「…………………」
一人先頭を歩く主の背中を見ながら、私は先ほどの会話を反芻する。
「(まあ、誤りであると断言も出来ぬのだがな……)」
愛紗の様を見て何も感じぬのか。本当に月たちを想うならば、攫ってでも連れて行ってやるべきだ。
……という意見はあるのだが、実際に口にはしていない。私も、「主は完全に記憶を失っていない」と薄々感付いていながら、なかなか行動に移せなかった。
………そして行動に移した後でも、これが正解だったとは言い切れん。
あれは相手が主だったからこその決断。仮にあれが愛紗だったなら、私は記憶を取り戻させようとはしなかったろう。
同時に、己の道は己で決めるべきだという持論も当然捨てていない。……だからこそ、捨て置いているわけだが。
「(私は私で、為すべき事を為すだけ)」
主の経緯と我らの経緯から推察するに、こちらとあちらでは、時の法則すら同然ではない。
それでは急がねばならぬ理由を、私たちは既に主に聞いている。故に、既に主に倚天の剣を渡しているのだ。
主があれを抜くような事態は想定したくないが、今回ばかりは「我らに任せて退いていろ」とは言えない。
「………ここから、始まったんだ」
辿り着いたそこは、思っていたよりずっと近くにあった。なんと、せんと・ふらんちぇすかの敷地内だ。
「……歴史資料館?」
「あの理事長はいないのに、これが残ってるってのも妙な話だよな」
愛紗が、珍しく我らでも読める文字を音読し、主はどこか皮肉そうに笑う。“元の世界”と比べているのだろうか。
「……恋は、入った事ない」
「俺もだよ。……だから怖いんだ」
細められた瞳に、言葉とは裏腹な闘志が見える。明確な敵を意識している証拠だ。
「こんな穏やかな世界に居た頃から、無茶ばかりしていたのですか」
「あの時は、そんな自覚なかったんだけどね」
この場所で、あの銅鏡を持ち去ろうとしたあやつに対して、主は木剣一つで挑み掛かったらしい。無謀にもほどがある。
いや、過ぎた事はいい。大切なのは、ここが主の元いた世界と同じであれば……あの銅鏡もここに在るという事。
問題なのは……あやつが、この世界にもいるという事。
「また、我らの前に立ちはだかるか……」
愛紗が神妙な顔で呟く。無理もない。
左慈―――。
我らから全てを奪い去ろうとした怨敵の片割れ。恐怖と憤怒に身が震えるのは私も同じだ。
「貂蝉のやつ、いい加減なこと言いやがって」
主が憎々しげに吐き捨てる。訊けば、もう左慈らが我らの物語に介入する事はない、といった類の話を聞かされていたらしい。
と言っても、そもそもあやつは味方とは言いきれぬ間柄だ。私も泰山に向かう際、貂蝉の助言を仰ごうとは考えなかった。
「でも……どうやって入ろうか?」
並木から並木に隠れて移動しながら、我らは歴史資料館とやらに接近して行く。
「どうやっても何も、正面から入れば良いのでは?」
「見られると都合が悪いと言うなら、鍵を破るなり壁を登るなりして忍び込めばよろしい」
「監視カメラとか警報装置とかあるだろうし、あんまりそういうのはなぁ……」
愛紗と私の至極もっともな意見にも、一刀はあまり気乗りしないようだ。亀羅……玄武のような怪物だろうか。
「いや、むしろそれしかないか」
然して、一刀は歴史資料館に歩み寄る。全く隠れる素振りもなく、正面から堂々と。
「すいませーん」
どころか、しゃあしゃあと見張りに声を掛けた。今までの隠密行動は何だったのか。一人で行かせるわけにもいかず、我らも木の陰から出て追従する。
「ちょっと昼にここで、部屋の鍵を失くしてしまったみたいなんですけど、少しだけ確認させてもらえませんか?」
そう来たか。
無難、かつ地味に、一刀は中に入る手段を選んだ。結果的に愛紗の方の案を採用されたようで面白くない。
その時―――
「「………っ!」」
背筋を、形容し難い怖気が走る。それは隣の愛紗も同様に見えた。
「北郷、一刀……」
「へ………?」
そして、この場の誰が行動を起こすよりも疾く―――
「が……っ!?」
見張りの男が吹き飛び、硝子に叩きつけられて罅を入れた。一切の迷いなく振るわれた恋の拳に、顔面を強打されて。
「ちょ、恋っ!? いくら何でも……」
「違う」
珍しく間を開けず、恋が主の抗議を遮る。未だ気づいていないのは主一人、まったくもって世話が焼ける。
「………ヒトじゃない」
恋の呟きを肯定するかのように、倒れた男は砂とも錆ともつかぬ物体となって崩れ去る。
……確かに人の気配ではないと思ったが、こうして実際に眼にすると薄気味が悪い。
こんな妖術じみた力を使う輩に、私は一つしか心当たりが無い。
「…………………」
漸く悟ったのか……主は何も言わず、歴史資料館に足を踏み入れる。“自動どあ”が自然に開き、主を内に招き入れた。
「……カメラもブザーも動いてない。入って来いって事か」
それが何故だか、姿見えぬ魔物の顎門のように思えた。
「ふっ、歓迎されているという事か。結構な事ではありませんか」
臨むところだ。今の私に―――怖れるものなど何も無い。
「……歴史資料館? あんな場所で何するつもりよ」
木の陰から顔だけ出して、詠ちゃんが先輩たちの様子を見てる。わたしは、詠ちゃんの背中の大荷物が邪魔して見えない。
「詠ちゃん……どうしてコッソリ後を尾けたりするの?」
わたしだって放っておくのは嫌だけど、こんな事しなくても、直接話せばいいと思う。というより、わたしは早くそうしたい。
「出ていっちゃ、ダメ?」
「ダ・メ」
駄目みたい。
「ここで出て行ったら、ボクたちがあいつを追っかけて来たみたいじゃない」
「………違うの?」
「違うの!」
……何も違わないと思う。こんな時まで、意地を張るなんて。
……わたしも、先輩の話を全部信じたわけじゃない。信じろって言われて、信じられるような話じゃなかった。
「(でも、先輩は……)」
少なくとも、先輩は本気だった。本気で……わたし達と、お別れするつもりだった。
「だったらどうして、そんな大荷物……」
「そっ、それは……ボク達が部屋を空けてる間に火事とか起きたら大変だから……!」
それなのに、詠ちゃんは意地を張ってる。言い訳にもならない言い訳をしながら、こんな所でコソコソしてる。
でも……意地を張る必要があるって事実が、わたしはこの時、とても気になっていた。
「詠ちゃん………」
こんな時なのに……ううん、こんな時だから、確かめたくなった。
「な……なに?」
名前を呼んだだけ、強く言ったわけでもない。でも……詠ちゃんは、わたしの気持ちをすぐに解ってくれる。
わたしの事、何でも解ってる……大切な親友。だからこそ、はっきりさせたい。
「先輩の事……好きなの?」
嫌いじゃない事は知ってる。好きな事も知ってる。でも……“すき”なのかは解らない。
わたしも、詠ちゃんも、今までそういう事、なかったから。
「…………好きじゃ、ないわよ」
………好きなんだ。
わたしが思った言葉をそのまま口に出そうとした、その時………
「が………っ!?」
誰かの呻き声が聞こえて、わたし達は思わず、木の陰から完全に身を乗り出して先輩たちの方に目をやった。
「「っ!?」」
そして、言葉を失った。
恋さんに殴り飛ばされた警備員の人が、灰みたいになって消え去る。
そんな……信じられない光景を眼にしたから。驚きが強すぎて、叫び声すら出なかった。
「何……あれ……?」
二人揃ってよろめいて、丁度良くお互いに身体を預ける形になって、何とか踏み止まる。
そんな事をしてる間に、先輩たちは歴史資料館に入って行ってしまった。残っているのは、恋さんが置いていった風呂敷包みだけ。
………荷物を置いていったって事は、これからもっと危ない事、するのかも知れない。
「…………行かなきゃ」
それでも、詠ちゃんはゆっくりと歩き始める。こんな怖い光景を見ても、先輩を追い掛ける。
「……やっぱり、好きなんだね」
わたしと、詠ちゃん、同じ人を……好きになっちゃったんだ。
「………好きじゃない」
詠ちゃんは、必死に首を振って否定する。
「好きじゃない……あんなヤツ好きじゃない! でも………」
詠ちゃんの場合、それは肯定と同じ。本当に……本当に好きなんだ。
「あんなお別れなんて、絶対…絶対認めないんだから………!」
「………うん!」
少しだけ聞けた詠ちゃんの本音に、わたしも元気よく返して、歩きだす。
複雑な気持ちも、怖い気持ちも確かにあるけど、後悔だけはしたくない。
だってこれは、わたし達の……初恋なんだから。