「お前がこの外史を否定すれば、或いは……。そんな風に考えていたんだがな……」
膝が脇腹にめり込み、肋骨が嫌な音を立てて軋む。
「これで本当に、貴様を生かしておく意味も無くなった。最初からこうしておけば良かったんだ」
くの時に曲がり、下がった顎に拳を打ち下ろされて、もう何度目か床を転がる。
「(貂蝉のやつ、手出し出来ないようにしたって……こういう事かよ……)」
朦朧とする意識の中で、そんな自分をどこか他人事のように見つめながら、一刀は渇いた笑いを漏らす。
やっと届いた唯一の希望が、手の中で泡沫に変わって消えてしまった。
「(いや、まだだ………)」
絶望するにはまだ早い。何か方法があるはずだ。
「死ねよ、北郷一刀」
以前の一刀なら諦めていた。だが、教えてくれた人がいた。
天下を分ける決戦の最中。華琳を斬るしかないと諦めた一刀を、止めてくれた人の声が……今も一刀に聞こえている。
「っ……!?」
「……待ってろよ、桃香」
再び打ち下ろされた拳を、片膝を着いたままの一刀が受け止め、掴む。掴んで、押さえて……逆の手に握った剣で斬り返した。
「やれるもんなら、やってみろよ」
浅く……しかし確かに、一刀の剣が左慈を捉える。左肩から右脇腹まで袈裟斬りに、左慈の体から鮮血が染みだした。
「お前……本当は俺を殺す事なんて、出来ないんだろ」
「っ!?」
一刀の言葉が、傷の痛み以上に鋭く左慈を刺す。
思えば、ずっと違和感があった。
「あの世界にいた頃から、お前が俺を殺そうと思えば、いくらでも方法はあったはずだ」
それなのに、わざわざ回りくどいやり方で、月の両親を人質に取り、華琳を操り、冥琳をけしかけた。
「だけどそうしなかった、出来なかった。お前らには、物語を紡ぐ事が出来ないから」
だから主人公を殺す事も出来ない。物語に大きな影響を与える事は出来ない。
「お前も同じだ。たとえどんな物語を紡ごうと、それは結局偽りでしか無いんだからな!」
なのに左慈は……幾度となく一刀を殺そうとした。定められた筋道を見届ける事しか出来ないはずなのに。
「お前みたいに、何もかも否定して自分すら認めなかったら、そりゃ生きててもつまんねぇだろうよ」
「………黙れ」
「お前に比べたら、どっかの筋肉ダルマの方がよっぽど楽しそうに生きてるぞ」
「黙りやがれ!」
突き出された拳を、一刀はもはや怖れない。
「がっ……!?」
自身に直撃するより速く、真っ正面から殴り飛ばした。強い想念が正史を通じて具現化する……それこそが、外史。
「正史も外史も関係ないんだよ。『世界にとって自分が何なのか』なんて、きっと誰にも解りやしない」
仮に、正史にも決められた運命と呼べるものが存在するとして、人がそれを知る術は無い。
「だけど、それで絶望したりしない。確かにそこに存在してるんだから」
悩んで、迷って、悔いて、翻弄されて生きて来た一刀だからこそ、解る。
「お前が本当に否定したいのは、この世界じゃないんじゃないのか」
「――――――!!」
自分でも気付いていなかった心の裏側を貫かれて、左慈は言葉にならない絶叫を上げた。
それを合図とするかのように――――
「ッオオオオォォーーーーー!!!」
青龍の咆哮が建物を震わせた。全身全霊……正に魂魄そのものを込めた一撃を以て、愛紗の刃が鉄棍ごと左慈の一人を両断する。
「でかした! はあっ!!」
そして一番至近にいた、星と戦う鉤棍の左慈の左腕をも斬り落とす。愛紗のくれた勝機を逃す星ではない。たちどころに眼前の左慈を葬り去る。
それと同時―――
「ふっ!!」
恋の方天画戟が、眼前にいた二人の左慈の片割れを、双節棍を繋ぐ鎖ごと唐竹のように裂く。
裂いて、そのまま地を這うような低姿勢で于吉の懐まで飛び込み―――
「渡せ」
于吉の手にしていた銅鏡を、下から蹴って撥ね上げる。
「ご主人様!」
「わかった!」
愛紗が青龍刀を振るって猛然と襲い掛かり、一刀の前から左慈を追い払う。
「さらば、天上の世界よ!」
星が、ガラスケースを踏み台にして高々と舞い上がる。
「これは! そうか……貴女が……ッ!?」
戸惑う于吉を蹴り飛ばして、恋は来るべき瞬間に向けて駆け出す。
「…………………」
一刀は見上げる。ゆっくりと弧を描いて降って来る、突端と終焉の象徴、そして……その向こうにいる水色の少女を。
「(これを壊せば、もう二度と外史は巡らないのかもな………)」
これこそが、左慈たちの真の狙いなのかも知れない。そんな考えが頭を過って、しかし躊躇いは無い。
―――一刀にとって、今ここに在る全てが疑い様の無い“本物”だから。
「扉が閉ざされているのなら………」
星の剣が振り上げられる。
「斬り開いてやればいい」
一刀の剣が構えられる。
「「砕け散れ!!」」
青紅倚天。二つの剣閃が交叉し、去り往く世界に光を刻む。
―――描かれたのは、燦然と輝く至高の十文字。
いつかのように、またいつかのように、膨らむ白光が一刀を包み込む。
「皆……早く……っ」
蘇るのは、悪夢。愛する者らと引き離され、思い出の全てを踏み躙られる恐怖。
「一刀……!」
この瞬間の為に駆けていた恋が、勢いそのままに一刀に飛び付く。
「主っ」
続いて、一刀と共に銅鏡を断ち斬った星が、懸命に一刀へと手を伸ばす。
その光景があの時と重なり、しかし異なる。今度は………届く。
「せ………」
星。そう呼んで手を握ろうとした一刀の視界から、愛する少女の姿が消える。
横合いから星を突き飛ばした愛紗によって。
どうして? その言葉が口から出る事はない。―――何故なら、一刀は見た。
「愛、紗………?」
愛紗の胸から“生えている”―――曲刀の刃を。星を庇った愛紗が、左慈の凶刃を受ける光景を。
「愛紗ぁあああぁあーーーーー!!」
曲刀が引き抜かれた傷口から鮮血が噴き出し、一刀を、恋を、恋の手に掴まれた星を濡らす。
「(落ち着、け……っ!)」
自失する寸前の心を、一刀はギリギリの所で持ち直した。
他でもない、愛紗を救う為に。
「(諦めない……!)」
斬殺された一刀でさえ、外史を越えれば生きていた。
「諦めるな! 愛紗!!」
だったら、今の愛紗だって救う事が出来るはずだ。
手を、足を、体を、意識を、存在そのものを引きずり込まんとする白い光に逆らって、一刀は懸命に手を伸ばした。
「ご主、じ…ん……様…………」
口から血を流し、生気の薄れた瞳で一刀を見る愛紗の手が、弱々しく伸ばされる。
「一緒に帰ろう! 俺たちの世界へ!!」
あの時止まってしまった物語を、もう一度。
無我夢中で伸ばされた手は、愛紗の手に届き……………
―――しかし何も掴めなかった。
愛紗が、一刀の手を、避けた。
「もう一度……貴方に会えて……嬉しかった……」
抑え切れない涙の中で、精一杯に浮かべた頬笑み。―――喜びだけを乗せようとして、少しも上手く出来ない頬笑み。
「愛紗………?」
どうして避けるのか。どうしてそんな笑顔を浮かべるのか。どうしてそんなに………寂しそうなのか。
理解して……しかし決して認めたくないのに――――
「嫌だ………」
わかってしまった。
「愛紗ぁあああぁあーーーーー!!」
「主!!」
切なくて、儚くて、悲しい……最後の笑顔が、光の向こうに消える。
もう戻れない世界に手を伸ばす一刀を、星が必死に、抱き留める。
ここで気持ちを後ろに向ければ、世界の狭間で形無き想念となって消えてしまうと、解っていたから。
「愛紗………」
「主!!」
自分のせいで愛紗が死んだ。そんな、人間として当たり前に抱く感情を、星は必死に押し殺す。
「愛紗………」
「主!!」
押し殺して、叫ぶ。壊れたように愛紗の名を呼ぶ一刀に、ひたすら呼び掛け続ける。
「愛紗………」
「一刀!!」
「主!!」
恋が叫ぶ。星が叫ぶ。全ては………一刀に生きて欲しいから。
その呼び掛けに、一刀は…………
「俺、は……………」
「はぁ……はぁ……はぁ………」
光に包まれていく空間の中、とっくに息絶えていても不思議ではないほどの重傷を受けながら……少女は倒れない。
か細い呼吸を繰り返し、生気の無い瞳を決して閉じず、確かに“敵”を捉えていた。
「我が、名は……関羽! 北郷一、刀……第一の…臣……!」
こんな事をしても、意味は無いのかも知れない。何が変わるわけでもないだろう。
それでも愛紗は……死ぬまで戦う事を選んだ。
「我が一撃をッッ……天命と心得よぉぉォォーーーーー!!!」
外史の狭間で奔流に呑まれながら、少女が何を憂い、何を想い、何を願ったのか。
穢れの一つも知らない白い花が、誰にも見られる事の無い渇いた大地に一輪………淋しそうに咲いていた。