光の中から、誰かが手を伸ばして来る。
『主っ!』
また、この夢だ。
『私を置いて……どこに行くおつもりですか!』
前とは違う、誰か。同じなのは、置かれている状況と向けられて来る想い。そして……俺から彼女に向ける気持ち。
『そんな事、絶対に許しませんよ……っ!!』
愛しくて、だからこそ切なくて、届かない自分の手が憎い。
『無様でも、情けなくてもいい! この手に主を掴みたい……!』
こんなに求めているのに、こんなに別れが苦しいのに………どうして、俺は名前も解らないんだ。
『惚れた男を手放すほど甘い女ではないと、主に言ったではないか……っ!』
もしかして、俺は…………今在るものを守ろうとしているわけじゃ、ないのか?
そう思った時………
『離しませんよ、今度こそ』
―――声が、すぐ傍で聞こえた…………気がした。
「ーーーーーーー!!」
まず初めに、自分自身の大声が聞こえて………
「うわぁ………」
「クスクス」
「ビックリしたぁ、なに?」
教室中の視線を独り占めしてる自分に気付いた。俺は自分の机を叩いて勢いよく立ち上がった姿勢で固まってるし、これはつまり…………
「北郷、居眠りまでなら大目に見てやっていたが……そんなに儂の授業を邪魔したいか? ん?」
…………そういう事、だよなぁ。桔梗先生が指先で弄んでるチョークが怖すぎる。
「いえっ、ホントすいませんでした! どうぞ続きを!」
逃げるように着席。あーもう、俺絶対いま顔赤い。居眠りまでならともかく、叫び声は恥ずかし過ぎる。
「かずピー剣道し過ぎやって。夢ん中までしとんのか?」
「………うっせーよ」
隣の及川が激しくウザイ。とはいえ、実際は剣道よりよっぽどメルヘンっぽい夢だったので適当に誤魔化しておく。
「でも『せーーーい!』は無いわぁ。どうせなら『めーーん!』とか『こてーー!』とかのがおもろかったのに」
「せ、い………?」
俺、そんな事を叫んでたのか。なら、もしかして………
「………星って、言うのかな」
及川の勘違いが、意外な所で役に立つとは。あんなに知りたがってたのに、何だか拍子抜けだ。
「(でも……やっぱり、知らないな)」
星って名前が解っても、やっぱり俺はその娘を知らない。もう少しで見えそうな気がした顔も、目が覚めた後だと余計に朧気な感じがする。
あれは、夢の中にだけ出てくる変なキャラクター的なやつなのか? あんなに俺が必死なのも、夢だからこその理屈無しの衝動みたいなもんなのか?
「(何でこんなに、気になるのかな………)」
最近ではすっかりお馴染みの思考の海に、俺は、一人で喋り続ける及川のメガネにチョークが刺さるまで沈み続けた。
放課後、恋からのメールが届いてすぐに、俺は及川を買い物に誘った。
メールの内容は、平たく言えば「今日は先に帰る」だ。何でも週に一度、隣町の野良たちと会う日らしい。俺にとっては渡りに船、部活をサボってプレゼント買いに行こうと思ったんだけど…………
『今日はデートがあるんよねぇ、デ・ェ・ト、が。悪いけど、買い物ならかずピー一人で行ったって♪』
とか、上から目線で言いやがった。ちょっと彼女がいるくらいであんにゃろう。もし俺が大一番に成功したら、これまでの屈辱を倍にして返してやる。
あいつの“今の”彼女がどんなのか知らんけど、恋以上の美少女なんてそうそういるわけがない。
「…………緊張してきた」
とにかく、まずはプレゼントだ。俺は及川より遥かに頼れる協力者がいる事を思い出して………早足に廊下を進む。
……………………
「はあっ? 買い物に付き合え?」
そう、恋の幼なじみにして同性。恋が喜びそうな物も熟知してそうな、月&詠である。
「何であんたの為に、部活サボってまでそんな無駄な事しなくちゃなんないのよ。ボク達、もう恋のプレゼント用意してるんだけど?」
詠が素直に協力してくれないだろう事も予想してたけど、今回に限ってはいくらでもやりようはある。
「頼む! 俺って言うより、恋の為だと思って!」
「う……………」
詠は結構づけづけと物は言うけど……基本的には面倒見のいいお人好しだ。しかも月や恋に対してはストレートに甘やかす。
俺の頼みはダメでも、恋の為なら折れてくれるはず。いや……むしろ折れて下さい。
「詠ちゃん、わたしは……いいよ?」
「さすが月!」
「はぁ……もう、すぐコイツを甘やかすんだから」
優しい上に詠と違って素直な月の了解の相乗効果で、俺は強力な助っ人を二人も得た。
「わかったわよ、アドバイスはしてあげる。でも、最終的にはあんたが選びなさいよ? じゃなきゃプレゼントの意味なんて無いんだからね」
「ははー」
頭を深々と下げて、大袈裟に感謝してみる。ホント良い後輩を持って幸せですよ、俺は。
「なら早速いこうぜ。俺、カバン持つからさ」
「いい心掛けね。丁寧に扱いなさいよ」
フフン、と鼻を鳴らす仕草にも腹が立たない。差し出された詠のカバンを受け取ろうとして――――
「ッ………!!?」
「ちょっ!? 言ったそばなら何やってんのよ!」
取り落とした。刺すような視線を背中に受けて、意識が完全にカバンから外れた事によって。
「(何だ、今の……!)」
詠に返事をするのも忘れて、俺は弾かれるように振り返る。そして……見つけた。
「……………………」
廊下の突き当たり、曲がり角に位置する場所で……一人の男子生徒が俺を見てる。いや、睨んでる。
間違えるわけがない。隠そうともしない剥き出しの殺気が、今も俺を捉えて離さない。
「(誰だよ、あいつは…………)」
見た感じ、背は低いけど俺と同学年。目立つ白髪に整った顔立ち。おまけに……立ち姿だけでも、相当“使える”のが一目で判る。
だけど、そんな目立つ容姿以上に際立つのが、眼だ。
こんな冷たい視線、今まで感じた事が無い。背筋が寒い、鳥肌が治まらない、冷や汗が噴き出して来る。
「………………」
「………………」
声を出す事すら躊躇われるような睨み合いが続き、それは……やけにあっさりと終わった。
「ちっ」
唾でも吐き捨てそうなほど忌々しげに舌打ちして踵を返した、男子生徒によって。
曲がり角にいた事もあり、そいつは一秒経たずに俺の視界から消える。
「………あんな奴、うちの学校にいたっけ」
もしかしたら……俺が一方的に気圧されてただけで、あいつにとっては威嚇ですら無かったのかも知れない。
素で怖ぇ。キレたうちのじいちゃんより遥かに怖ぇ。でも………あんな奴がいたら、顔くらい憶えてそうなもんだけど。
「二年生の顔なんて憶えてないわよ。でも……感じ悪い奴だったわね」
武道と無縁な詠にも、あいつがガンくれてたのはわかったか。月に至ってはさらに顕著だ。
「あの、先輩……何であの人が睨んでたのかは知らないですけど、あまり……関わらない方が……」
「ああ……ぜんぜん勝てる気がしない」
あいつの眼にあったのは、敵意なんて生易しいもんじゃなかった。あの場で殴り掛かられるかと本気で思ったくらいだ。
いや………むしろ生命の危機を感じた。
「何が“勝てる”よ。言っとくけど、ボクがマネージャーしてる内は剣道部で不祥事なんて起こさせないんだからね」
「りょ~かい」
月と詠と一緒に、恋へのプレゼントを選ぶ。楽しい放課後の始めにケチをつけられた感は拭えなかった。
「………………」
誰もいない校舎の屋上から、一人の少年が世界を見下ろしている。
世界そのものに向けられていた失望の眼差しは、自身の掌に移され……激しい怒りへと変わる。
まるで、自分という存在を認める事を拒むように。
「とうとう、肉体まで具現化してしまいましたか」
その背中に、妙に艶の籠もった怪しい声が掛けられる。白髪の少年以外には誰もいなかったはずの屋上に、いつの間にか一人の青年が立っていた。
雰囲気も気色も異なる二人に唯一共通しているのは、額に刻まれた色違いの紋様のみ。
「わざわざ口に出さなくても解る。ムカつく事を再確認させるな」
「それは失礼」
少年は振り返りもせず青年に当たり散らす。八つ当たりに等しい怒声を、青年はむしろ嬉しそうに受け取った。少年の眉間の皺がさらに深まる。
「貂蝉の手でこの世界に放逐されて、正史ではどれほどの時が流れたのか………少しずつ、自分の存在が薄れていくのを感じてはいたんですけどね」
青年は呆れるように、或いは自嘲するように両手を広げた。
実際には、彼らが放逐されたのは『世界』などというはっきりとしたものではなかっただろう。
曖昧で形を持たない想念の残り滓が、ただ忘却されて消滅を待つだけの“空間以下の何か”だった。
それが起点を経て、基点を軸に、幾つかの楔によって固定され、外史として確立してしまった。
少年や青年を含めた想念ごと、一つの世界として。
「奴のせいで物語は始まり、奴によって終端は阻まれ、消滅を待ち侘びていた所に………また奴だ」
どこまで邪魔をすれば気が済むのか。そもそも貴様さえいなければこんな茶番劇は始まる事すら無かったのに。
そんな怒りが、少年の腸の奥で煮えたぎる。
「北郷、一刀……!」
キツく握り締めた拳の中で、爪が掌の皮を突き破って血を滲ませる。
その姿に青年はゾクゾクと背中を震わせ、口の端を引き上げる。
「しかし、弱りましたね。老人たちがいなければ、消滅の儀式を行う事は出来ない」
「ちっ、偉そうに文句ばかり並べてやがったジジイ共が。自分たちだけであっさり消滅しやがって」
自分たちで物語を紡ぐ事は出来ない。その存在理由は外史の否定。物語を見守り、ただ裁定を受け入れる貂蝉とは……同種にして対極の存在。
「俺たちには、物語を紡げない、か………」
己という存在の空虚さを、痛いほどに噛み締めて………少年は空を見る。
「………だったら、導いてやろうじゃないか。物語を紡ぐ者を」
―――一縷の希望を怨敵に賭ける。それすらもまた、虚しい。