シュワシュワと奇妙な音を立てる黒い液体を口に運び、味わう……と呼ぶには短すぎる一瞬の後に―――
「くはぁ………!」
星は口にした物を吹き出した。
「な、何だこれは……無数の針に舌先を刺されるような……これが天界酒!?」
「……いや、コーラだけど」
手にしたアルミ缶を信じられないような眼で凝視する星に、一刀が横から小さくフォローを入れる。
星と愛紗。それに恋を伴ってのお出掛けからもう何度目かという一刀の驚愕である。
「(どんな育ち方してきたんだ……てか、てんかいしゅって何?)」
朝に顔を合わせてすぐ、一刀は自分と二人の関係について訊ねたのだが……
『口で話してすぐに納得出来る話でもない。というより……我らから話を聞くだけでは意味が無いと言うべきか』
と、昨夜より少し固さの取れた口調で、かなり意味深にはぐらかされた。しかも、一刀の預かり知らぬ所で、本日の(一刀を含めた)スケジュールまで決まっていた。
斯くして、四人の平凡にして非凡な町内散策は始まったのだ。
「(何となく変り者だろーなとは思ってたけど、ここまでとは………)」
見るもの全てが珍しいらしく、どこを歩いてもキョロキョロと落ち着かず、稚拙な質問を繰り返す。字も読めないらしく、外国育ちかとも思われたが、そのわりに言葉は通じる。……口調はかなり古めかしいが。
「甲羅……ですか? そんな風には見えませんが」
「甲羅じゃなくてコーラ、ジュースだよ」
「重酢……なるほど」
「(まだなんか間違えてる気がする………)」
星の態度に興味を示した愛紗が横から顔を覗かせ、一刀の説明にどこか間違った解釈で納得している。何だかこんなやり取りも楽しくなってきている一刀であった。
「愛紗……学生が学生に敬語を使うのは可笑しいと言ったろう? 何の為に制服を調達したのか判らぬではないか」
「………そういうお前は、順応が早過ぎだ」
「フフン、私は『一刀』と呼んでいた期間の方が長いからな」
「くっ………!」
何やら勝ち誇る星の足下では、カランコロンと下駄が軽快な音を鳴らしていた。もちろん星には、自身が擬態に失敗しているという自覚など露ほども無い。
『どういうセンス?』とツッコミたいけどツッコミ辛い空気である。
ちなみに聖フランチェスカで生徒同士が敬語を使うのは、別に珍しくも何とも無かったりする。
「………やっぱ、うちの生徒じゃないんだよな?」
「(……コク)」
我関せずの姿勢でクピクピとカルピスを飲んでいた恋は、一刀の問いに小さく頷いて応える。友達……と自称するわりに非協力的な恋だった。
そんな恋は、やはりマイペースに、公園の東屋に腰掛ける憩いの時間に終止符を打つ。
「………ごはん」
の一言と共に立ち上がり、数歩先んじて歩いてから、促すように一刀や星らに目配せを送る。
その仕草が、何だか散歩を催促する仔犬みたいに見えて、一刀は小さく吹き出した。吹き出して、頭上に疑問符を浮かべる恋の隣に並んで歩きだす。
「…………………」
―――その背中に向けられる視線の意味には、気付かないままに。
「まだ迷いは晴れんか」
「!」
じっと一刀の背中を見ていた愛紗に、星が横から声を掛けた。心を見透かしたかのような指摘に、愛紗は思わず眼を見開く。
振り向いて視線を合わせて、また逃げるように眼を背けた。
「……本当に、このままで良いのだろうか」
星だから、ある意味誰よりも対等な人間だからと、愛紗は自分の心情を吐露する。
こうして世界を越えて、記憶を失った一刀と歩いていく………その事に、何の疑問も持たないはずがない。
「……本音を言えば、怖かった。もう一度ご主人様と会って、どんな言葉を受けるかを考えると……堪らなく怖かった」
それが憎悪であれ、包容であれ、今の愛紗にとっては刃となって突き刺さった事だろう。だが……ようやく出会えた一刀は、愛紗の罪どころか、愛紗という人間そのものを忘れてしまっていた。
裁かれる事すら許されない愛紗の心は、行き場を失くして今も彷徨っている。
「…………………」
そんな愛紗に、星はやはり解を示さない。示せないと言った方が正しいだろうか。
だから……というわけではないが、星は静かに別の事を考え始める。
「記憶…か………」
結果は変わらないかも知れない。否、変わらないだろうと星は思っている。
ならば、そんな行為に意味などあるのだろうか。一刀を徒に傷つけるだけではないのか。
「(迷っているのは、私も同じか………)」
―――外史を越え、その先の道に闇を見る二人の少女の間に……残された者らの名が出る事は無い。
「(もぐもぐ………)」
相変わらずの食欲で、恋がファミレスの皿を積み上げていく。
一応のプランとしては、俺が恋を連れ回してる間に誕生日パーティーの準備を進める手筈になってるんだけど………
「(いま食べ過ぎて、晩が入らないなんて事は………ないか、恋に限っては)」
だったら、問題なんて月初めなのに氷河期を迎えてる俺の財布くらいのもんだ。………今月どうしよ。
「これが“ぱへ”か。この白い物体は一体……?」
シカモ、何故か誕生日でも何でもないだろうお二人さんの飯代まで俺持ちっていう。
イチゴパフェをつついてる星が不思議と可愛いから良いけど。………とか思う時、「ああ、男って悲しいな」と痛感する。
まあ実際、恋の食費に比べたら全然大した事ない。……ファミレスでメンマ頼もうとした時は驚いたけども。
「(………楽しいな)」
今、確かにそう思える。かなり変り者だし、俺を探してた理由とかも教えてはくれないけど……この二人に会えて良かった。
そう思えた……からかも知れない。
「愛紗も、何か頼んだら?」
どこか遠慮みたいな壁を張ってる愛紗に、少し不満を感じたのは。
冷静に考えれば、単に俺が馴れ馴れしいだけなのに。
「ですが、ご主人様……私は……」
「それとさ、星も言ってたけど敬語なんて使わなくていいよ、同い年なんだし」
けど、何だか居心地が悪かった。初対面でいきなり抱きついて来たり、名前で呼んで欲しいとか言うわりに……愛紗は、俺とほとんど眼を合わせてくれない。
「とりあえず、ご主人様は勘弁して。北郷でも一刀でも、好きに呼んでいいから、ね?」
だから……もっと近づきたいって、強く思った。
出来る限り軽く、明るく笑い掛けたつもりだった。
「っ……………」
………でも愛紗は、何故か苦しそうに唇を引き結ぶ。それが……自分でも不思議なくらいやるせなくて、もどかしい。
「(こんな顔、して欲しいわけじゃないのに………)」
こんなに苦しそうな顔をする理由が解らない事が、それを何とかしてやれない事が………悔しい。
その時、不意に気付く。
「………………」
愛紗の隣でパフェをつついてたはずの星の、まるで探るみたいな視線に。「何?」と眼で訊ねてみると………
「……いや、何でもござらんよ」
さっきまでのが嘘のような微笑で、あっさりはぐらかされた。
「まったく、お前が塞ぎ込む事で一刀に心労を掛けてどうする。少しは学習しろ」
「そういう問題では……あっ、待て!」
そのままメニューを手に取り、勝手に愛紗の分まで注文する星。次いで――――
「…………ん」
一掴み、ポテトを愛紗の口に持っていって「ん」する恋。無駄に重苦しかった空気が、あっという間に霧散した。
「はは…………」
恋の仕草に顔を赤らめながらポテトを食わされてる愛紗を見ながら、俺はさっきまでの自分を笑う。
たかが昼飯の他愛ない会話に、一体何を張り詰めて考えてたのやら。最近どうも、調子がおかしい。
「月、詠! こっちこっち!」
星たっての希望で待ち合わせをしていた二人の到着に手を振りながら、俺は妙な感傷を振り払う。
今はただ、この時間を楽しもう。そんな風に考えた時――――
『………会いたいよ』
誰かの声が、聞こえた気がした。
あの後も俺たちは、本来なら誕生日パーティーの準備に専念するはずの月と詠まで連れ回して、平和な休日を存分に堪能した。
恋がゲームセンターでパンチングマシン壊したり、星に遊ばれた詠が軽くヒステリー起こしたり、愛紗がデパートのエスカレーターから転落しそうになったり、昨日怒らせて電話にも出てくれないらしい彼女を探し回る及川を見かけたりと、まあちょっとしたハプニングこそあったものの、十分以上に楽しい一時だったと言える。
今日は恋に楽しんでもらう為の一日。その恋がずっとご機嫌だったんだからオーライだ。
「………で、結局誰なのよ? あの二人」
「星と愛紗。かなりの変わり者」
そして迎えた誕生日パーティー。一応サプライズのつもりだったんだけど、今日一日お姫様だった恋の行動を鑑みると、察して……はいなかったにしても、期待はされていたんだと思う。
「それは知ってるわよ。何者かとか、どういう関係かとか、そういう事を訊いてんの」
「知らん。つーか、恋の友達って言うからてっきり詠たちとも友達だと思ってたのに………」
「ボクだって知らないわよ」
小判鮫よろしくついて来た星と愛紗も交えて、女子寮のパーティーは盛大に行われた。事前に他の子に買い出しを頼んでた月と詠がその手腕を発揮し、恋は昼間にあれだけ詰め込んだとは思えない健淡家っぷりを見せてくれた。
「いい気なもんよねぇ、“ご主人様”とか呼ばせて鼻の下伸ばしちゃってさ~」
「だから呼ばせてねー! そんな汚物を見るみたいな眼で俺を見るな!」
右を見れば、恋は変わらずホールケーキにかぶりつき、その隣で愛紗はメロメロになっている。
「ま、どうでもいいけど………プレゼント渡したの?」
左を見れば、月が星にメンマを要求されてオロオロと困り果てている。
「………こんな状況で渡せるかよ」
そして俺は、窓際で夜風に当たりながら詠と尋問めいた雑談を続けていた。
あまり触れられたくない話題をピンポイントで突かれ、俺は適当な言葉でお茶を濁す。………昨日の失態の事は隠して。
「どーだか」
そして詠のジト眼は、俺の薄っぺらな誤魔化しを見抜いている……ような気がする。
「………悲しませたら、承知しないから」
眼を合わさずに小さく呟いた詠の一言は……確かに、俺の耳に届いていた。