耳に痛いほどの静寂の中で、草木を踏む音がいやに大きく響く。夜の森という暗闇を進むのは、一つの小柄な影。
「…………………」
北郷軍が誇る軍略の天才、雛里。小さな提灯を手にして、彼女は一人夜の森を行く。
「(……暗くて、怖い)」
常の彼女なら、いくらここが大陸の王都であり、官軍の本隊があり……皇室の私有地とされている場所とはいえ……夜の森に一人で出歩くような危険な真似はしない。
安全を考慮した理屈の面からも、単純に怖がりな性格の面からも、しない。腕の立つ、親しい仲間の誰かに同行を願うだろう。
だが……今の雛里にはそれが出来ない。
「ふ……うぇ……」
誰も彼もが、愛しい人との突然の別離に傷ついている。自分が縋りついた結果、相手の傷口を抉る可能性を思えば、とても言い出せなかった。
「でも………」
そして、兵を護衛として連れて来る事も出来ない。これから雛里が向かう先は、限られた者しか知らない、知ってはいけない場所だから。
「(………どこにいても、心細いのは変わらないから)」
ならば、自制すればいい。少なくともこんな夜中に行く事はない。
――――それでも、雛里はここに来た。
「会いたい………」
自分たちに空いた、埋めようのない空虚、寒々しいすきま風しか無い空白、苦しくて、悲しくて、寒くて、寂しくて……我慢出来なかった。
「ご主人様………」
会いたい。たとえそれが……墓石だとしても。
木々の狭間を抜ける先、穏やかで雄大な川と温かな緑に囲まれたそこに……かつて、皆で楽しく過ごしたそこに、一刀は眠っている。
もちろん、今や大陸の英雄となった一刀を“対外的に”埋葬するための豪壮で巨大な墓は今でも建築中だ。
だが、一刀の本当の亡骸はここにある。権力を振りかざす事を嫌い、ただ仲間たちと笑い合う時間を大切にしていた北郷一刀を知る雛里たちは、それが一番良いと考えた。
この方が、一刀は喜んでくれると思ったのだ。
「(もう、少し………)」
力無く足を動かして、そろそろ一刀の許へ辿り着こうかという所まで差し掛かった、その時―――
(ザクッ)
「!?」
静寂の中に響く音に、雛里は飛び上がるように驚愕した。
突然、至近から音が聞こえたという類のものではない。それは雛里の存在などまるで無視するように、遠くで今も音を出し続けている。
「(ど、どう……どうしよう……!)」
もし悪人だったら、袋に詰められて売り飛ばされてしまうかも知れない。
雛里は提灯の明かりを消して、潜り込むように近場の草陰に隠れた。
「(どうして、ここに人が………)」
今、この場所は皇室の私有地となっている。無関係な人間が足を踏み入れただけで罰せられるというのに、一体誰が。
何も知らずに迷い込んだ民間人ならまだ良いが、ここに人など来ないと知らずに眼をつけた悪人なら……雛里は身を守る術が無い。
「(このまま、音を立てないように、逃げ……!)」
ふるふると震えながら、そこまで考えた時……雛里は、ふと気付いた。
この……土木作業でもしているかのような音と、その方角に。
「っ………!」
まさか、いや……間違いない。
「(…お墓を……掘り返してる……)」
確信して、雛里の中に業火のような怒りが湧き上がる。
英雄や皇族の墓には、遺体と共に金銀財宝が埋められる。
誰が、どこで一刀の墓の在処を知ったのかは解らないが……墓を荒らす目的など他に考えられない。
「(ご主人様の……お墓を……っ!)」
許せない。その気持ちのままに、雛里は傍に落ちていた棒切れを握り締める。
相手が誰だろうと、雛里が勝てる見込みなど無い。音を殺して逃げた方がいい。こんな事をしても一刀は決して喜ばない。
だが……理屈ではないのだ。
「(絶対……止めてやる……!)」
息遣いを殺して、足音を忍ばせて、雛里は一刀の墓へと近づいて行く。
木剣にも遥か劣る棒切れと、か弱い少女でしかない雛里。せめて、背後から後頭部を思い切り強打するしかない。
「(………………人を殴った事なんて、ないけど)」
震える手足を奮い立たせて、雛里は這うように接近して……遂に、見つけた。
「(一人………)」
一刀の墓の前に佇む、一つの輪郭。木々の影に紛れて顔どころか背丈すらも解らないが、確かに一人……白い影がそこにいる。
その一人が…………
「………雛里か」
「え………」
耳に慣れた声で、雛里の真名を、呼んだ。
長い、長い沈黙が下りて……月がその角度を変える。
そうして、月明かりに照らされて現れた姿は……雛里がよく知る、仲間の一人。
「星…さん……?」
一刀の死を見届け、これまで皆の前から姿を消していた……星。
「ここで………」
その星が……一刀の墓を暴いている。
「ここで何をしてるんですか!!?」
ぐちゃぐちゃに乱れた雑多な感情全てを籠めて、雛里は今まで出した事がないほど大きな怒声で星を打った。
「…………美しいな」
そんな雛里の方を見ようともせず、星はただ……夜空に浮かぶ月を見上げている。
「あの夜の月も、あんな風に綺麗で……冷たかった……」
静かで、綺麗で、でも……何も読み取れない声音。
雛里の中で渦巻いていた感情が、急速に悲しみという一つの色に塗り替えられていく。
月光に照らされたその姿が、まるで幻のようで……触れたら壊れてしまいそうで、怖くなってしまった。
「星さん……どうしちゃったんですかぁ……」
思わず漏れ出た涙声に……星は漸く、雛里に顔を向ける。
「なに、これを届けようと思ってな」
飄々と、悪戯っぽく、不敵に、雛里のよく知る星の顔がそこに在った。
白い衣を墓土で泥まみれにして、月光の中で幻のように佇んで……声と表情だけが変わらない。
それが、雛里の眼には、より一層異質なものに映る。
その星が、軽く持ち上げて見せた物。
「倚天の、剣……?」
生前の一刀が華琳から受け取り、それからは常に腰に差していた宝刀。一刀の棺に埋葬された物の中で、唯一金銭的な価値を持つ物。
だが、たとえ何があっても……星が金目当てに一刀の墓を暴くはずがない。
何より、“届ける”とはどういう事か。
「心配せずとも、私は狂ってなどいないようだ。ついさっき、それを確信した」
言って、星は円匙を放り捨てて背を向ける。闇夜の森の中……雛里にはそれが、星が堕ちていく深淵の入り口に見えた。
「どこに……どこに行くんですか」
それなのに、去り往く背中に掛けられたのは、そんな擦れた言葉だけ。
「案ずるな、主命を果たしに行くだけさ」
星は振り返らずに、迷いの欠片もなく返した。
「……預けられた主命を、今度こそな」
自らの誓いを、果たせないままの約束を、一刀への愛を果たす為に………
―――星は再び、夜の闇へと姿を消した。
「星さん………」
どれだけの間、そうして立ちすくんでいただろうか。あまりにも立て続けに起こる衝撃的な出来事に、雛里は完全に自失していた。
星が何を考えているのか、一刀の次に付き合いの長い雛里にも、まるで解らない。
本人は狂ってなどいないと言っていたが、雛里にはそれを素直に鵜呑みにする事は出来なかった。
いっそ幻だったと思いたいが、星が捨てていった円匙も、掘り返された墓も、厳然たる現実としてそこに在る。
「お墓………」
まとまらない頭でそれだけを思って、雛里はノロノロと緩慢な足取りで一刀の墓に近づき―――
「…………え」
開け放たれた棺の中を見て、言葉を失った。
誰が? どうして? 星ではない。彼女が剣一本だけを手にここから去った事は、雛里がその眼で確認している。
「どう、して………?」
霞が贈った杯、舞无が作ったぬいぐるみ、雛里と一緒に川で遊んだ時の綺麗な小石、風の書いた小説、稟の掛けていた眼鏡、そして星が持ち去った、星の剣と対を成す倚天の剣。
皆で、散愛用の棺に入れた“他の物”は全て在った。しかし……棺が本来納めるべき者が、いない。
「……………ご主人様が、いない」
―――北郷一刀が、いなかった。
「(痛い………)」
自分の体に刻まれた、大きく深い傷。それが痛くて堪らない。
「(何で……こんなに痛いんだ)」
どうして自分が、こんな傷を負っているのか。少年は思い出せない。
「(血が、熱い……)」
傷口から溢れだす血が、止まらない。冷たくなっていく体に、自分自身の血がやけに温かかった。
「(悲しい、のかな…………)」
血と共に、何かとても大切なものが流れ出ていくのみ感じた。傷口を両手で押さえてみても、何の意味もなかった。
中身が全て抜け落ちて、自分が皮だけしか残っていない薄っぺらな存在になってしまったかのように感じる。
「(……寝てる場合じゃ、ないはずなのに)」
体を支えていられない。膝を着き、次いでうつぶせに倒れてしまう。
(ユサユサ……)
何かが、少年の肩を揺する。たったそれだけの事で……少年は悪夢から緩やかに覚醒した。
「………起きない」
平坦な声が、聞こえた。
理不尽に重い目蓋を開けても、白いシーツしか映らない。
(ジリリリリリ!!)
耳元でやかましく、目覚まし時計が鳴り響く。
「(あ、部活の朝練……)」
などと、少年……北郷一刀は、何の気なしに思った。のも束の間―――
「………うるさい」
再び声が聞こえて、メキョッ、と哀れな音が聞こえて、目覚まし時計は沈黙する。
―――そう、声。
ただそれだけの事が、何故か物凄く重要な気がして………
一刀は気怠い体を回して、見た。
「………起きた」
「……………………恋」
穢れ一つ知らないような無垢な深紅が、一刀の瞳を捉えた。