「「ッ………!!」」
右腕と左腕が交叉して、互いの頬に拳が鈍い音を立ててめり込む。
一瞬の硬直の後、二つの人間の一方……小柄な人影が力無く崩れ落ちた。
「やりますね。もう……あなたに教える事は何もないようで…うっ……」
「お前に何か教わった憶えは無い」
「ツレないですね」
大の字になって満天の星空を仰ぐのは、散。殴られた頬を押さえながら、そんな散を見下ろしているのは舞无である。
些末な事で互いの機嫌を損ねた二人は、今の今まで拳と拳の激闘を演じていた。
「ロクに食事も採ってないとか聞いてますけど、意外と元気なようで安心しました」
「……それを知ってて喧嘩を売った挙げ句、負けたのか。最悪だな」
「お嬢と花には内緒にしといて下さいね。カッコ悪いんで」
相変わらず感情の起伏に乏しい瞳で夜空を見ている散の横に、舞无も女の子座りでしゃがみ込む。
全力で体を動かした後の心地よい疲労感が、じくじくと体のあちこちに疼く痛みすら気にならなくして二人を包んでいた。
「……痛い憂さ晴らしだ」
「あたしは酒よりはマシかな、と思いましたけど」
舞无は本気で頭に来ただけだし、散も別に舞无の為を思って喧嘩を始めたわけではない。
互いに、お互い様なら八つ当たりしてもいい、と開き直った結果だった。
「忘れる事が出来ないんなら、せめて紛らわすしかないでしょう」
復讐ってのもなんせんすですしね。そう言ってわざとらしく肩を竦める散に、舞无は弱々しく俯くだけ。
「私は…嫌だ………」
そうして、ポツリと零す。怒りに任せて露にした感情は、鎮火と共に別の感情に摺り代わり、隠す事が出来なくなる。
「っ……一刀がいなきゃ……ヤだ………」
手の甲で両目を隠して、メソメソと泣く。怒りが覆い隠していたか弱い姿。純粋であるがゆえの傷つき易さに、散は何も言葉を返さず、視線を逸らした。
忘れるどころか、誤魔化す事すら出来ない。彼女の……彼女らの心に空いた穴は、それほどに深く大きい。
「(本当に、どいつもこいつも………)」
散は心中で、口汚く吐き捨てる。遺される側の気も知らずに逝ってしまう者らに、もう届く事の無い罵声を。
舞无の啜り泣く声だけが暫くの間つづき………
「終わりました?」
「うわあぁあぁ!?」
唐突に、驚愕の叫びへと変わる。原因は、舞无の背後から声を掛けた散より小柄な少女。
「終わりはしましたけど、何の解決にもならなかったようで」
「また泣いちゃってますしねー」
「泣いてない!!」
この世界で、星や稟と同じく、一刀と最も長い時を過ごして来た……風。
こんな時でも……否、こんな時だからこそ、風は常と変わらぬ姿でそこに立っている。
「お使い、お願い出来ますか?」
唯一違うのは、睡魔に揺られたような間延びした声……それが無い事だけだった。
「かずピー……ちょい空気読みやホント。冗談にあない本気でどつかんでもええやん?」
「お前がオーバーなんだろ。そんなに力入れてないぞ、俺は」
「嘘やー! 朝食ったもん戻すか思うたでオレは!」
俺が肘鉄食らわした腹を押さえながら、及川がフラフラと隣を歩く。ツッコミ一つで大袈裟な。
「あー、俺も彼女欲しいなー!」
敢えて誰をとは言わんけど。
「あんじょう気張りや、人生の落伍者くん」
「……もっかいしばくぞ」
「応援してるよ、僕たち友達じゃないか!」
世渡り上手な奴め、そしてお前の標準語ってキモいな。
「いや実際、かずピーはもっと積極的にならんと始まらんよ? 一度しかない青春に竹刀ばっか振り回しとったらどんなイケメンでも彼女なんて出来へんて」
「………………」
微妙に的を射てる気がするから、反論せずに黙っとく。
「ええか、かずピー? 青春時代はたったの三年しかないねんで? 一に恋あり! 二に友情あり! 三四と五にはセックスありや!」
前言撤回。
「猿だねぇ」
「おうさ! 猿さ! 猿だとも!」
めげないし。けど……今朝の俺ってまさに猿そのものだったんじゃなかろうか。
「やっぱ若い頃は猿やないと男やないからなっ!」
断言しやがった。
ある意味清々しいまでの及川の猿っぷりが恥ずかしいやら羨ましいやら。そんな事を考えてたら………
「(…………あれ?)」
何となく、違和感を覚えた。
「………なあ、及川」
「さー、かずピーも一緒に青春を謳歌しよーやないか! まずはかずピーの彼女探してダブルデートからや!」
「前にも、こんな会話しなかったっけ?」
一人でテンション上げてる及川の言葉は完全に流して、俺は違和感の正体を及川に訊いてみる。
それに及川が応える………より先に――――
「なに朝っぱらからアホな会話してんのよ!」
「痛っ!」
教室の前で待ち構えていた後輩のカバンが、よそ見していた俺の頭をパコンと打った。
叩かれたトコを擦りながら、そこにいる二人の姿を認めた俺は――――
「あ……ぁあ……」
本日二度目の、暴走を喫する事になる。
「あ……ぅ……」
おかしい。何だろう、この状況は。
「へぅ………」
部活の朝練をサボった部員に、マネージャーとして一言文句を言ってやろうと、二年の教室までやって来た。あくまでもマネージャーとして。
そんなに珍しい事じゃない。上級生の階に来るのに緊張しながら、月がおろおろついて来るのもいつも通り。
―――なのに、何でこうなった?
「う……くっ、うぅ…………」
自分の顔のすぐ横に、男のくせにわんわん泣いてる一刀の顔がある。
ボクがそっちを向くだけで、頬っぺたに……その……唇が当たるくらい、近くに。
ボクと反対側では、月が全く同じ目に遭ってるはずで……。
「(な! なっ! なぁ………!?)」
ボクは大いに、大いに慌てていた。頭に血が上って、まともな思考が出来ない。抵抗する事も忘れて棒立ちになるだけ。
「(なっ、なん、何で………!?)」
そんなに強く叩いたわけじゃないし、さっきのよりキツい仕返しなら今まで何度もしてきた。
そもそも、ちょっと痛かったくらいでこんな大泣きするなんて考えられない。
結論………どうしてこうなった?
「(どう、しよ………)」
スゴい力で、でも柔らかく抱き締められてる。背中に回された腕の感触に、「ああ、やっぱりこいつも男の子なんだな」とか、当たり前の事を考えていた。
「(………なんか、落ち着くな)」
抗い難い安心感に、何もかも忘れて眼を瞑ろうとした、その時――――
「はっ!?」
ボクは漸く、正気に帰る。周りから集中放火されてる、上級生たちの視線によって。
「いつ、まで…………」
今の状況そのものへの羞恥心、さっきまでのボク自身の思考回路への不覚という名の怒り。それら全てを振り払うように―――
「いつまで抱きついてんのよおォォーーーー!!」
「ぶがっ!?」
ボクの渾身のアッパーカットが火を吹いた。
スローモーションみたいにゆっくりと一刀が倒れた直後、ドッと拍手と歓声が湧き上がる。
「…………なぁ自分、同じフるにしてももっとソフトにフれんのか? 俺、かずピーが不憫でならんわ」
クラス中の注目を浴びてるボクに、一刀の友達の及川が生暖かい眼でそんな事を言って来た。まったくもって冗談じゃない。
「うっさい! 仮に今のが真剣で情熱的な愛の告白だったとして、何で二人同時に抱きつくのよ! それだけで死刑には十分でしょうが!」
そう……百歩譲ってこのセクハラがボクだけだったら、そして人目が無かったら、泣いてる相手を殴り飛ばしたりはしなかった………と思う。
でも! よりによって、ボクの……ボクの可愛い可愛い月にまでーー!
「え、詠ちゃん……私は、その……気にしてないから」
………月、何で顔が赤いの? 恥ずかしいからよね、そうだと言って?
「スマンかずピー、猿っちゅーても同時攻略はダメて、先に言っとくべきやった」
的外れな謝罪をしながら、及川は一刀に楽しそうに親指を立てる。バカばっかり。
当の一刀は、「また、またやった……」とかブツブツ言いながら打ち拉がれてる。謝りなさいよ。
「北郷……若いのだから盛る気持ちも解るが、場所くらい弁えろ」
「違います、そういうんじゃないんですって!」
いつの間にか来ていた桔梗先生の言葉に、一刀は両手を振って言い訳する。………まだ目が赤いし、目の周りが腫れてる。
ちょっと可哀想だったかも………いや、あそこで誰かが止めないと収拾つかなかったし、あれで良かったんだ、うん。
「月、詠、ぬしらはさっさと自分の教室に戻れ。北郷は昼休みに生徒指導室に来るように」
「は、はい………!」
まだ一刀を心配そうに見てる月の手を引いて、ボクは自分の教室へと歩きだす。
「(気のせい、よね………)」
嬉しかった、そんな風に感じるわけがないんだから。
「ふぅ…………」
報告書ばかり見続けて疲れた目頭を押さえ、私は椅子に深く腰掛ける。
やはり……あの時期、あの周辺の我が軍の部隊が独断行動をしたという記録は残っていない。
永安で邑を襲撃した犯人は、別にいる。
呉ではないだろう。彼女らが今の待遇に不満を持っていたとは思えないし、何より一刀殿を慕っていた。
野心で言えば魏が一番疑わしいが、昨日の曹操を見ている分にはそれも考えにくい。今もこの宮殿にいるのに、陛下を懐柔しようとする動きも見せない。
つまり…………
「(誰かが、いる)」
魏でも、呉でも、おそらく荊州軍でもない。どこにも所属していない何者かが。
私が動くより先に、既に風が手を回してくれていた。……それで全て丸く治まるとは思っていないが、何もしないより余程良い。
何より、許せない。野放しにしておけない。
「(後は、星か……)」
我々が曹操に諫められた昨夜の夜更け、一刀殿の墓の前で雛里が星に会ったという。
星は一刀殿の剣だけを持って、また姿を消したらしい。その夜に、一刀殿の愛馬・的盧、そして風の部屋の天界語の本の幾つかも消えたようだが……おそらく星の仕業だろう。
………消えた一刀殿の亡骸も、見つかっていない。
「星……あなたは何を考えているの」
生きていた事を喜べばいいのか、友人が己を見失った事を嘆けばいいのか、私にはもう判らない。
「一刀殿…………」
助けを求めても、応えが返る事はない。