満天の星が輝く夜の空を、一人の少女が飛んでいた。
「やったー!」
桃色の髪を靡かせて、両手をいっぱいに広げてクルリと回る。奇怪な現象に疑問も抱かずに、幼い頃からの夢が一つ叶ったと無邪気にはしゃぐのは、やはりというか桃香である。
「ふぁ〜……きれーだなぁ〜………」
中空で背泳ぎしながら、桃香はより近く見える星々の美しさに見惚れる。戯れに見つけた雲に抱きつくと、布団よりもずっと柔らかかった。
「でも……ちょっとお腹空いてきちゃったかも」
こんな所に食べる物などあるわけないと、桃香は眼下を見下ろした。獲物を仕留める鷹の構えを取る彼女は今、心の中では超一流の狩人である。
しかしその時………
「あれ?」
ポンッ! と気の抜ける擬音を立てて、星が変身した。とてもとても美味しそうに熟れた桃の実に。
「いただきまーす♪」
それを桃香、丸かじりである。この世の物とは思えない美味しさ、天上にも昇る甘味。桃香はまだまだ食べたいと思う。
「って、また出た!?」
そんな桃香の望みに応えるかのように、隣の星が桃化した。それを桃香、丸かじりである。
次から次に桃の実を召し上がる桃香。その数が七つに上ったところで……
「ハッ……!」
ふと気付き、桃香は周囲を見渡した。上下左右、まんべんなく視線を巡らせても、やはり……あるべきはずの物がない。さっきまではあったのに、だ。
「わたし…………」
あった物が無くなっている。それはつまり―――
「北斗七星食べちゃったーーー!?」
雷に撃たれたような衝撃。それと同時に、宙に浮いていた桃香を支えていた不思議な力が消失した。
螺旋を描き、妙にゆっくりと、桃香は奈落の底へと落ちて行き………
「ごごごごめんなさいーー!!」
とまあ、当然夢なわけで。桃香は布団から飛び起きて誰もいないのに平謝りを繰り出した。
そして朝日が差し込む明るい自室を見て、今までのあれそれが夢である事を悟り、安堵の溜め息を長々と溢す。
「えへへ、でも……楽しい夢だったなぁ〜」
呑気に幸せな気分に浸ってから、最近の習慣として……南の空を見た。
「愛紗ちゃん、どうしてるかな………」
屋根で羽を休めていた鶴が、広い空へと飛び出した。西へ、西へと、真っ直ぐに。
大陸を包んでいた乱世が終結を迎えてから、一月の時が経っていた。
ピンセットにも似た器物がその先端を摘み、繊細な動作で引き抜いていく。しかし、細いそれが傷の中を這い回るような感触に……
「痛てて……っ!?」
「暴れると手元が狂うですよ?」
一刀は思わず呻いた。寝呆け眼で一刀の顔から糸を抜く風は、どこか楽しんでいる様にも見える。
糸というのは、華琳との決闘の際に一刀が負った傷を縫合した物だ。
「にしても凄いな、風は。桃香の傷も風が塞いだんだろ?」
「風は何かと一流な上に、日々進化してるのでー」
褒められて機嫌を良くした風が、一刀の上着を脱がせに掛かる。もちろん、肩の傷を見るためだ。
「悪かったわね。色男の顔に傷をつけて」
「別にいいよ。皆と違って傷ついて困る顔でもないし、却って男前になったかもね」
華琳に色男と呼ばれて、一刀はおどけるように笑う。傷の事など欠片も恨んではいないし、からかわれている事も解っているからだ。
「どうかしらね。そっちで鼻息荒くしてる子にでも聞いてみれば?」
「ああああああ荒くにゃんかしれらい!?」
突然水を向けられて、黙々と半裸の一刀を凝視していた舞无が狼狽する。
そんな他愛ない日常の一幕を繰り広げるこの場所は、冀州のギョウ。その町外れに位置する華琳の別邸である。
「舞无ちゃ〜ん、そうやって劣情に満ちた視線で見られてると、風もやりにくいんですがー」
「だっ、だからそんなんしてないもん!」
「………もん?」
桃香、雪蓮は現朝廷に反抗の意思は無く、華琳もまた……大戦の敗北によって降服した。
事実上の統一を迎えた大陸は、緩やかに生まれ変わろうとしていた。
「大した女好きね、一刀も」
「華琳にだけは言われたくない」
一刀は華琳を伴い、自ら魏領を回ってその事実を示す旅を続けている。護衛に舞无、相談役に風、そして……慰問としての役割を兼ねた張三姉妹を連れて。
「そうだそうだ! あのデコと猫耳はどうにかならんのか。いつもいつも物陰から鬱陶しい」
「「何だとぉ(ですってぇ)!?」」
「………春蘭、桂花、下がっていなさい」
大陸中に泰平の到来を報せ、今の漢王朝の在り様を識らしめる。そういった表向きの理由もあるにはあるが、これは多分に一刀の我儘も内包していた。
『皆が救ったこの大陸を、俺自身の眼で見ておきたいんだ』
とはいえ、連合との戦い以前からの悪名は完全に払拭出来ていない。それを払う意味でも、純粋な視察の意味でも、一刀自身が慰撫を施して回るのは悪く無い。
「華琳様! 私はこんな男が華琳様の真名を呼んでいること自体、納得出来ません!」
「そうです! いくら敗北したと言っても、真名はその人間の本質を表す神聖な名。それまで穢されるなんて許せません!」
「私が私の真名を誰に許そうと勝手でしょう。どうしてあなた達に許可を取らなければならないのかしら」
「「う………!?」」
既に明確な敵がいなくなった事もあり、きちんと護衛と参謀を連れて……という条件付きで、一刀は旅を続けていた。
「結局、最後まであの調子だったわね。あの子たちは」
「とことん性格が合わないんじゃないですかねー?」
その旅も、今日で一つの終わりを迎える。魏領は既に回り終え、一刀は一度、都として返り咲いた洛陽へと帰還する。
どう話が拗れたのか、舞无、春蘭、桂花の三人は取っ組み合いの喧嘩に突入していた。
「…………………」
一刀を見送ったら、また統治者としての日々が始まる。似て非なる王道が始まる事を、華琳はとても奇妙に思う。
『貴様がかつての王朝に抱いた憤激は、この先の時代を築く為に不可欠なものだ』
本来ならば極刑が当然。その首を大衆に晒して今の王朝の力を見せつけるべき反逆者。そんな華琳に下ったのは、あり得ない厚遇と使命。
『冒した罪を償いたいと言うなら、死に逃げず、生きて……その志を未来に繋げ』
協君もまた、一刀が命懸けで生かした人間を、むざむざ死なせるつもりなどなかったのだ。
『誇り高い貴様にとって、生き長らえて降将となるは死に勝る屈辱かも知れん。それでも……やってくれるか?』
華琳の反逆を怒るでもなく、憐れむでもなく、協君は眼を伏せ………
『……すまなかった』
その一言を、告げた。
まだ記憶に新しい感慨を思い返し、華琳は傍ら……己がただ一人愛した男を見る。
「……陛下も、随分と貴方に毒されたようね」
「? なんだよ、突然」
「何でも無いわよ」
変わる事は簡単ではないけれど、変わろうとする事は出来る。
―――静かに閉じた目蓋の奥で、華琳は自分に言い聞かせた。
「っ………!?」
何かに怯えて、弾けるように覚醒して、そして……それまで見ていた夢を忘れる。
……こんな事を、もう何百回繰り返しただろうか。
「…………………」
残っているのはいつも、酷く疲弊した自分の体と、不快な寝汗に染みた布団だけ。
いや……憶えていないだけで、私は本当は解っている。
『あなた達ほどの力があれば、もっとたくさんの人を救えるはずです』
目蓋を閉じれば、あの光景が蘇る。
『我ら三人、姉妹の契りを結びしからは……』
桃香さまは、その悲願を成就された。理想と現実の壁に苦しみ、矛盾と苦汁を飲み込んで前に進み……泰平の世を勝ち取った。
『願わくば、同年同月同日に死せん事を!』
そして……愛する殿方と共に、この大陸を変えて行く。
それは、私の幸せでもある。こうなる事を切に願った。こんな未来を目指して青龍刀を振るった。
なのに………今の私はなんだ?
「(何をやっているんだ、私は……!)」
桃香さまが北郷殿を慕っている事など、今さら疑う余地が無い。かつて抱いていた北郷殿への疑念も、私の誤解だったとしか思えない。
「(なのに何故……心が晴れない!?)」
原因は、自分でも解っている。あの時の……あの光景……。
桃香さまが北郷殿の剣を受けて、血を撒いて倒れる姿。
あれが……眼に脳裏に焼き付いて離れない。
「(私は……こんなにも弱かったのか……?)」
北郷殿が敵意を持って桃香さまを斬ったわけではない事くらい、頭では解っている。
桃香さまが北郷殿を止める為に飛び出した事も、頭では解っている。
あんな事で、二人の絆が揺らぐ事などあり得ないと、頭では解っている。
“のに”…………
「(無様だ)」
肉眼に映った一枚の絵画に翻弄されて、解りきっている本質とさえ向き合えない。
「(自分が、解らない)」
怖い。繕う事すら出来ず、ひたすらにそう思う。
桃香さまが、怖い。
北郷殿が、怖い。
そして何より……自分自身が怖い。
「(私は……どうしてしまったというのだ……)」
次に二人の顔を見た時、自分がどんな行動を取ってしまうのか……全く解らない。
―――それが、途轍もなく恐ろしい。