『この好機を逃す手はありません。主殿、いざ出陣のご命令を!』
勇ましく最初にそう進言したのは、音々音だった。それに春蘭が大喜びで賛成した。
『待て、ねね。西には北郷、東には陶謙、南には袁術がいるんだぞ。いくら冀州の袁紹が公孫賛との戦いで手薄になったとて、そう軽々と動けるのか?』
そう非を唱えたのは、秋蘭だったかしら。凪たちはああいう場面で自分から口を出さないのが珠に傷ね。
『北郷は西涼、漢中と西方の連戦に力を注ぎ、とてもエン州に出兵する余裕はないのです。陶謙は自ら戦を仕掛けるほど好戦的な君主ではなく、袁術にはこちらの隙を突けるほどの器量はありません。そして顔良や文醜は公孫賛、劉備と交戦中。これほどの好機は二度とないですぞ!』
秋蘭に体全体を使って反論する音々音の言葉が、少し癇に障ったのを覚えている。
『ちょっと待ちなさいよ! 好機好機って言うけど、わたし達だってエン州を平定したばかりでとても万全とは言えないわ。………それに、華琳さまに火事場泥棒になれと言いたいの?』
『っ桂花、貴様! 華琳さまを愚弄するか!』
『………少し黙りなさい、春蘭』
私を慕うゆえに正確に私の懸念を口にした桂花に、何も判らないままに噛み付く春蘭を、私はいつになく余裕なく制した。
平たく言えば、不機嫌だった。
『桂花の言う通り、それが世間の風評でしょうね。……音々音、桂花の言についてはどう思う』
もう反北郷連合の時のような無様は晒さない。誇り高い覇道を進む。そう自身に誓って、あの男にも誓った。
だからこその、不快。
『それでも攻めるべきだと思います。群雄割拠の今、名よりも実を取るべき時なのです』
それを理解しているからこその、不快。
『己の沽券に囚われて起つべき時を逃すのは、誇り高い王ではなくただの見栄っ張りなのです』
攻めるべきだと解っている。攻めたくないと思っている。そんな二律背反した気持ちを僅かに残して――――
「………………」
私は、ここに立っている。
城壁から見渡すのは、先ほどまで闘争に満ちていた戦場。麗羽の無能な指揮の下に大敗を喫し、次々と白旗を上げて降伏し、果ては内側から城門を開いた………名門袁家の金色の軍勢。
戦いの最中にそんな事に気を取られていたわけもないけれど、こうして戦が終息に向かう今になって、少し己の心に向き合っている。
「(誇り、か………)」
音々音の言葉には理がある。外聞を気にして虚勢を張る者より、己を信じて胸を張る者の方が遥かに気高く、美しい。
それでも、私は何かが引っ掛かっている。……私自身の心が、この結末に納得がいっていないのかも知れない。
「(迷っている暇は、無いわね………)」
私が大陸を統べ、広がり満ちる平和な世界。その時こそ、それこそを、何より大きな誇りにすればいい。
その半刻後、独り孤立して逃走を図っていた袁紹を追跡していた春蘭から、『突然渓谷に落ちた雷によって岩崩れが起き、袁紹を取り逃がしてしまった』という旨の報告を受けて、華琳は旧知の理不尽な天運に呆れ果てたという。
―――あれから、馬騰の墓参りに行くという散を、新たに西涼の太守を任された馬超、馬岱共々見送って、私たちは今、洛陽に帰る途中、長安に滞在している。
「(落ち着け、私……)」
そして今、私は……一刀殿の部屋の扉の前に立っている。
二人の変わり果てた姿を目にした翌日。一刀殿は………少なくとも、傍目には平静を取り戻していた。
しかし……最初の様子から見ても、一刀殿本来の性格から見ても、たった一晩で気持ちを整理出来たとは考えにくい。
一緒にいた霞が何らかの支えになったとしても、だ。
「(今、本当の意味で平静なのは私か、風)」
二人と洛陽で共に過ごした時間も大して長くもない。互いに複雑な立場だったから親交も深めていない。
これまでは、腫れ物を扱うように極力話題を避けてきたけれど、いつまでもこのままでいいわけがない。
……洛陽で星や雛里……そして恋と再会するまでには、一刀殿を立ち直らせないと。
「(………よし)」
自分を鼓舞するように握り拳を作った私は、そのまま扉を軽く二回叩く。『のっく』と言う、天界に於ける礼儀作法のようなものだそうだ。
「開いてるよ」
危惧していたものとは異なる、到って普通な声に呼ばれて、私は扉を開いて中に入った。
「…………………」
部屋に灯りは点いていなかった。だが、十分に明るい。全開にした窓から差し込む月明かりの中に椅子を移して、一刀は腰掛けていた。
「……珍しいですね。一人で酒飲とは」
「たまにはね。……あ、寒いなら窓閉めようか?」
その手に杯はなく、徳利だけが軽く持たれている。私に気を遣って立ち上がろうとする一刀殿をやんわりと制して、私は歩み寄る。
一刀殿が座っている位置からは月は見えない。淡い月光の中に居たいだけのようだった。
「呑む?」
「付き合いましょう」
仄かに赤みの差した顔で、一刀殿は徳利を左右に振る。私は机の上に使われる事なく置かれていた杯を取って、差し出した。
星や霞に付き合ったり、皆で酒宴を開いたりする事はあっても、一刀殿がこんな風に一人で酒に浸っているのは珍しい。
「(部屋で一人になった後に泣いている、とかじゃなくて良かったけど……)」
これはこれで、何だか落ち着かない。上手く会話のきっかけが掴めない。
一刀殿の斜め横に椅子を持って来て座った私は、何となく庭を眺める。
「……霞はともかく、舞无は立ち直るのに時間が掛かるかもね」
「え………」
切り出すきっかけを探していた私に、一刀殿の方からまさかの話題を振ってきた。
「稟が皆を心配してるのは、判ってるつもりだけど?」
得意気な顔で薄く笑った一刀殿は手にした徳利を一気に呑み干して、後ろ手に次の徳利を掴んだ。
らしくない。………酔ってる?
「酒に逃げている、というわけですか」
「さあ。そういうつもりじゃなかったけど、実際どうかな。もしかしたらそうなのかも知れない」
つい、責めるような言い方をしてしまった私に応える一刀殿の表情は、酔ってはいても自己を失っている色ではない。
何故か、チクリと胸が傷んだ。
「大丈夫、なんて言えないけどね。月と詠の事ならまだしも、俺まで皆の心配の種になるわけにいかないからさ」
大人びた笑顔が似合わない。少し見惚れて、しかし似合わない。
「…………………」
裏切り者の死にいちいち心傷めていてはキリが無い。もし生きていたら、むしろ一刀殿自ら処罰を下すのが道理。洛陽に帰って恋たちに心配を掛けるつもりか。
そんな理屈を胸に、一刀殿を立ち直らせに来たはずの私は………
「二人の事を忘れる、という事ですか?」
全く馬鹿な事に、そんな詰問を投げ掛けていた。
『主君としてどう在るべきか』、という理屈とは別に、『一刀殿としてどう在って欲しいか』、という個人的な気持ちが自分の中に在った事に……私はこの時になって“気付かされた”。
撤回しようとして、でも口には出せず、自分でも無様に思うほどに狼狽えている私を見て、一刀殿は可笑しそうに笑った。
「二人を忘れるなんて、有り得ないよ」
主君としては真逆の解を返されて、何故か私は安堵する。笑われた腹立ちが一瞬で失せるほどに。
「でも、引き摺ってたら地面に擦れて二人も痛いし、周りの皆も心配する。だから………」
励ましに来たはずなのに、いつの間にか逆になっている。
「ちゃんと、抱えて歩いて行くよ」
強がりなのかどうかすら判らない笑顔に、『心配するな』と言われた気がして……何だか色々とどうでも良くなった。
私たちが心配すればするほど、この男は無理をする。理解では全くない確信を得て、私は椅子の上に脱力した。
――――途端、
「おうおう、相変わらず気障だな兄ちゃん?」
「「ぎゃあああぁああぁ!!」」
窓の縁からニュッと生えた見慣れた人形に声を掛けられて、私と一刀殿は揃って叫んだ。
そんな私たちの反応など初めから無かったかのように、人形………を乗せた頭が現れ、窓の縁にあごを乗せた。
「ホウケイ が 一体 あらわれた」
よく解らない登場を果たしたのは、私たちのよく知る人物。
「ふ、風! あなたいつからそこに!?」
「……もしかして、ずっと待機してたのか?」
何故か私は必要以上に慌て、一刀殿は心底呆れた。風はその反応もやはり無視して、ぶるっと身を震わせる。
「まあ積もる話は後にするとして、そろそろ風を中に入れて貰えませんか? 体の芯から凍えてしまいそうなのですよー」
「わざわざ寒い中で覗き見なんてしてないで、素直に扉から入ってくればいいのに…………」
一刀殿は、案の定の応えを返す風の両脇に手を入れて、『高い高い』をするように抱え上げて部屋に招き入れて窓を閉めた。
………よく考えれば、風も私と同じ立場なのだから、似たような事を考えていても不思議じゃなかった。
「あれくらいの付き合いの人間の死までいちいち抱え込んでたら、いつか潰れてしまいますよ? お兄さん」
「………ナチュラルに話題を戻したな」
寝台の上で布団をぐるぐると装備する風に、溜め息しか出ない。案外、心の機微に関しては風の方がずっと理解があるのかも。
「浅い付き合いってわけじゃ、ないんだけどな……」
「はい?」
「何でもないよ。ま……潰れそうになったらよろしく」
「はいはーい♪」
二人のやり取りを脇に、私は杯に並々と酒を注ぐ。
「(どうせだから、今日は思う存分酔ってやろう)」
そんな、不思議な気分だった。