「………………」
気付けば、知らない中庭の真ん中に立っていた。随分高い位置で、蒼い月が明るく輝いている。
「(………いつ、夜になったんだっけ……)」
漢中に入城して、張魯が降伏して、話を聞いて、瓦礫を掘り返して、それで………どうした?
「(全部、夢だった……………?)」
一瞬浮かれた自分を、心底馬鹿だと思う。
「あ………………」
自分の服や肌にべっとりとへばりついた真っ黒な煤と脂肪が、嫌でも俺を現実に引き戻す。
「…………………………………………いつ、手放しちゃったのかな………」
変わり果てた姿になった二人を抱き締めて、泣きながら謝り続けてたはずだ。
でも……抱き締めた腕を、いつ解いたのか憶えてない。あんなに強く抱き締めてたのに、がむしゃらに縋りついていたのに………。
「…………結局、自分がかわいいって事なのか」
前の世界の思い出とか、この世界の出会いとか、どんな気持ちで洛陽を離れたんだろうとか、熱かったのかとか、悲しかったのかとか、色んなものが頭の中でぐちゃぐちゃになってる内に、当の二人を手放してたなんて。
「目、覚めた?」
「………………霞」
突然掛けられた声に、ぼんやりと振り返る。……何だか、そんな動作だけでも億劫だ。
「驚いたわ。ずーっと突っ立っとったかと思ったら、いきなりぶつぶつ独り言しだすんやもん」
……独り言聞かれてたのも、どうでもいい。何もかもが目障りで、耳障りに感じる。
「…………ちょっと、一人にさせてくれ」
「もう十分させたわ。あれからどれくらい経った思とんねん」
ちょっと苛立ったような霞の声が、余計に神経に障る。
「………ホントに何も憶えとらんのか」
「…………………」
ぼんやりとなら、憶えてる気がする。
誰かに呼び掛けられて、誰かが泣いてて、誰かに肩を支えられてた………ような気がする。
思い出して、なおさら一つの気持ちが膨れあがった。
「…………ほっといてくれよ」
心配されるのも、支えられるのも、余計なお世話だ。……余計に辛くなる。
「………舞无のやつも、大分荒れとったわ。今は泣き疲れて寝とる」
ほっといてくれない。さっきまでほっといてくれてたのに……何でだよ。
………………やばい。
「何で……ッ……」
―――八つ当たり、しちまいそうだ。
「何で助けてやれなかったんだよ!!」
「っ………」
俺は、『三国志』って歴史を知ってる。前の世界を……この世界によく似た世界を、経験もしてる。
「助けられたはずなんだ! 逃げ回って、追い詰められて、焼け死ぬなんて……しなくて良かったはずなんだよ!!」
月の性格、詠の性格、袁紹の性格、華琳の性格、歴史の流れ、色んな事を知ってた。星や稟、風や雛里……頼りになる仲間もいた。
「なのに……っ……」
守れなかった……違う、俺のせいで死んだ。……………俺が……殺した。
「……………………あ」
頭に血を上らせて怒鳴り散らした俺は、いつの間にか霞に掴み掛かっていた自分の手を見て、我に帰る。
頭に上った血が、急激に下がっていく。背筋が冷たくなっていく。
全部俺が悪いのに、自分への憤りを、霞にぶつけちまった。あれじゃ、『霞のせいで二人が死んだ』って言ってるのと同じだ。
「…………………」
冷や水でも掛けられたように、冷静になる。さっきまで俺は、何やってたんだ。
「……………霞?」
今さらのように、初めて霞の顔を見た。目の周りが、少し赤く腫れている。
「………………ごめん」
俺だけが悲しいわけじゃない。そんな事にすら、今の今まで気付かなかった。
「………ちっとは、スッキリした?」
よく思い返せば、舞无が泣いてたとも言ってた。俺が突っ立っていたのを霞が知ってたって事は……ずっと見ててくれたのかも知れない。
「………ごめん。俺が全部悪かった」
まだ気持ちが整理出来たわけじゃないけど、皆に心配や迷惑かけるのは違う。無理矢理にでも立ち直らないといけない。
直角に頭を下げた俺の頭上で、霞がガシガシと頭を掻いてる気配がする。
気になって見上げたら、半眼で睨まれた。
「……大変やったんよ? おかしなったみたいに謝り続ける一刀に稟が泣きながら抱きついたり、自棄になった舞无が泣きながら暴れ回ったり、当の一刀はいくら引っ張っても“二人”放そうとせんし。…………忙しゅうておちおち泣けもせんわ」
そこまで言って、霞は蹲る。俺は……どうしたらいいか判らなくて、腰を落として目線の高さを合わせる。
でも、俯いてる霞と眼が合う事は無い。
「…………ま、ウチには泣く権利なんて無いねんけどな………」
膝に顔を埋めたままの霞から、虚ろな呟きが漏れる。
霞は董卓軍の将だった。泣く権利も、俺を恨む権利もあるはずだ。
なのに……何でそんな事……。
「ウチ、な………」
意を決したように、霞が顔を上げる。思い詰めた、辛そうな顔を。
「二人を見つけたら、殺すつもりやった」
言われた言葉が理解出来ず、時が止まる。
「はは……おかしいやろ? 自分で殺すつもりやったくせに、張魯に話聞かされて、あないに取り乱して………」
自嘲して自虐する霞を見ながら、俺は霞が当然の事みたいに流した言葉を反芻していた。
「(二人を、霞が、殺す………)」
一言一言、噛み砕く。………今まで、考えてもみなかった。
「…………瓦礫掘り返しとる時も、『見つかるな』て思いながらやっとったんよ。自分でも意味わからんわ」
そうだ……霞にとっては………いや、『前の世界の経験』なんておかしなものを知らない皆にとっては、二人のせいであの大戦が起きたって思うのが当たり前なんだ。
「…………………」
いつからなのか知らないけど、ずっと霞はそんな葛藤を抱き続けてたのか。
話してくれなかったのも、俺を気遣ってか、或いは俺の対応を危惧してか……だろう。
自分の能天気さに腹が立つ。
「(ずっと、頑張らせてきたのか……)」
―――俺が弱いから、情けないから。
「あ………………」
目の前で悲しい独白を続ける霞を、抱き締める。こんな弱い俺の、精一杯の力で。
「(強くなる)」
もう、大切な人を失わないように、傷つけないように、支えられるように。
「(強くなる)」
誓うように、挑むように、心の中で繰り返す。
「う……………」
胸の中から、呻くような声が聞こえた。霞の額が押し付けられるのを感じる。
「………ッ……」
霞が俺にしてくれた事を、少しでも返せれば。そう思いながら、俺の眼からはまた涙が流れだして来ていた。
……ホント、情けない。
「う……っ……うああぁああぁあああ!!」
二人、泥と煤で真っ黒に汚れた姿のままで………しばらく泣き続けていた。
「ほら、いつまで寝てるのよ! さっさと起きなさい!」
起こされる。正確にはとっくに起きてて、温かい布団の感触に拘泥してるタイミングで、布団がひっぺがされる。
さぶい。
「詠~~、布団返してくれ~~」
「情けない声出してんじゃないわよ。いつまで寝てれば気が済むの?」
返してくれる気配はない。仕方ないからノロノロとした動きでベッドから這い出して、ちょっと厚着に着替え――――
「へぅ………」
「ばっ、馬鹿! 人が見てる前で堂々と着替えないでよ!」
ようとして、顔面にさっきの布団を投げつけられた。名残惜しいけど、このまま二度寝と行くわけにもいかん。俺は布団をベッドの上に放って、
「おはよう。月、詠」
「おはようございます」
「遅いのよ、挨拶が」
今さらな挨拶を交わした。だらしない俺に対しても変わらず天使の笑顔を浮かべる月と、眉尻を吊り上げて睨んでくる詠が実に対称的だ。
「あ、れ…………」
いつも通りの朝、いつも通りの二人。その顔を見ただけで………何故か視界が歪む。
「ご主人様、どうしたんですか?」
「まだ寝ぼけてるの? さっさと執務室に行かないと、また稟とか星とかうるさいわよ」
「あ、うん……わかってる」
目を擦りながら、俺は歩きだす。いつの間にか服が変わっていた事にも気付かない。
「…………………」
扉に手を掛けた所で、よく解らない、何とも言えない焦燥に駆られて、振り返る。
月も、詠も、そこにいた。……当たり前か。
「心配しなくて、大丈夫ですよ」
「ほら、さっさと行っちゃいなさいよ」
月が俺を安心させるみたいに微笑み、詠がデコピンの連打で俺を締め出そうとする。
……何だか、全部見透かされてるみたいだ。………何を?
「!!?」
何の脈絡もなく、いきなり部屋が燃え上がる。赤い炎が渦巻いて、俺を、月を、詠を、呑み込んでいく。
「月! 詠!」
二人を抱えて窓から飛び出す。瞬間的にその解に行き着いて、なのに……体が動かない。
「わたし、嬉しかったです。ご主人様に、もう一度お会いする事が出来て」
月が、赤い炎の中で微笑み、そんな言葉を掛けてくる。
「男のくせに、すぐ泣いたりするんじゃないわよ」
詠が、どこまでも優しいいつもの憎まれ口を利いてくる。
「月! 詠!」
どうしても動かない体。かろうじて伸ばせる腕。それを向けた瞬間、眼に見える全てが赤い炎に塗り潰されて―――――
「……………………」
目覚めた俺の眼に映るのは、ただ白いだけの天井だった。
燃えてもいない。暮らし慣れた洛陽でもない。そして………誰かに起こされたわけでもない。
「夢………………」
胸にポッカリと空いた穴に寒々しい風が過ぎたような、強い喪失感。
「…………………」
手の甲で、目許を隠す。
まだこんなに水分が残ってたのか。首筋に当たる枕の冷たさを感じながら、俺はそんな事を思っていた。