「まだ……官軍は動かないのか」
石造りの要塞の大広間で、豪奢な椅子に腰掛けた青年が溜め息を溢す。
その姿は紺色の外套に包まれ、隠されている。
「まあいい、北郷一刀さえいなくなれば……漢王朝が真の実権を握るのも時間の問題だ」
独り言とも取れる言葉に、居並ぶ幹部らが首を縦に振る。何とも仰々しい出立ちは、青年の趣向に沿っていると言えた。
「(あわよくば、中山靖王の末裔などと嘯く村娘にも消えて貰いたいところだが……今は僕らも下手に動けないからな)」
樹海の奥地とはいえ、ここは荊州と蜀の国境に位置する砦。極度の緊張に晒されているこの場所で迂闊に動けば、瞬く間に孅滅されてしまうだろう。
「(これから、どうする)」
ずっと北郷一刀への復讐と、漢王朝の再興の事ばかりを考えて来た青年は、見えない明日を遠く見つめる。
このまま山賊など続ける意味は無い。……どころか、生かしておく理由も無い。欲しかったのはたった一度、邑一つを皆殺しにするだけの戦力。それさえ済めば……汚らわしい山賊風情など用済みだった。
「(………名を、捨てるか)」
新たな旅立ちを秘かに決意した、その時―――
「っ…………」
耳に小さく、喧騒の音が届いた。
「な、何の騒ぎだ……?」
喧騒は勢いを増して………
「喧嘩か……!?」
広く、大きく………
「違う、これは……」
そして………近くなっていく。
唐突に、或いは必然に―――――
『っっ!!?』
広間に備え付けられた大扉が、轟音を立てて吹き飛んだ。
急に差し込んだ逆光の向こう側から、一筋の刃が矢のように奔り――――
「うお……っ!?」
玉座に座る青年の外套……その頭巾部分を千切り飛ばした。
そこから………鮮やかな菫色の髪が溢れる。
「ごろつき集めてお山の大将ですか。丁度いいトコに収まったようで」
影が一つ、二つ、三つ、次々と足を踏み入れて来る。元々……こんな雑軍と砦でどうにか出来る相手ではない。
その先頭から、“旧知”が相も変わらぬ冷淡な声を投げ掛ける。
「また殺しに来ましたよ、韓遂」
端正な顔が、屈辱と苦渋に歪んだ。
「また随分と、引っ掻き回してくれましたね」
西涼で敗戦を喫した韓遂は、逃走の最中に恋の部隊に追撃を受け……最期は追い詰められた崖から突き落とされた。
誰もがその死を疑わず、存在を忘れ去っていた男が……今、こうして目の前にいる。
「劉璋に玉璽を渡した占い師ってのも、あなたですね」
既に失った、目の前の散に奪われた右腕を押さえて、韓遂はジリジリと後退る。
場違いなほど平静に口を動かしているのは散一人。蒲公英も、舞无も、振り切れる寸前の怒りに身を焦がして口を開く余裕が無い。
そして……舞无の撒き散らす怒気が、場にいる全ての敵を竦み上がらせていた。
「沈黙は肯定と採りますが、いいのかな、と」
ここで何も言わなければ、瞬く間に死を迎える。生存本能に衝き動かされるままに口を開いた韓遂の声は………
「ぼ、僕は………」
憐れなほどに、震えていた。その態度こそが、崩され、曝け出された彼の心を如実に物語る。
「官軍に背いた憶えなど、無い」
声量を上げていく韓遂の言葉は、開き直りというよりも……自暴自棄に近かった。
「お前たちだって解っているはずだ! 漢王朝の再興など仮初めのもの、実権を奪われたままの空虚な栄光だと!」
届かないと知りつつ、韓遂は叫ぶ。自分の意志を、自分の正義を、ただ主張するために。
「僕は天下の覇権を、在るべき場所に還そうとしただけだ!」
天より舞い降りた御使い。大陸を一つに束ねた英雄。そんな事は韓遂にとって何の意味も持たない。
本来なら帝が浴びるべき名声を、帝が握るべき覇権を、北郷一刀が得ている。
彼にとって、それは何にも勝る反逆だった。
「前にも言いましたが…………」
そして、そんな韓遂の主張もまた―――
「あなたと議論する気は無いんですよ」
一刀の仲間にとって、何の意味も持たない。
「いくぞ!!」
舞无の咆哮が、戦いの時を再び動かした。………否、それは戦いなどではない。
「うぉおおおおおーーーーー!!」
怯え、逃げ惑う賊徒を、荒らぶる獣が追い掛け、喰い千切る……残虐で圧倒的な狩り。
天の御使いが誇った生粋の勇者らを前にして、立ち向かっていける命知らずはこの場にいない。
「(殺っ……される……!)」
我先にと逃げ惑い、押し合い、絡み合い、結果として肉の壁と化している部下という名の捨て駒を尻目に、韓遂は広間の奥へと走りだす。
壁に掛けられた絵画を引き千切り、そこに隠されていた彼だけの抜道へと飛び込む。
「(僕は………)」
覚悟していた。事が露見すれば、北郷軍の将が乗り込んで来ると解った上での決行だった。
「(僕は、ただ………)」
だというのに、いざ現実にそれを前にして……震えが止まらない。足が揺れて、歯の根はガタガタと騒ぎ続ける。
「どけぇ!!」
敵も味方も関係ない。残された隻腕で剣を振るい、道を塞ぐものを半狂乱になって斬り倒しながら韓遂は走る。
そして―――――
「あ…………」
終わりの時が、来た。
辿り着いた馬小屋の前に、待ち構えていたかのように一人の少女が立っている。
「母様を……」
後頭で束ねた茶の髪を揺らし、十文字の槍を携える西方の麒麟児。
「ご主人様を………」
韓遂にとって義理の姪に当たる少女………錦馬超。
「返せぇえええぇえぇーーーーー!!!」
白銀の光が心臓を貫き、その命を瞬きの内に刈り取る。咳き込むように血の塊を吹き出した韓遂の瞳が虚ろに揺れて……それきり動かなくなる。
呆気ない……あまりにも呆気ない、最期だった。
「お嬢! ………あ」
その惨めな屍を、遅れてやって来た散、舞无、蒲公英も目の当たりにする。
「…………ホント、何なんだろうな」
そうするしかないとでも言うように、翠の横顔には渇いた笑みが浮かんでいた。
「黄巾党も、諸侯連合も、あの曹操だって打ち負かして、大陸を一つにしたご主人様が…………」
誰もが、同じ気持ちだった。どうしてこうなったと、不条理な運命を呪わずにいられない。
「こんな奴の……っ…せいで……!」
元凶は討った。仇は取った。そんな事で、無念が晴れるはずもない。
―――失ったものは何一つ、戻って来はしないのだから。
「………懐かしいな」
泰山の麓に聳える雄大な城塞。我らが最期に戦った、白装束の者たちとの決戦の地。
おかしなものだ。これほど壮大な建造物が築かれているというのに、誰一人としてこの地の存在を知らぬとは。
「(だが……この異質さこそ、私が求めていたもの)」
冷たかった体に熱が戻って来るのを感じる。柄にも無く昂揚する自分に気付く。
「おぬしはここで待っていろ。長旅、ご苦労だったな」
自慢の体躯と脚力で私を運んでくれた一刀の愛馬・的盧に、束の間の別れを告げる。これより先は、馬で越えられる道とは思えん。
「…………静かだな」
薄暗い廊下を進みながら、私は泰山の頂上部を目指す。
―――目指しながら、色々な事を思い出す。
『こうして、私の背を預けられるほどの男になった、という意味ですよ。身も、心も………』
あの月夜の逢瀬も、また。
『……主は、天界にお戻りになりたいか?』
どうして自らそんな言葉を口にしたのか。……きっと、「違うよ」という応えを求めての事だったのだろう。
『……一人で居なくなる事だけは、絶対しないでくださいませ』
乞うように、そんな懇願が続いたのだから。
『天界に戻りたければ、お戻りくだされ。けれど、愛紗や鈴々を置いていく事だけは、絶対に許しませぬ』
根拠の無い自信。
『ふふ、私は惚れた男をみすみす手放すほど、甘い女ではありませんよ?』
薄っぺらな虚勢。言い知れない不安に反発するように、強い言葉を使ったのを憶えている。
それでも……私は誓ったのだ。
『もし私や彼女らを置いていくような事があれば、私が皆を率い、如何なる手段を使ってでも天界に討ち入りますので、お覚悟を』
そして―――――
『俺からも頼む。この命令、お前に預けておくから…………』
あの瞬間、誓いは約束へと変わった。
「滑稽な………」
自分で自分に笑ってしまう。あれだけ大言を吐いて、あれだけ愛を囁いておいて………こんな事になるまで、思い出す事すら出来ないとは。
「だが……今からでも遅くない」
光の回廊を、抜ける。
泰山の頂に……この世のものとは思えぬ気配を漂わせる神殿が、変わらず……そこに佇んでいた。先客が一人、いたようだが。
無尽蔵に増殖する敵兵、刻一刻と迫る世界消滅の時、そして……白光に呑まれて薄れゆく主。
全ての悪夢を内包したこの場所に、私は再び戻って来た。
「……皮肉なものだ。あの時、我らから全てを奪い去ったこの場所が……今は唯一つの希望とは」
預けられたままの約束を、今こそ果たすために。
「そう思うだろう、愛紗?」
―――私たちは、ここにいる。