「兄上!」
「何だ衛、何度言われても決定は覆らん。北郷軍とは抗戦せぬ」
董卓軍の賈駆を名乗る小娘を投獄した後、北郷軍との抗戦はしない事に決議した。頭に血を上らせてその場から飛び出した、弟の張衛が顔を出すのはそれ以来だ。
最後まで抗戦を訴えていた張衛は、この決定に我慢ならなかったのだろう。あの夜から一日経った今夜。それ以降は降伏か、益州の劉璋を頼るかでまとまらない会議が今も続いていた。
今日の所は、と会議を切り上げれば、自室に張衛が怒鳴り込んでくる始末。何だと言うのか。
「そうじゃない! 今地下牢で大騒ぎがっ、いや、そんな事より……」
要領を得ない説明を口の中で空回りさせる張衛は、説明するより早いと思ったのか、懐から一枚の書簡を取り出した。
「こいつを見てください!」
すぐに冷静さを失うのが弟の悪いくせだと思いながら、私は書簡に目を通す。端に血が滲んでいて気味が悪い。
「ッ……衛、これは一体……?」
それは、北郷軍の軍師との間で交わされた密書だった。漢中の張魯……つまりは私に、降伏を促すよう吹聴し、上手く事を運べば千金の褒美を出すと。
その文面は、馬超が呂布に敗れ、陽平関が落とされ、もはや我らに勝ち目なしというもの。……楊松が主張していたものと、同じだった。
まさか………
「順を追って説明するから、落ち着いて最後まで聞いてください……」
「お前に言われたらおしまいだ。いいから早く話せ」
張衛は、こやつにしては丁寧に話し始めた。
「今日の夜、ついさっきです。城の地下牢に賊が侵入し、門番は軒並み斬り殺されました。賊の正体は董卓、賈駆と同様に不穏な輩は皆投獄したつもりでしたが、今まで身を隠していたようです」
……気になる事や、深く訊きたい事もあるが、ここは最後まで話を訊く。
「ただ、その地下牢の守りが事前に手薄になっており、それが楊松の指示である事もわかっています。私は、人払いが狙いだと考えています」
普段から意見の衝突しがちな張衛と楊松、しかしそれでもこれほどまでに穿った見方をする理由は、概ね見当が着く。話の前にこの密書を出してくれたのは助かった。話が、理解しやすい。
「……この密書は、その地下牢にて斬り殺されていた楊松の懐にあった物です。おそらく、約定書としての意味も持つこれを処分する事も出来ず、肌身離さず持ち歩いていたものかと」
すでに楊松が死んでいる。さすがにその言葉には動揺したが、それ以上に楊松の行動に腸が煮え繰り返る。張衛の言い方には多分に私情や私見が挟まれているが、今回に限っては間違っていないように思える。
信じていたからこそ、失望と憤激は止まない。……それを表に出す愚は冒さないが。
「奴は金や物欲にまみれた男です。危険とわかっていても、その密書を手放せなかったに違いありませぬ」
それはわかっていた。だが、長年仕えた張家への忠誠はそれ以上だとも思っていた。長年禄を受けていたからこそ、だ。
「して……董卓はどうした?」
人払いされていたとはいえ、地下牢の番を悉く斬り倒すような使い手ならば、中で捕まっていた賈駆やその部下を解放されたら、逃げ出された可能性も高い。
「それが……」
………………
急遽、玉座の間に重鎮を集め、楊松の裏切りと、馬超の敗北が偽りである事を皆に知らせた。
皆が落ち着きなく騒ぎ始めるが、何がどう変わったとも思えない。張衛を除けば、抗戦を訴える者は一人もいない。
「楊松の屋敷から、兄上が褒賞として与えたわけでもない金銀が見つかりました。もはや、奴の離反を疑う余地はありませぬ」
いや、張衛も勢いが無い。重鎮に裏切られた私を気遣っているのか。普段容易く激昂するのも、多くの場合はその過ぎたる忠誠がゆえ……。張衛はそういう男だ。
「今、改めて陽平関へと密偵を走らせ、軍の編成も急がせておる。馬超が今も北郷と矛を交えているなら、友軍として我らも兵を挙げるのが理」
話は振り出しに戻っていた。しかも、大幅に出足を遅らせられて。もはや、密偵が情報を持ち帰るのを待つ時間は無い。
「お待ちください! ここで兵を出せば、それは北郷軍へ我ら自身の宣戦布告。そうなれば、言い訳が立ちません!」
無論、こういう意見が出る事もわかりきっていた。北郷と内通していたとはいえ、楊松の言っていた事も間違いではない。
むしろ、こう取るべきだろう。あの楊松の進言は、『北郷からの降伏勧告である』と。
だが、私がそれを迷っていたのは……馬超がすでに討たれたと考えていたからだ。
「だから何だ。私は馬超の意気に応えて、兵を挙げ、西涼奪還の戦いに応じた。それを信じて今も戦っている馬超を、自らの保身のために見捨てられるか。それこそ暴君どころか、外道畜生にも劣るわ」
感情に任せた利己的な政治などは論外だが、損得を考えるばかりの統治とて誰もついて来はしない。仮にも太守を勤める身の上。そういった道理はこの場の誰よりわかるつもりだ。
「日の出とともに出発する。各人、出陣に備えておけ」
しかし、そのこだわりは………日の明けた頃に帰ってきた伝令によって………
「伝令! 国境に八万から十万の大軍を確認! すでに関所は突破されています! 牙門旗は十文字、北郷です!」
脆くも崩れ去った。内通者と敵の偽情報に踊らされているうちに、私は友軍を見殺しにしたのだ……。
「無理してついて来なくて良かったのに……」
「……張魯殿は、あたし達に手を貸して出兵してくれたんだ。なのにあたしの方が無様に負けて、捕虜になって……でも、合わせる顔が無いからって逃げるわけにいかないじゃないか」
あばらが折れて、馬に乗ってるだけでも相当辛いはずなのに、翠はこう言って漢中までついて来た。
相変わらずというか何というか……とにかく、こうして無事に言葉を交わせてるって事自体が、すごく尊いものに思える。
……あんな寿命が縮むような一騎討ちは出来れば二度とごめんだ。
「ま、最低限の筋も通さずに、女将の墓前には立てませんからね」
「あー……それわかる気がする」
散がしみじみ呟いて、馬岱が嫌そうに肯定した。
ところで、何で俺は、こんな西涼家族の付属品みたいなポジションで馬に乗ってるんだろう。
「………………」
霞、稟、風の三人は結構離れた位置で何やら神妙な顔して話し合ってるし、舞无は先見のための騎馬部隊を連れて先に行ってる。
舞无はともかく、霞たちは何だ? 翠を捕虜にしてから何か様子がおかしいんだけど。
いや、それを言うなら………
「……………」
時々黙りがちになる西涼三姉妹も何か妙だ。翠たちは張魯の事があるからわからんでもないけど、散が気になる。
無事翠と再会も果たしたし、もう終わった事でこんな風に上の空になるやつじゃない。ついでに言えば、翠の立場を気遣ってブルー入るほどおセンチなやつでもない。
何ていうか、現在進行形で懸案事項を抱えているような感じだ。いや、むしろ散はそういう類の事でしか悩まない気がする。
………何だろう、この疎外感。
「……散、訊いていいか?」
「あうと」
……こんにゃろう。俺が気にしてるのわかった上で堂々と内緒にしやがって。
「あなたには関係ありませんよ……と言いたい所ですが、大いに関係あるかな、と」
「「ッ……」」
散の言葉に、翠と馬岱が明らかに表情を険しくした。……俺に関係あるのに、内緒? 知られるとまずい事か?
「嘘はつきたくないので。今はこれが精一杯かな、と」
……ものすごい不安になる言い草だ。でも、訊いてもはぐらかした稟たちよりは正直な応えか。
「わかったよ、散の事は信じてる。敢えて深くは訊かない」
「……そういう単純な話でもないんですけどね」
散の表情に翳りが差す。この話題に入ってから、翠も馬岱もだんまりだ。
何だこいつら。隠し事を暴くほど無粋なつもりはないけど、隠すならもっと上手く隠せよ。あからさまにやるな。
逆に知られたいんじゃないかと深読みしそうになるだろうが。
「一刀ーー!!」
「お」
おそらく俺同様に何も知らされてないに違いない舞无が戻って来た。同志よ、一緒に仲間外れの苦しみを分かち合おうじゃないか。
「張魯からの使者と行き合ってな。こいつを預かってきた」
そう言って、舞无は一通の書簡を俺に手渡す。舞无に使者って単語、全然似合わねえなーとどうでもいい事を考えながら、俺は書簡の中身に目を通す。
「…………うし!」
馬鹿に丁寧な文面をいちいち読み上げるより早く、俺は斜め読みで核心部分を読み取った(どうせ無礼な書き方云々には興味無い)。
「願ってもない、結末だな」
まずは城から見える位置に軍勢並べて降伏を促す。それで駄目なら短期決戦、つもりだったけど……向こうから言い出してくれるとは。
「入城しよう、張魯は……降伏した」
「散ちゃん、痛い!」
さっきまでは武器こそ持ってなかったもののフリーダムな扱いだった翠と馬岱だが、いきなり後ろ手に縄で縛られた。犯人は散である。
「こっちの方が、張魯と会った時に体裁が良いでしょう?」
なるほど。さすがお姉さん、なかなか良く気がつく子である。……気がついた上で気を遣ってくれるとは限らないのがあれだけども。
「あっ、あれかな」
近づいてきた城門の前に、雅やかな衣装の連中を発見した。あれが漢中の重臣たちと見た。ある程度近づいてから兵を止まらせ、俺、散、舞无、いつの間にか追い付いていた霞、稟、風、そして翠と馬岱で進み出る。
ひらりと馬から飛び降りた。
「はじめまして、俺が北郷一刀です」
目をまん丸にされた。「降伏を受けた側の態度ではありませんよ」とか稟の呟きが聞こえたけどもう慣れっこだ。
「……私が漢中太守、張魯にございます。我々に、北郷様と争う意思はございません。どうか我らの帰順を認め、漢中の民たちをお守り下さい」
張魯と名乗った男は、長く立派な髭を胸まで伸ばす、冷静沈着そうなおじさまだった。歳上に腰の低い態度で接されると、ついこっちも敬語を使いたくなる。
「喜んでお受け致します。そして、貴方たちが矜持を曲げても守りぬいた漢中の民の笑顔を守りぬく事を約束しましょう」
顔色を窺うようなやつが半分、保身のために降伏を進言したやつだろう。張魯の方を心配そうに見てるのが半分、こっちは撤退を進言したやつかな。で、こちらさんは………
「……………」
「……………」
青年くらいの逞し系の男が、思いっきり俺を睨んでらっしゃる。「こんなガキに政治なんて出来んのか、あん!? 周りの将も女子供ばかりじゃねえか」という顔を隠す様子も無い。
「……衛」
「ッ………」
それに張魯も気付いていたのか、一言で諫めた。無念そうな顔で、しかし頭を垂れる。衛………張衛。弟さんか。
「北郷様、寛大なご厚意に感謝致します。ここで立ち話というのも何ですから、城までご案内しましょう」
「……はい、お願いします」
元々、漢中の民に善政を敷いていた立派な君主だって話は聞いてた。だから降伏し、戦わずに済む事になったのはそういう意味でも嬉しかったし、今まで一国の太守だった人間が、攻めてきた相手に頭を下げるのも、この世界では大変な事だってのもわかるつもりだ。
実際に目にして、考えは固まってきている。張魯にはその善政を、もっと幅広く敷いてもらいたい。
今は何も知らず、俺たちは………いや、俺は、城に向かって歩みを進める。