているなら、たまには街に出ればどうだ。視察や警邏ではなく、な」
協君にまで締め出される始末。何だか城のどこにも俺の居場所がない気がして、協君に言われたままに街に出たら…………
「ご・しゅ・じ・ん・様ぁああ~~ん☆」
貂蝉に、珍しく本気で追い回された。
最初は休め、っていう無言のサインなのかと思ってたけど、やっぱり違う気がする。全然休めてないし。
「(ホントに、何なんだ)」
心配懸けてたんなら情けない、とか思ってたのが馬鹿みたいだ。……むしろこれは、避けられてるのか? いやいや、だったらいくら何でも俺の部屋からまで締め出されるわけがない。
「…………あ」
貂蝉から逃げ回って歩いていたその場所には、見覚えがあった。そういえば、随分久しぶりに来る気がする。
「恋ん家か」
今日は恋に会ってないし、当然追い返されてもいない。居ないかも知れないとは半ば思いながら、俺は庭に足を踏み入れていた。
…………………恋?
「……っちゃぁ」
すっかり、忘れてた。去年は黄巾討伐の旅の途中でそれでころじゃなかったけど、忘れてたわけじゃなかったのに。
「(そりゃ、おかしいって言われても仕方ないよな)」
要するに、そんな大事な事も忘れてしまうくらい、俺は余裕がなかったって事だ。
特に意識してたわけじゃないけど、自分の事で手一杯だった……いや、自分ばっかりだった。そういう事になるんだろう。
「………………」
急に、怖くなった。漢中からの俺は、一体皆の目にどんな風に映ってたんだろう。………幻滅されてたり、するんだろうか。
さっき僅かに頭を過った『避けられてる』ってイメージが、急に現実味を帯びる。
「恋ー、恋ー!」
それはそれとして、今は恋だ。プレゼントは用意してないけど、丁度暇だし………
「…………丁度?」
……いや、考え過ぎだろ。霞も舞无も知らないはずだし。俺も言った憶えはない。
返事の代わりにやってきたセキトに裾をくわえられて、俺は屋敷の中にお邪魔する事にする。
居ないかも知れないと思ってたけど、この様子だと多分居る。セキトがただ戯れつくんじゃなくて、引っ張って中に連れ込もうとしてるから。
「…………恋」
そして、やっぱり居た。まだ寒い季節だからか、広い居間のような部屋の中で動物たちに埋もれて、恋は丸くなっていた。
「……………はぁ」
気が抜けたって言うか、何て言うか。『前』は自分からアピールするくらい意識してたのに、今の恋は全く無頓着だ。
………或いは、そんな気分になれないのかも。恋は純粋な分、月と詠の事で傷ついていそうだから。
「……ゆっくりおやすみ、恋」
起こすのも可哀想だ。今は気持ち良さそうに寝ている恋の頭を撫でて、起きたら城に連れて行こう。
今日、俺を無理矢理休ませたお返しに、皆の仕事も一休みさせて、大騒ぎしてやろう。
『前』だって判明したのは急な話だったんだ。やってやれない事は無い。
「…………♪」
僅かに頬を緩める恋の寝顔を見ていたら、時間が経つのなんてあっという間だった。
「目標は屋敷を出発。腕など組んでイチャつきながら街に直行。今さら思い出したようで、点心を大量に買い込んでました。このぺーすだと、も少し急いだ方が良さげかな、と思います」
見張り担当の散の報告を受けて、舞无と雛里の包丁捌きが加速する。二人のやる気の矛先が活かせる結果となったのは歓迎すべきか。
「む~……お兄さんが思い出したとなると、せっかくのさぷらいずが台無しになってたりしませんかねー?」
「あれで気配りは出来る方です。思い出したというなら尚更、気取られるような軽挙は慎むと思いますよ」
中庭に場所を移すと、見えない一刀の動向を考察する風と稟。この時の為にと頑張った二人の仕事の速さには感服する。
「さて、後は料理が出来るのを待つばかりか」
かくいう私も既に兵の訓練を終え、秘蔵のメンマを用意している。
「あーーーーっ!」
どことなく昂揚するような空気を、霞の大声が台無しにした。まったく無粋な。
「どうした、藪から棒に」
「酒! 酒の用意が出来とらんねん!」
なん……だと……?
「風~、酒の用意は出来とらんの?」
「今日の主役は酒呑みませんしねー」
「く……っ」
何という……。そうだ、そもそもこの陣営の重鎮は、どちらかと言えばあまり呑まない者が多い。
「来ましたよ」
中庭の壁の上に立っていた散が、主役の到来を告げる。不覚……! 時間切れか! あまり上質とは呼べないが、貯蔵庫の酒で我慢するしかない。
酒の代わりに涙を呑んで、私と霞は二人の到来を待つ。二人より僅か早く前菜を運んできた舞无と雛里、そして風と稟も同様。
私が張った幕を開いて、姿を現した二人に―――
『誕生日おめでとう!』
祝いの言葉を浴びせた。む、恋の驚く顔など、何とも珍しい。
「な、何で………?」
先手を打たれて狼狽える一刀。こういう間抜け面を見るのも久しぶりか。
「自分が気を遣われた、とでも思いましたか? 自意識過剰も甚だしいようで、なるしすと」
「お、思ってない! そうじゃなくて、俺……言ったっけ?」
「それを自意識過剰というのだ。恋の事は自分しか知らないと思っている辺りが、な」
つい嬉しくなって、散と一緒になって苛めてみる。……と、そこで天から声が降って来た。
「わ・た・し・よん!」
幕を軽々と飛び越えて、重々しい塊が中庭に落ちて来た。招かざる客……と言いたい所だったが、その背中には………
「おっ……おぉっ!」
「酒やぁー♪」
風呂にでも使えそうな大きさの酒壺。しかもこいつは中々酒の味を解する人間(?)。前言撤回、よく来た貂蝉。
「……完全にダークホースだった」
「……黒馬、でしたっけ?」
わけのわからん事をぼやいている一刀と風の後ろに、私は見た。
「……………ありがとう」
私の眼にもはっきりそうだと判る、恋の笑顔を。
どんな憂いも悲しみも払い清めてしまうような、純粋無垢な笑顔だった。
(あとがき)
原作無印では、恋が川で泳いでたから恋の誕生日は冬ではないと思いますが、本作ではこの時期となってます。そもそも原作では季節が変わらないから何とも言えませんが。