「悲しくないの?」
誰かが俺に、語り掛ける。悲しくない。俺はそう応えた。
「悔いる事はありませんか?」
誰かが俺に、語り掛ける。後悔なんてない。俺はそう応えた。
「………泣かないの?」
誰かが俺に、語り掛ける。泣かないよ。俺はそう応えた。
「相変わらず、ご主人様は嘘が下手ですね」
誰かが俺に、語り掛ける。そうかもね。俺はそう応えた。
ちっぽけな人間だから。本当は悲しくて、後悔してて、泣きたかったとしても………今だけは、俺は自分に嘘をつくんだ。
「…………………」
城から少し離れた前方に、物凄い数の呉軍が迫って来てる。
これはわたしの招いた結果。少しでも……この子の為にって、悪あがきをした結果。
わたしがもっと早く都に行ってれば、ここまで大きな事にはならなかった。
「(………ううん、そうじゃない)」
愛紗ちゃんの苦しみを、しっかり理解してあげてたら、こんな事にはならなかった。感付いてたのに、全部一刀さんに任せて………何もかも失った。
「(情けないよね、わたしお姉ちゃんなのに)」
それを解ってたのに、わたしは悪あがきした。今まで、わたしの言葉でたくさんの人が命を落として来たのに………この子の存在を知ったら、死ぬのが、とても怖くなった。
「(………わたしと、一刀さんの赤ちゃん)」
この世にたった一つ残された、一刀さんの欠片。
「(ごめんね………)」
貴方は何も悪くないのに、貴方のせいにしちゃって。……でも、それももう、おしまい。
「(お母さんが、一緒だからね)」
鈴々ちゃん、朱里ちゃん、斗詩ちゃん、猪々子ちゃん。これまでわたしを支えてくれた皆が、わたしの言葉を待ってる。
「これがわたしの、君主としての最後の命令です」
皆の気持ちは解ってる。だけどわたしは、やっぱりワガママみたい。
「みんなは、生きて」
上手く笑えてるかな。こんな時なのに、わたしはそんな事を考えていた。
「一刀がこれ見たら、何て言うやろな」
「どうもこうも、お兄さんがいたらこんな事になってませんよ?」
霞がぼんやりと呟いて、風が小さく応えた。
「星姉様……どこ行っちゃったんだろ……」
「ほっとけよ、こんな時に姿消すような奴なんか」
蒲公英が俯いて、翠が吐き捨てる。
「………あの星さんが、理由も無く姿を消すとは思えませんが」
「こんな時に外せない用事なんて、あたしには想像つきませんけどね」
雛里はどこか現実逃避気味に思案に暮れて、散が肩を竦める。
「…………………」
舞无に至っては、すっかり憔悴しきった様子で沈黙を保っている。もうずっと、まともに食事を採っていないらしい。
それぞれ態度に違いこそあれ、皆別人のように覇気が無い。
「………それで、なぜ貴殿がここにいるのですか、貂蝉」
「あらん、稟ちゃんったらツレないわねぇ。空気を読んで静かにしてたのに、邪魔者扱いするの?」
いつもと変わらない軽口が、異様に神経に障る。何度追い払ったか数えていないが、その度に懲りずに戻って来るから諦めた。
「わたしにも結末は解らないわ。だけど外史には無限の可能性がある。星ちゃんはそれを良く解ってるわよん」
何より、こうして時折思わせ振りな事を口走るから始末が悪い。
「………貂蝉、貴殿は星の居場所を知っているのですか」
星が、私たちにも言わなかった行き先をこの化け物に話したとは考えたくないけれど。
「直接聞いたわけではないわ。心当たりがある、とだけ応えておきましょうか」
「話しなさい」
「後で、ね。もっとも、わたしが話す必要があれば、だけど」
埒が明かない。星の事は後でどんな手段を使っても訊き出すと決めて、私は正面に眼を戻す。
これから始まる、後悔しか生まないだろう凄惨な戦いを見届ける為に。
尋常ならざる熱気を撒き散らす呉の軍勢。その一画に近寄る少数の騎兵の姿があった。
「ごきげんよう、孫伯符」
「あら、久しぶりね、曹操」
魏王たる華琳、そしてかつては呉王だった雪蓮の、熱くも冷たくもない対面である。
「説得するなら、相手が違うわよ?」
「今さら私の言葉で勅命が覆るものでもないでしょう。ただ……ここの方が良く見えそうだと思っただけよ」
この場には、春蘭もいれば祭もいる。しかし誰もが、二人の王に礼を持って会話に入ろうとはしない。
「宿敵の最期を見届けに来たって事?」
「………まあ、当たらずとも遠からず、と言った所ね」
それだけ言って、二人は黙って肩を並べる。後は見届けるだけ、死を目前にした桃香の解と……復讐の果てに行き着いた蓮華の解を。
「…………嫌な空ね」
どす黒い暗雲が、空を一片も残さず覆い隠していた。
「…………………」
向かい合うのは、深緑の軍勢と赤の軍勢。だがこれは、決して戦いではない。
否、戦いにさせはしない。
「…………………」
深緑の群れから進み出る、たった一人の少女が。
「わたしが、劉玄徳です」
決して張り上げているわけではない静かな声が、津波のような兵の集う戦場で、驚くほど凄絶に響く。
「この国は、掛け替えの無い人物を失ってしまいました。乱世を終焉へと誘い、この先の大陸を平穏に導くはずだった方。……天の御遣い、北郷一刀様です」
それは、戦乱の日々で桃香が得た強さ。何より困難な理想に立ち向かうと決めた、揺るぎない決意。
「その喪失は、誰にとっても許せるものではないでしょう。それほどに彼の人は尊く、誰より多くの人に愛されていました」
しかし、その決意も今となっては虚しい。今の彼女に出来る事はただの懺悔でしか無いのだから。
「それでも、今ここには、他でもない御遣い様の築いた平穏が在ります。罪の無い、明日を生きるべき命が、たくさん在ります」
だが、桃香は戦う。最後の最後まで、守りたいものを守る為に。
「此度の惨劇、全ては我が不徳の致す所! 裁きを受けるべきは、この劉玄徳ただ一人!!」
―――一粒、雫が落ちる。魏王が呟いた。
「………やはり、それが貴女の解なのね」
―――一粒、雫が落ちる。かつての呉王が眼を鋭く細めた。
「蓮華、後は貴女次第よ」
―――一粒、雫が落ちる。呉王が唇を噛んだ。
「っ…………」
―――一粒、雫が落ちる。一人の義妹が叫びを上げる。
「ヤだ……お姉ちゃんが死ぬなんて……ヤだぁああーーー!!」
―――一粒、雫が落ちる。一人の軍師が俯く。
「桃香さま……初めてご命令に背きます」
一粒。
「……すいません、麗羽さま。あたいら、一足先に逝かせてもらいます」
一粒。
「桃香さま一人死なせて、めでたしめでたしってわけにはいかないもんね、わたしも文ちゃんも」
一粒。
「一刀……すまんなぁ」
一粒。
「………今日のお兄さんは、真っ黒でご機嫌斜めですね」
一粒。幾つもの雫が重なって、それらは雨へと姿を変える。
「……貴様の命一つが、一刀の命と等価だとでも言うつもりか」
幼き皇帝が剣を抜く。
「しかし……それしか無いようだ」
そして、告げる。
「かかれぇ!!」
赤の軍勢が、雪崩を打って襲い掛かる。それと同時に、雨は豪雨へと姿を変えた。
「…………………」
怒号と雨音だけに音を支配された空間が、一人立ちすくむ桃香に、別世界に迷い込んだかのような錯覚を与える。
「(どうして、こんな事になっちゃったのかな…………)」
自身の下腹部を撫でながら、そう思わずにはいられない。
誰もが笑顔で。ただそれだけを願って戦い続けて来たはずなのに。
「(愛紗ちゃん……)」
義妹は傷つき、
「(一刀さん……)」
愛する人は奪われ、
「(そして………)」
今また、生まれるはずだった命さえも潰えようとしている。
「………神様って、意地悪だね」
全てを受け入れたフリをして、桃香は空を見上げた。
そこには変わらず黒雲しかない。
「…………え?」
ない―――はずだった。
「晴れ間………?」
それは東の空に見えた。桃香の脳裏に、唐突に古い記憶が去来する。
『東方より飛来する流星は―――』
黒天を斬り裂いて、その軌跡に鮮やかな蒼天を広げて――――
『天の御遣いを誘いし翼なり』
眩ゆい光が、天空を翔る。
姿が見えたわけではない。予測していたわけでもない。なのに……桃香は思わず叫んでいた。
「一刀さん!!!」
(ッッッッッ!!!)
涙声の叫びに応えるように、流星が頭上で一際強い輝きを放ち、落雷の様に大地を抉り、曇天を吹き散らす。
空に残るのは、見る者の心すら洗い清めてしまうような、どこまでも高い蒼天。
「空が………」
華琳が、
「晴れた……?」
蓮華が、眼を見開いてそれを見た。
そしてもはや誰にも止められないと思われていた軍勢を、立ち塞がった流星の爆発が止めていた。
「かつて戦乱に呑まれた大陸を救うため、多くの者が命を落とし、それらの尊い犠牲の上にこの大平が在る」
燃え盛る青白い燐火の中から、朗々と宣布が群衆に述べられる。
「天の御遣いの名に於いて、これ以上無益な血を流す事は許さん」
陽光に煌めく衣を纏い、その左右に同種の衣を着た青紅の天女を連れて―――
「ここに乱世の幕を引く! 剣を下ろせ、天の子らよ!!」
―――北郷一刀、再臨。
「はあっ、はあっ、はあっ」
どうして生きているのか。
「はあっ、はあっ、はあっ」
なぜ、今まで姿を見せなかったのか。
「(もう、少し……!)」
訊きたい事はたくさんあって、でも、その全てが些末な事に過ぎない。
少なくとも、今の桃香にとってはどうでもいい事だった。
彼が振り返る。どこか辛そうな笑顔で、自分を迎えてくれている。
「ただいま、桃香……」
だから桃香は、その胸に飛び込んで―――
「おかえり、なさい…………」
その一言を、言いたかった。