「(落ち着け………)」
冷たい夜風を頬に受けながら、俺は自分に言い聞かせる。
「(いつもの恋に比べたら、こんなの何でもないだろうが)」
女子寮のだだっ広い庭の片隅。一本の木の下で、俺は恋と向かい合っている。
この状況は、俺が作り出したもの。全ては、昨夜にやらかした大失敗をやり直すため。俺の気持ちを伝えて、新しい関係を始めるため。
「(恋人になるか、疎遠になるか……どう転んでも、今まで通りじゃいられない)」
黙りこくってる俺を、恋は何も言わずにじ~~~っと見ている。ある意味、ありがたい。
「(ビビんな、たった三文字じゃねーか!)」
だからって、いつまでも黙ってんじゃ白けるなんてもんじゃない。けど……心臓がヤバい。剣道の大会の試合前よりヤバい。
それでも………言う。絶対言う。死んでも言う。昨日みたいな馬鹿は、何があってもやらかさない。
「俺は…………」
そう固く言い聞かせて、俺は遂に口を開く―――。
「…………………」
「…………………」
夜の闇に消えて行った二つの影を見送って、二人の少女は寮の屋根の上で宴の余韻に浸る。
言わずもがな、星と愛紗だ。まだとても、何の抵抗もなく安らかな眠りに就けるほど悟ってはいない。
「楽しい宴だったな」
「………そうだな」
特に、愛紗は。
「主は、恋と交わした約束を果たせなかった事を甚く悔いていた。こんな形でもそれが果たされたというのは、仲間として素直に喜ばしい」
もう二度と会えないと思った―――自身がその手に掛けた―――一刀との、穏やかで、和かな一時。
それは紛れもなく幸せな時間。だが……いや、だからこそ、それをそのまま甘受する事が出来ない。
「私は…………」
星に喝を入れられ、尻を叩かれるようにここまで来た。少しは前に進めているのかも知れないが……やはり、静かになると考えてしまう。
「どうすれば……良いのだろうな……」
この和かな世界で、全てを忘却した一刀と共に生きて行く。それを自分に許す事が……どうしても出来ない。
裁きを委ねるべき一刀は、愛紗の罪を忘れている。だから愛紗は……いつまでも解を見いだせない。
「己の道は己で決めろ。……せいぜい、独り善がりにならぬようにな」
こんな問答を、もう何度繰り返しただろうか。意地悪で優しい星は、やはり解を示さない。
だが……今ばかりは、星も少し、いつもと様子が違っていた。
「………………」
愛紗の苦悩する様を見て、星も頭を悩ませる。だがそれは……単に愛紗を心配しているといった類のものではない。
「………星?」
他者に弱みを見せる事の無い星が、どこかぼんやりと虚空を見つめている様子に、愛紗は怪訝そうに振り向いた。
「なあ、愛紗よ……」
まさにそれを待っていたと言わんばかりに……
「おぬし、処女か?」
「…………………………………………は?」
言った。
「はあぁーー!?」
あまりに突拍子も無く、ふざけている(としか思えない)発言に、愛紗は真っ赤になって大声を上げた。迷惑千万である。
「お、お前っ……こんな時に何を不埒な……!?」
「応えてくれ」
が、星の表情は至って真剣だ。あまりに真摯な様子に、逆に愛紗が気圧されてしまう。
そして、渋々く口を割る。かつて幾度となく一刀と重ねた夜を思い出しながら。
「………知らないわけが、ないだろう」
が………
「阿呆か。誰もそんな古い話はしておらん」
「阿っ……!? お前が応えろと言うから応えたんだろうが!」
無論、星はそんな話はしていない。そもそも彼女らは、一刀と初めて出会った世界で二人一緒に夜伽を勤めた事もあるのだ。愛紗の言うように、知らないわけがない。
「今そこに、膜があるかと問うておる」
「ま、ま……まく……?」
星の、相変わらず真剣極まる視線を下半身に向けられ、愛紗は堪らずスカートの裾を押さえて後退る。
星の意図はやはり掴めない……というより、理解不能だ。
「そ、そんな問いに何の意味が………」
「在るのか、無いのか?」
いつもの様に人をからかって遊んでいる……にしては楽しんでいるように見えない星に、愛紗はやはり押し切られ………
「………………ある」
顔から火が出るような羞恥に耐えて、消え入りそうな声で告白した。
「……なるほど。やはりそうか」
そんな愛紗の葛藤など完全に捨て置いて、星は納得したような呟きを残し、そのまま何か考え事をしながら立ち去って行った。
残ったのは、とても恥ずかしい思いをさせられた愛紗一人。
「な、何だったのだ…一体………」
結局、星の意図は解らぬまま。自分の羞恥は何の為だったのかという虚しさだけを胸に愛紗はうなだれる。
その背中を………
「………愛紗」
「………恋、か」
柔らかい掌が、撫で擦った。
「あーあ………」
夜道を通り、寮の自室に帰り、布団に潜り込んだ一刀の……わざとらしい落胆が静かな部屋に響く。
『恋が好きだ』
今まで恋愛を他人事のようにしか考えて来なかった少年にしては、勇気を振り絞った告白だった。
『………♪』
告白して、恋が嬉しそうに擦りついて来たまでは、何の問題もなかった。一刀が思っていたよりリアクションがやたら軽かった、というのは気に掛かったが、それくらいなら大した問題ではなかった。
『(あっ、そうだ……プレゼント)』
極度の緊張で順序を間違えた一刀が、遅まきながら誕生日プレゼントを取り出した時、それは起きた。
『………………』
取り出したプレゼントを、恋に手渡せない。あの時の感覚が再び一刀を襲い、それを見透かしたように………
『…………ダメ』
恋は、一刀から距離を取り………
『それは、恋が貰っちゃ、ダメ………』
そう告げて、逃げるように走り去って行った。
取り残された一刀が、ちゃんと告白の返事をもらっていない事に気付くのは、それから10分ほど後の事である。
「あれって、まだフラれたわけじゃ……ない、よな?」
こうして、喜んでいいのか悲しんでいいのか微妙な心境で帰宅した一刀は……判断の難しい寡黙少女の内心ばかり考えながら悶えているのだ。
「ま……すぐに解るか」
それも無駄な葛藤だと知り、一刀は手足を広げて開き直る。
いくら悩もうと、もう告白はしてしまったのだ。恋の顔色を窺っても仕方ない。それに……ある種の信頼がある。
少なくとも、恋があんな態度を取るのは一刀の他にいないのだから。
「(……起きたらまた、変わらない一日が始まる)」
その事に淋しさと安らぎを感じながら、一刀は意識を己の深遠へと手放す。
また変わらない明日が来る。この瞬間、一刀はその未来を……疑ってすらいなかった。
「………………」
薄暗い部屋の中に、僅かな光に淡く浮かぶ白い影が、舞い下りる。
無用心は相変わらずだ。そう影は……星は、思う。
「(ここが、主の世界ですか)」
音を殺してベッドに腰を下ろし、腹が立つほど呑気な寝顔にそっと手を添える。
「(今日一日、この世界で生きる貴方を見て……解を出そうと決めておりました)」
愛しさを籠めて頬を撫でると、心地良さそうに表情を緩める。その仕草が、幼子みたいで可愛らしい。
「(だが……それは自惚れだったようだ)」
解は見つからなかった。初めから、見つかるはずなどなかったのだ。
穏やかな世界。普通に生きれば、まず戦いを必要としない世界。何を思い煩う事もなく、仲間との笑顔を守っていける世界。
ここで……本来の居場所で生きて行く事が、一刀の幸せかも知れない。そう思ったのも事実だ。
だが……そうじゃない。
「(貴方の幸せを、貴方の正義を、私が決める道理など無い)」
いつか記憶が戻った時、自らの忘却が受け入れ難い過去を生んだと知れば……一刀はどう思うだろうか。
必ず、深い悲しみと後悔に囚われる。……今の愛紗のように。
『忘れていたのだから仕方ない』、そんな渇いた台詞を吐く男は……星の愛した北郷一刀では断じてない。
無様でも、惨めでも、仲間の為に最後まで足掻き続ける。
欲張りで、諦めが悪くて、誰よりも優しい……そういう男だ。
「(だから私も、諦める道を選びません)」
及川から一刀の現状を聞いた時、星は既に一つの憶測を持っていた。
前の外史から離別した一刀が、自分たちとの別れを受け入れてのうのうと学生生活など続けるだろうか、と。つまりそれは……こちら側から外史を越える術は無いという事なのだろう、と。
しかしその憶測は……“記憶を失った一刀”という慮外の結果によって覆された。そして皮肉な事に……その結果が今、微かな希望として残っている。
一刀の記憶さえ戻れば、或いは……という希望として。
「(私が今からする事は、貴方の平穏を壊す結果を生むかも知れない)」
星はその可能性を、無きに等しいものと思っている。一刀はそもそも、自らの意志で世界を渡ったわけではないのだから。
「(それでも、私は……)」
決意する。
「(貴方はきっと、忘れてなどいない)」
星は初めから、ある種の違和感を覚えていた。それが今日という一日を経て、愛紗への問いを経て、確信へと変わった。
頬に残る刃の古傷を撫でながら、やはり、と思う。
この傷は、魏との決戦の渦中に華琳がつけたものだ。そう……“その傷が残っている”。
「(今の主は、以前の我らと同じに見えて少し違う。より色濃く、かつての自分を残している)」
初めて一刀と出会った世界で、一刀に捧げたはずの純潔を……愛紗は今、持っている。つまり、肉体の状態は継承されていなかった。だが、一刀は違う。
それだけでは断定は出来なかったが、今日一日行動を共にして、“初対面の人間”に向けるものではない愛情を幾度となく感じて、悟った。
一刀は……一刀の死を目の当たりにするまで覚醒出来なかった自分たちとは違う、と。
「(外史を越えた私なら、二つの世界を繋ぐ架け橋になれるかも知れない………否、なってみせる)」
記憶を取り戻しても、悲しみしか残らないかも知れない。
月と詠が死に、恋が一刀を守る為に己が身を捨て、愛紗が錯乱の果てに愛する男を斬り殺す。
そんな過去、思い出したいはずがない。そして、世界を渡る術を知らなければ、一刀は“あちらの結末”を指をくわえて……見る事すら叶わないのだ。
何一つ、良い事など無い。
“それでもやる”。
「起きて下さい、主……」
愛しい気持ちを、求める想いを、共に歩む意志を乗せて……星は自身の唇を、眠れる主君のそれに重ねた。