「…………………」
目が覚めても、最初は闇だけしか見えなかった。天井……って言うのかな。天幕の天辺を、内側から見上げてる。
「………ここは」
薄暗い天幕の中を、燭台の小さな灯りが照らしてる。
「あっ、おはよう。一刀さん」
その影の向こうから、愛らしい瞳が俺を覗き込んで来た。
「………桃香?」
「気分はどう?」
何がなんだか解らない俺の額に触れながら、桃香はもう片方の手で自分の額にも触れる。う~ん、って唸る姿が何だか可愛くて、俺は小さく吹き出した。
「(ああ……そうだ……)」
そして、何の気なしに上げた顔に痛みを感じて、思い出した。
………倒れた桃香を抱き起こして、喚いて、叫んで………ダメだ。自分が何やってたのか思い出せない。多分……ロクな事してなかったと思う。
「俺……いつ気を失ったんだ」
「あの後すぐ。一刀さん、血を流し過ぎてたみたい」
………でも、この手にはっきり残ってる。桃香を斬った……感触が。
「………大丈夫、なのか?」
「全然へーき! 星ちゃんがすぐに止血してくれたし、どっちかって言うと一刀さんの方が危なかったんだから」
両腕でグッと力こぶを作るようなポーズを取って、桃香は自分の元気をアピールした。
「………………」
少しずつ、染みてくる様に、安堵と後悔が広がっていく。
「傷の縫合だって、わたしは風ちゃんにやってもら……きゃっ!」
「……………………良かった」
自分が抑えられずに、俺は桃香を力いっぱい抱き締めた。………怖かった。桃香を失う事が。もう会えなくなる事が。
………そうなりかねない元凶を作った自分が、許せない。
「良かった……!」
上ずった鼻声が出てしまう。寝間着越しに触れた背中に包帯の手触りを感じて、胸が痛んだ。
「………ねぇ、一刀さん」
俺の背中を何度も撫でる小さな手が、何よりも強いものに思えた。
「わたし……一刀さんの“足りない何か”に、なれたのかな……」
「当たり前、だよ」
不安そうな問い掛けに、間髪入れずに即答する。桃香が……自分の行為に疑問を持つ必要なんか無い。
「良かったぁ……、ホントは不安だったの。余計な事しちゃったんじゃないかな、って」
「そんな事、あるわけないだろ!」
的外れな不安を、思わず大声で否定してしまう。俺だけだったら、そう思うとゾッとする。
「俺は結局……本当の意味で華琳に勝つ事は出来なかった。桃香がいたから………桃香が、勝ったんだ」
手が、震える。桃香が笑ってくれるから、この程度で済んでるんだ。もしあのまま、華琳を手に掛けていたら……乱世は続き、犠牲は増えて、俺は一生後悔していた。
「……違うよ」
穏やかな声音が、心地好いぬくもりが、俺を優しく包み込む。
「わたしは、わたしに出来るほんの一握りを果たしただけ。……一番頑張ったのは、一刀さんでしょ?」
誰より優しくて、誰より強い……のに、それを誇らない。ただ、いつも誰かの事を想ってる……そんな、女の子。
「それでも何かご褒美くれるって言うなら、今夜はずっと……こうしてて良い?」
桃香は重たい空気をパッと払い、徐に俺の布団に潜り込み、腕に抱きついて来た。
「背中が痛くて仰向けに寝られないから、抱き枕! 前から一度してみたかったの」
猫みたく、気持ちよさそうに擦り寄って来る。
「………敵わないな、桃香には」
「えへへ♪」
初めて会った時は、複雑だった。俺の方が異端だって事も忘れて、まるで自分の居場所が奪われたような気分を味わった。
………でも今は、とても強く思う。
「君に会えて、良かった………」
「……うん、わたしも」
まだ全部が片付いたわけじゃない。すぐにやらなきゃならない事が山ほどある。でも、今くらいは足を止めたかった。
“また”、この大陸に平和を取り戻せたんだから。
言葉も無く、どちらともなく、俺たちは顔を寄せ合って――――
「わっっ!!」
「「ッッ……!!??」」
声にならない絶叫を上げながら、慌てて離れた。破裂しそうな心臓を押さえつつ、声がした方を見てみれば………
「しぇ、雪蓮……?」
「と……華琳さん?」
悪戯が成功して満足気な顔した雪蓮と、醒めた半眼を俺たちに向けている華琳がいた。
「……お楽しみのところ悪いのだけれど、少し時間を貰えるかしら」
「ありゃりゃ、これは蓮華も分が悪いわね~。帰ったら煽ってやらないと♪」
しかも、一部始終を見られてた感じ。これは……かなり恥ずかしい。桃香にいたっては、既に頭から布団を被って完全防御体勢だ。
「………寝ないで待ってます」
などと消え入りそうな声で言いながら、布団から手だけ出して手旗で「いってらっしゃい」している。
「………………」
さっき桃香は、華琳の事を真名で呼んでた。つまり……桃香とはもう話す事は話したっ、て事だ。
呼ばれてるのは俺……か。
「……わかった。行こう」
俺は華琳の眼を直視出来ないまま、その背中に続く。
意識が戻って、桃香がいて、まるで夢の続きみたいな感覚だったけど……漸く目が覚めて来た。
「華琳は解るけど、雪蓮は何で?」
「護衛兼立会人♪ 私ほどの適役もいないでしょ?」
「確かに、ね」
自分がした事、自分が出来なかった事。それを……否が応にも自覚させられる。
何より、目の前にいる華琳の姿に。
「口を挟むつもりはないから安心なさいな。なーんか、私たちの知らない所で決着ついちゃったみたいだしね」
少し離れて、気に背中を凭れて、雪蓮はそれきり口を閉ざした。確かに……雪蓮なら一足飛びに華琳を斬れる距離だ。
そして……未だに半眼のままの華琳が、俺と向き合う形になる。
「……………………」
「……………………」
沈黙が、重い。平衡感覚がおかしくなったみたいな錯覚を感じる。でも………俺は、眼を逸らしちゃいけない。
目が合って、華琳は何に向かってか肩を竦めて……嘆息した。
「貴方が気絶する前にも言ったと思うけど……私の負けよ。魏の国も、民も、臣も、そして私も……貴方の好きになさい」
負けた。そんな……全然似合わない台詞を口にする華琳の表情は、どこか晴れやかに見える。
けど――――
「……その言葉は、俺が受け取るべきものじゃない」
俺には、そんな資格は無い。
「華琳が負けを認めたのは、桃香だろ」
ずっと自分の理想を阻んで来た宿敵でさえ、身を挺して庇う。そんな桃香の優しさに打たれて、華琳は降参したんだろう。
………俺には、出来なかった。
「俺は……君を殺そうとした。違う正義を力でねじ伏せる。他でもない俺の手で、華琳のやり方を肯定しようとしたんだ」
要するに、俺は華琳に………負けたんだ。華琳が本当は優しい事も、華琳を殺せば戦いが続く事も解っててなお……仲間を失う恐怖に勝てなかった。
「恋が慕ってくれた、星が教えてくれた、皆が信じてくれた想いに……応える事が出来なかった」
いくら言葉を重ねても、いくら刃を交えても、断固として覇道を貫こうとする華琳の姿が、怖かった。
華琳だって、守りたい一人だったはずなのに、俺は………切り捨てようとした。それが何より………悲しい。
懺悔に近い俺の独白を聞いて、華琳は………
「………貴方、人の事は何でも見透かしたように語るくせに、自分の事は何も解っていないのね」
完全に馬鹿を見る眼で、呆れていた。真剣な話を茶化されたみたいで、ちょっとムッと来る。
「何がだよ」
「はぁ……あのねぇ、貴方が本気で私を殺すつもりで剣を振り下ろしていたなら、その間に割って入ったあの子が、あんな軽傷で済むはずがないでしょう」
……………なに?
「でも、俺はあの時………」
「自覚が無いのなら、無意識の手加減なのでしょう。いずれにしろ……貴方の甘さは死んでも治らない、という事よ」
さも当然のようにそう言われても、俺には今一つ実感が湧かない。湧かないけど………
「もしかして、慰めてくれてる?」
「事実を言っているだけよ。斬撃を受けたあの子自身が、一番良く解っているはず。戦場で敵を斬る事を恥じるなんて、私には理解の外だけどね」
その華琳の言葉で、俺はさっきの桃香を思い出す。
『余計な事しちゃったんじゃないかな、って』
あれは、そういう意味だったのか? でも、それは……
「それでも、あの子が私の逃げ道を塞いだ事に、変わりはないけれど」
俺が弁解するより早く、華琳が付け加えた。ならば、と俺も別な言葉を口にする。
「華琳を敵だなんて思ってないんだよ。俺も、桃香も」
「でしょうね。善人というより狂人よ、もう」
「酷い言われ様だ」
本音か気休めかは解らないけど、気持ちは少し軽くなった。ついでに、気になった事を訊いてみる。
「逃げ道を塞いだって、何?」
「誤解してそうだから言っておくけど……私は別に、あの子に庇われて心変わりしたわけじゃないわ。ただ、私が選んだのは……一度立ち止まったらもう進めない道だというだけの事」
「………………」
何でそれが負けを認めた理由になるのか、俺にはさっぱり解らない。でも、言葉の意味自体は解る。
俺も……同じ立場だから。
「………………一つだけ、教えて」
一瞬、耳を疑った。華琳とは思えないほどか細い声。
「引き返せない。死ぬまで立ち止まる事の許されない道を選んで……立ち止まってしまった私は、どうすればいいの」
知らない場所で迷子になった幼い子供のように、弱々しい華琳。張り詰めていたものが切れ、支えを失った心が……華琳の精神を不安定にしている。
「止めたのは貴方たちよ。……教えて頂戴」
「……………………」
華琳はずっと、孤独の中で戦って来た。弱音を吐く事も、迷う事すら自分に許さずに。
「引き返す事なんて、無いよ」
そんな不器用な華琳に、返す言葉は決まってる。
「立ち止まったからって、背負ってるものが失くなったわけじゃない。だから……これからも進まなきゃいけない」
数えきれないほど、多くのものに支えられて生きている俺たちだから。
「華琳が魅せて来た夢を、目指して来た未来を、これからも追い掛ければいい」
遠回りをしても、過ちを冒しても、罪を背負っても、やるべき事があるはずだ。
「だけど…………」
手を差し伸べる。この小さな体に背負うものを、少しでも分けてもらうために。
「これからは、一人じゃない」
時間を懸けて、躊躇いがちに、小さな力で、それでも………
――――手と手は確かに、繋がれた。
戦乱の刻は終端を迎え、大陸には平穏が訪れる。
しかし決着の歪みは僅かな波紋を呼び、止まった時間は軋みを上げる。
紡がれた絆と重ねた時間の全てを乗せて、ここに終局の幕が上がる。