上方に空だけが広がる泰山の頂、異質な空気を撒き散らす神殿の前に………二人の少女が立っている。
一人は趙子龍。二つの外史に渡って、運命の糸を手繰り寄せて北郷一刀に仕えた少女。
一人は関雲長。かつての外史に措いて北郷一刀を常に支え続け、この外史で歪みに苦しみ続けて来た少女。
同じ想いを抱き、異なる道を歩んで来た二人が今……一人の少年を求めて相対している。
「………真名を許した憶えは無いな。趙子龍」
緩やかに振り返りながら、愛紗は星と向かい合う。
何かを押し殺すような、どこまでも感情を見せない金色の双眸で。
「本当に憶えが無いか?」
そんな愛紗に、星は意味深げに唇を歪めた。愛紗は僅か、目元を険しく尖らせる。
「どういう意味だ」
「私もお前も……今という大事に、このような秘境にいる。それだけでは解にならんか?」
星は一つの確信を持って、愛紗に不敵な笑みを見せる。
今ここに立っている。それ自体が何より深く、互いの状態と目的を雄弁に物語っていた。
探り合いは無意味。そう告げた星に対して、しかし愛紗は…………
「そうか………」
何かを確かめた、そんな風に一度だけ眼を伏せてから――――否定を告げる。
「私にそんな憶えは無い。真名を許しなく呼ぶ事の意味は、解っているだろう」
「…………………」
怒気を漲らせて青龍刀を構える愛紗を、星は黙って見つめ返す。
「………やれやれ」
言動があまりにも噛み合わない、それが星に全てを悟らせた。
「行くぞ趙雲。理不尽に命を奪われた民の無念、ここで晴らさせてもらう」
悟って、改めて思う。………本当に馬鹿な女だと。
「まったく、世話の焼ける」
憤怒、悔恨、憎悪、哀切、そしてそれら負の感情を上回る唯一つの想いを乗せて……星は龍牙を翻す。
「来い、その濁り眼を晴らしてやる」
異なる世界で、誰より近くで、一人の少年を支えて来た二人の英傑。
その複雑に絡み合う信念が今……刃と共に交錯される。
「よ、よろしくお願いします………」
更衣室から戻って来たらば、剣道場の真ん中で待ち構えている月の姿。これはどういった趣向でしょうか。
「詠、どゆこと?」
月はマネージャーであって部員じゃない。もう一人のマネージャーである詠の方を見てみたら、何故か勝手に勝ち誇ってらっしゃる。
「どうもこうもないわよ。月もたまには体を動かさないと鈍るから、ちょっと付き合って欲しいってだけ」
そして、思わせ振りな顔でしらばっくれやがる。まあ……あの詠が俺の不祥事をうやむやにするわけないとは思ってたけど。
けど……これはないだろ。
「お前な、防具つけてたって痛いんだぞ? 月みたいな可憐な女子高生相手に竹刀振れるかよ!」
俺に対するお仕置きの一環だと推測は出来るけど、一体何考えてんだ。確かに普段から女子部員相手でも全力でやってるけど、月だぞ月! か弱い小動物以外の何者でもないだろーが。
「別に振りたくないなら振らなくて良いわよ?」
「………………」
意地悪そうに、そして心底楽しそうに鼻を鳴らす詠の姿に、俺は全てを悟る。
こいつ、アレだ。俺が手を出せないのを良い事に、月自身の手で俺に制裁を加えさせようとしてるんだ。詠の中では、自分へのセクハラ<<<月へのセクハラ位に怒りの度合いが違うみたいだし。
「あの………本気でお願い、しますね……」
しかも、どんな口車を使ったのか知らんけど月も乗り気だし。
「………………いいよ」
やったろうじゃねーか。でも、みすみす詠の掌の上で踊ってやるつもりは無い。
「(全部、捌き切ってやる………!)」
………そんな事を考えていた時期が、俺にもありました。
「って強いのかよぉおおぉおーーーー!!」
嵐にも似た竹刀の猛襲攻め立てられながら、一刀の絶叫が響き渡る。その情けない悲鳴に、詠は満足そうに頷く。
「ゆ、月ちゃんのイメージがぁ………!」
その隣で、及川が面白い顔で驚愕していた。すかさず詠のタオルがしなる。
「痛っ!?」
「馴れ馴れしくファーストネームで月を呼ぶなァ! てかアンタ何で居んのよ」
「いや、そろそろアレやろ。部活終わった後にかずピーと一緒に探そかと」
「アンタ参加する気!? どんだけ図々しいのよ!」
「いや~、だってかずピーも男子一人じゃ肩身狭いやろーと思ってなぁ~」
などという他愛ない会話は、激しくぶつかり合う竹刀の音によって断ち切られる。
詠と及川だけではない。見学している部員全員の目を釘付けにする月の剣道………否、剣術だった。
「にしても、あれ何なん? ゆ……董郷ちゃんのイメージと違い過ぎるんやけど」
「なに言ってんだか、あのギャップが良いんじゃない。強いのに、でも優しくて可愛くて、守らずにはいられなくなるような愛くるしさが」
律儀に(睨まれて)月を名字で呼び直した及川に、詠は自分の事のように得意気に語りだす。無論、その間も一刀は必死に応戦し続けている。
「ふっふっふっ、一刀ごときが月の剣から逃げ切る事は不可能! せいぜい全身青血だらけにならないように気をつけるのね!」
いい感じに悪役が板について来た詠は、いっそ清々しいまでの高笑いを上げる。
その高笑いが――――
「………でもかずピー、さっきからまだ一本も取られとらんで」
「…………へ?」
唐突に萎んで、止む。
静かになった剣道場に、ただ竹刀のぶつかる乾いた音だけが断続的に響き続けている。
確かに、一見すると月の猛攻に押されまくっているように見えるが……一刀はまだ一太刀も受けていない。
「そういやかずピーも、実家が剣術道場とか言っとったけど………」
「そっ、それにしたっておかしいでしょ……!?」
詠の感じたものと全く同じ疑念を、当の一刀自身も感じていた。
「(う、おぉ………?)」
予想の遥か斜め上の実力を魅せる月に対する驚愕ではない。そんなものは、ギリギリの打ち合いの緊張の中で霧散してしまった。
だから違和感は、別のところにある。
「むっ!」
竹刀を振るう度、
「はあっ!」
竹刀を躱す度、自身の剣に一刀は戸惑う。
「(俺、いつの間にこんな強くなってたんだ………?)」
反射だけで、自分のイメージ以上の動きが出てくる。自分の技量に当然のように違和感を憶えるが、同時に不思議な納得がある。
“しっくりくる”のだ。
「うりゃあ!!」
「っ!?」
感覚の齟齬が埋まると共に、動きにキレが増していく。今度は一刀からも攻勢に移る。相手が月である事も今ばかりは関係ない。ただただ仕合に集中し、没頭している。
「「っ~~~~!!」」
もはや剣道という競技の原型を留めていない両者の剣に、詠や及川を含めた誰もが息を呑んで見守る。
拮抗する打ち合いはひたすらに速さと激しさを増していき………そして、唐突に終わりを迎えた。
「「あ……っ!」」
二本同時に破裂音を立てた、両者の竹刀によって。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
「はぁ、はあっ……はぁ……」
忘れていたかのように、防具の下で汗が噴き出す。いくら吸っても足りないように呼吸を繰り返す。それだけ、二人とも勝負に夢中になっていた。
「あ、ありがとうございましだっ………!?」
半ば以上呆けて挨拶する一刀……の脳天に、タオルの弾丸が突き刺さる。犯人は言わずと知れた詠である。
「あ~ん~た~ね~! もし月が怪我でもしてたらどうするつもりだったのよ!」
「お前がけしかけたんだろーが! 言ってる事ムチャクチャだぞおい!」
「うっさいバカ! 大体なんであんたが月と互角にやり合えてんのよ!」
「それは…………」
ガミガミと言い合う中、不意に詠が口にした疑問に……一刀は応えられない。解を持っていない。
「(何か、忘れてる……?)」
今朝から続く自身の異変。その原因は突き止められないまま何かが起きて……そして順応だけは早い。その実感が、一刀に一つの憶測を抱かせた。
「………あんた、今日はもう帰っていいわよ。皆が練習にならないから」
そんな思案の海から、詠の突然過ぎる発言が一刀を引き上げる。
「何だよそれ、何で俺がいたら練習にならないんだよ」
「“あのまま”じゃ、誰も練習に集中出来ないの」
そう言ってピッと向けた詠の指の先を追えば……明らかに部員ではない、制服姿の少女が一人。膝を抱えてジーッと待ち構えていた。
そう、見学しているわけでも待っているわけでもない。まだかまだかと、正しく“待ち構えて”いる。弓道部のエース兼幽霊部員の赤髪少女・恋だ。
「いや、でも……」
「あのままにしとくわけにもいかないでしょーが」
「行ってあげて下さい、先輩………」
詠と月に追い立てられて、一刀は更衣室に急ぐ。もちろん…………
「………あり、オレの予定は?」
及川の都合には誰も頓着しはしない。いや、言葉にしないまでも、一刀は僅かに意識を向けた。
「(今日は、及川と一緒の方が良かったんだけど…………)」
そろそろ猶予は少ないし、こればかりは恋を同伴させるわけにもいかない。
「(プレゼント、何にしよ?)」
恋の誕生日が、この週末に迫っていた。
『……いたい。……に、会……い……』
――――誰かの声が、聞こえた気がした。