「…………………」
学校の女生徒から聖フランチェスカの制服を手に入れ、完全に天界人に扮した星と愛紗が一刀の部屋に辿り着いてから、それなりの時間が経っている。
寝台の残り香や教本の名前から、ここが本当に一刀の部屋だという事は判ったが、まだ確信には到っていない。
自分たちを陥れる罠とも限らない、という理由で、及川は引き続き行動を共にさせられている。星や愛紗にも少しばかり罪悪感が湧かなくもないが、どうせ同じ建物に住んでいるのだ。そこまで気にする事もない。と考えた。
彼女らも必死なのだ。
「ふむ………」
そんな星は、初めて目にする“てれびじょん”の前に張りついていた。画面の中では、特撮番組の正義の味方らが精巧な着ぐるみに制裁を加えている。
「主もまったく人が悪い。天界の“緋色”と言うのは、演劇の役者に過ぎぬのではないか」
風の書いた本と及川に聞いた情報を基に、星はまだ見つからぬ探し人に文句を垂れる。
因みに“緋色”とは、一刀が口にした“ヒーロー”という単語を星が誤解しただけの呼び名である。
紛う事なき正義の味方・華蝶仮面を自認する彼女にとって、役者と同列視されるのは甚だ遺憾だ。
繰り返すが、彼女らも必死なのだ。
「………そのわりには、飽きもせずに見入っているではないか」
最初こそ“恐ろしいほど精密な紙芝居”に驚きを隠せなかった愛紗だが、今は見向きもしない。正確には、その余裕が無い。
「慌てふためいて事が上手く運ぶなら、いくらでもそうするがな。おぬしこそ、少しは落ち着いたらどうだ?」
「…………………」
この部屋に入り、時が経つに連れて、愛紗は目に見えて平静さを失っていった。
落ち着きなく貧乏揺すりを繰り返していたかと思えば、熊のように忙しなく部屋の中を歩き回る。
一刻も早く一刀の存在を確認したいという焦燥と、いざ再会を前にして尻込みしてしまう怖れが……一刀の私室という環境下に置かれる事で一気に膨れ上がっている。
「(やれやれ)」
そんな愛紗の心情を痛いほどに理解して、星は構わず“あるばむ”を開く。
ここから先は自分が口を挟んでも意味がない。愛紗自身が向き合わねば何も変わらないと解っているから。
開いた本の中には、まるで鏡に写したような絵がたくさん並んでいる。“かめら”でとった“しゃしん”だそうだが、今一つ良く解らない。
解るのは、ここに映っているのが一刀の過去だという事のみ。差し当たって、それだけ解れば十分である。
「え~……と、ものっそい今さらなんやけど、ええ?」
「? 何か?」
半ば忘れられたように部屋の隅にいた及川が、控え目に挙手し、アルバムを眺めていた星と、相変わらず歩き回っていた愛紗が振り返った。
「お二人とかずピーは、一体どんな関係なのでせうか……?」
「ああ、彼女だ」
窺うように放った問いに返った即答に、及川が石化する。愛紗はと言えば、星の意味不明な返答に疑問符を浮かべている。
「星、彼女とは一体誰の事だ」
「天界の若者は、恋人にそういう呼称を使うらしい。まあ、妻と言っても過言ではないがな」
そもそも一刀との関係を問われて、彼女と返すのはおかしい。そんな愛紗の疑問に、星はさらりと応える。
粉々に崩れ落ちる及川には構わず、愛紗は視線で星を責めた。“僭越に過ぎる”と。そんな非難を、星は素知らぬ顔で受け流す。
この世界の一刀は、一介の学生に過ぎない。臣下と名乗れば不審に思われてしまう。………という理由だけでもないが。
「(しかし、少し妙だな………)」
一刀の恋人と呼ばれ、またその事で思考の海に沈む愛紗を眺めながら、星は別の事を考える。
星個人としては、今の状況は決して悪いわけではない。一刀の死を目の当たりにし、一人絶望の淵に沈んでいた頃に比べれば雲泥の差だ。
神殿で愛紗と合流出来、死……どころか、消滅さえも覚悟した外史の超越も為し得た。行き着いた先で、たとえ一生掛かっても見つけだすと決めていた一刀とも……僅か一日足らずで再会を果たせそうな気配だ。
この成り行きに不満などあろうはずがない。思った以上に順調に事が運んでいるのも、それだけ自分たちの想念が強く反映されたのだと納得出来る。
気になるのは、その過程。
「(……そういう事、なのだろうな)」
諦観にも似た気持ちを抱いて、星が眼を閉じた時――――
(ガチャリ)
―――部屋の“どあのぶ”が、回った。
「……………え」
自分の部屋の扉を開けた所で、一刀はあらゆる意味で完全に停止した。
鮮やかな水色の髪とルビーみたいな紅の瞳の美少女。艶やかな黒髪と金の瞳の美少女。制服からしてフランチェスカの女生徒と思しき二人が、一刀の部屋に居座っている。
まるっきり思考が追い付いていない。
「あ……ごっ……しゅ…」
目を丸くしたまま、棒立ちで動かない一刀の正面で、愛紗は擦れた声を漏らす。
「(ご主人様が……いる………)」
ずっと会いたかった。今すぐその胸に飛び込みたい。愛していると叫びたい。震えるこの身を抱き締めて欲しい。
どんな顔を向ければいいのか。自分に彼を主と呼ぶ資格があるのか。罪深きこの手で、彼に触れる事は許されるのか。自分の存在は……彼を傷つけるだけなのではないか。
二つの相反する感情に引き裂かれて、愛紗はその場に縫い止められる。
近づきたくても、竦んだ足は動いてくれない。俯きたくても、瞳は愛しい人から離れようとしない。
「(すぐそこに、ご主人様がいるのに………)」
今の自分の在り様そのものが、堪らなくもどかしい。退く事も、進む事も出来ず、ただ立ち尽くす事しか出来ない。
いつしかその頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……一つ、貸しだ」
割りを食う長女のように憮然とした星が、その背中を押してやる。……ただし乱暴に、足蹴で。
「あ………っ」
踏張る事も忘れた愛紗が、全く無防備に倒れこむ。一刀の胸の中へと。
「っ…………」
懐かしい香りが、鼻腔を擽る。
「うぁ……ぁ……」
求めていたぬくもりが、柔らかく包み込む。
躊躇いが、葛藤が塞き止めていた本心は―――
「………あい…しゃ…………?」
「ッ―――――!!」
真名を呼ばれる事によって、決壊した。
「ごしゅ、じ………っ!」
呼び掛けを返す事すら、叶わない。
「う……うわああぁぁあああぁああぁああーーーー!!!」
ようやく辿り着いたそこに縋りつき、愛紗はただ……子供のように泣いた。
「………………」
わんわんと泣きじゃくる胸元の少女を見つめながら、一刀は今の自分の状況を考える。
「(………………うん、わからん)」
無駄だった。
恋に告白しようとして、最悪に近い形で失敗して………部屋に帰って来たら、見知らぬ美少女が二人。
しかも、その内の一人はいきなり泣き出し、自分の胸に縋りついている。
「(あいしゃ……って、なんだ?)」
勝手に口を突いて出た自分の言葉が引き金のように思えたが、一刀にはその単語に憶えがない。
ようやく思考が回復しても、女の子が泣き止まないので会話も出来ない。……というより、今は何もしないのが正解に思えてならなかった。
「…………………」
少女の背中に回した腕を、解きたくない。いつまでもこうしていたい。
健全な青少年らしい欲求とは何か違う、切なくて穏やかな気持ちで、一刀はそう思った。
「…………ふむ」
黒髪の少女を胸に抱いたまま、一刀は後ろにいる……先ほど黒髪の少女を蹴飛ばした水色の少女を見た。
少しだけ苦しそうに、しかしそれ以上に微笑ましげに眼を細めている。
そして……………
「スンっ……スン……」
ようやく愛紗が少し落ち着いた段になったのを見計らって、“彼”は口を開く。
「……オレはもう何を信じたらええん。彼女ほしーくせに修行とか剣術とかちょっとキモいこと言っとるオレのかずピーはどこ行ってしもたん?」
そう、半ば忘れられた存在として、いつの間にか復活を果たしていた及川である。
一刀は、安心させるように愛紗の背中を優しく叩きながらゆっくりと引き剥がして――――
「あべしっ!」
その顔面に、足裏を綺麗に叩き込んだ。
「なにすんねん!」
「いや、ツッコミ待ちなのかと思って」
及川の抗議を、一刀はまるで意に介さない。ひっくり返った及川の方は向かず、再び愛紗と星に向き直り…………
「で、誰だよこの子たち。見ない顔だけど」
そう、言った。場の空気が、一瞬にして凍り付く。
「………え………?」
愛紗が間の抜けた声を溢し、
「主…………?」
星が、その表情を固くする。
信じられない。否、信じたくない。そんな……絶望を拒む表情に。
二人のそんな様子に気付かず、一刀の意識は及川との会話に向いている。
「って、かずピーの彼女なんやろ?」
「………もっぺん蹴るぞ、お前」
「いやいやいや! ボケとんちゃうから! 現に抱き合っとったやん!」
「いやっ、それは…えっと………」
すぐ傍に自分たちがいるのに、外史をも越えてようやく巡り合えたのに………一刀がこっちを向いてくれない。
二人には………それが、何より重く、堪えた。
「…………我らの事を、お忘れか?」
それでも星は、自ら絶望の蓋を開ける。確かめずにはいられない。
「…………え?」
返って来たのは、完全に虚を突かれたかのような、困惑。『自分がそんな事を訊かれる』とは、露ほどにも思っていなかったという表情。
………確定だった。
「そん、な………」
弱々しく両膝を着いた愛紗が、乞うような眼で一刀を見上げる。
嘘だと言って欲しい。そんな切なる願いに……一刀は返す言葉を持たない。
星と愛紗を絶望が包み、二人のただ事ならぬ様子に一刀と及川も閉口する。
無力で、壊れそうで、重苦しい静寂が、四人の時を止めてしまっている。
―――しかし、止まった時を動かす者がいた。
「…………………」
その少女は、開きっ放しになっていた扉から、無遠慮に足を踏み入れ、音も無く現れる。
そして――――
「! 星、愛紗」
「「っ……恋!?」」
―――もう一つの再会を、果たす。