「待ち伏せをするのに、わざわざ目立つような真似をするはずがない。きっと曹操なら、そう判断すると思ったよ」
だからわざと自分の居る場所で炊煙を焚いた。そう語る一刀を、華琳は醒めた瞳で睥睨する。
「とりあえず見事と言っておくわ。……それで、どうして貴方がここにいるの」
思考を読み越された事に関しては、華琳は今さら驚かない。悔しいが、これくらいは当たり前のようにやりかねない男だ。
しかし、ここを敵軍の大将が通ると解っていたとして……どうしてよりにもよって北郷一刀がここにいるのか。
「呆れて物も言えないわ。貴方……義勇軍だった頃と何も変わっていないのね」
曹孟徳を討つ人間が北郷一刀本人である必要性など無い。それどころか、せっかく敵の君主を追い詰める為に敷いた布陣の意味を自ら壊しているとさえ言える。
華琳と一刀は今、等しく大将首を獲れる状態にあるのだから。
それは否定しないけどね、と肩を竦めた一刀は、しかしそこから言葉を続ける。
「ここで君を殺せば、いずれ大陸は統一出来る。でも……戦乱はまだ続く。曹孟徳を失った魏の臣は、絶対に俺たちを受け入れてくれないから」
澱み無く、まるでそうなるという確信があるような一刀の言葉。だが……華琳にはそれが何故か煩わしく思えた。
「……どうしてそんな事が解るの」
「ただ強いだけの王に、大陸の半分を治める事なんて出来ないよ」
相手の本質を見透かす……という以上に感じる、根拠の無い信頼。それが、今の華琳には到底受け入れ難いものに映る。
「それで? まさかとは思うけど、私を説き伏せに来たというわけではないでしょうね」
まず、最も聞きたくない言葉が出ないよう釘を刺す華琳に、一刀は小さく首を振った。
「言葉で君を止められるんなら、とっくの昔に桃香が止めてる。それじゃ……納得しないんだろ?」
「ええ。話し合いで得られる程度の平和など、平和とは思えないもの」
「そう。だから……お前の流儀に合わせてやる」
差し向けられた一刀の剣に、華琳の大鎌が伸びる。二つの刃は、まるで神聖な儀式を行う前の儀礼のように―――――
「決着をつけよう、“華琳”」
「受けて立ちましょう、“一刀”」
静寂に包まれた森の中に、涼やかな音色を響かせた。
大鎌の刃先が生んだ風が、一刀の髪を紙一重の所で撫でる。
「見違えるほど成長した。合戦の最中はそう思ったけれど、どうやら買い被りだったようね」
そして、一刀が反撃に転ずるよりも速く華琳は大鎌を返し、振り下ろした。
「ここで全ての戦いを終わりにする。言葉は立派に聞こえるけれど、それは本当に貴方が命を懸けてするべき事かしら」
辛うじてそれを止めた一刀だったが、細く鋭く伸びた鎌の刃先が、一刀の二の腕に食い込んでいる。
「貴方は何もかもを求め過ぎている。たとえ乱世の終焉を遅らせる事になるとしても、より確実な勝利を選ぶべきだった。まして、勝てたはずの戦で主君の命を危険に曝すなんて論外」
「それ、もう飽きるくらい言われた」
一刀は強く踏み込み、力任せに、噛み合った大鎌ごと華琳を後方に弾く。今度は一刀の剣先が華琳に届いたが、華琳は冷静に二の腕の腕輪でそれを受けていた。
「逆らう者は残らず叩き伏せ、屈伏させてこその“統一”よ。私を討つ事で魏の民が反抗するというのなら、むしろ貴方はまだ乱世を終わらせるべきじゃないわ」
少しずつ、華琳の大鎌が怒気を帯びる。斬撃は振るわれる毎に苛烈さを増していき、一刀は防戦一方に追い込まれていく。
「前にも言っただろ。それは華琳の理屈で、俺のやりたい事とは違う」
「なら……貴方も“あの子”と同じように、曖昧で生温い結束を望むと言うの?」
それは、対等の王として目の前に立ちはだかる男への……自分をここまで追い詰めた男への、失望という名の怒りだった。
「皇帝という御旗の下、一つに束ねられていた漢王朝ですら……見る影も無く崩壊した。それを……薄っぺらな話し合いや、不確かな信頼で平和に出来るとでも言いたいの?」
己の手を血に染め、修羅の道を歩いてでも民に平穏をもたらす。その覚悟こそが、華琳にとって絶対の『王の資格』。
それを問われた一刀は………
「出来るよ」
「……………は?」
迷う素振り一つ無く、即答で否定した。しばし呆気に取られた華琳の胸に、遅れて、沸々と苛立ちが湧き上がる。
自分の生き方の全てを否定されているようで、堪らなく不愉快だった。
一刀はそんな華琳の心情を理解した上で、さらに真っ向から否定する。
「逆らう奴を全部打ち負かして、頂点に立ったお前が大陸を平和にする?」
今度は一刀が、怒っていた。怒りを握る剣に込めて、思い切り叩きつける。
「自惚れるなよ。その小さな背中に背負えるほど、この大陸は軽くない」
一刀が、
「『俺なら出来る』とでも言いたいの? 自惚れているのはそちらではないの!?」
華琳が、一振り一振りに剥き出しの感情を乗せて振り回す。
武の極みとも、流麗な舞とも違う。だがその打ち合いは、どんな豪傑の一撃よりも重い異彩を放っていた。
「まさか。俺はそんな大層な人間じゃない。特に頭が良いわけでもない、別に腕が立つわけでもない。自信もなくて、迷ってばっかりで………どうしようもない過ちも、何度も繰り返して来た」
失ってしまったものを想って、癒えない傷に痛みを感じて、それでも一刀は下を向かない。
「人の上に立つ者は、常に己を誇らなければならない。誰もが敬服する威厳を持たなければならないのよ……!」
その瞳を……華琳が鋭く睨み付ける。
「だけど!」
一刀も退かない。噛み合った刃越しに、二つの眼光がぶつかり合う。
「こんな俺を……支えてくれる仲間がいた。一人じゃ何も出来ない俺が今ここにいるのは、皆がいてくれたからだ」
誇り。投げ掛けられた問いに、今なら胸を張って応える事が出来る。
「俺に何かを誇れって言うなら、俺は俺の仲間を誇る」
鍔迫り合った刀身が、大鎌の柄を滑る。湾曲した刃が首に迫るのも構わずに………一刀は剣を振り切った。
「「ッ………!?」」
紙一重。走った剣閃が弧を描き、華琳の側頭……ではなく、髑髏の髪飾りを粉砕する。
「っ……他者に縋り、他者を誇り、自身を卑下するような男が、何故ここに立っている! 何故、王として私の前に立ちはだかる!」
髪が解け、鮮やかな金色が流れ出た。“わざと外された”、その事に尋常ならざる屈辱を覚えて、華琳は忌々しげに残った髪飾りを引き抜く。
「俺が誇りに思ってる皆が、こんな俺を慕ってくれてるんだ」
咆える一刀の肩口には、決して浅くは無い傷が血を滲ませていた。
「だったら! 命懸けでカッコつけるしかないだろうがっ!!」
「はあぁ!? 貴方ホンッットに馬鹿じゃないの? よくそんな頭の悪さでここまで生き残って来れたわね!」
呆れを通り越して腹も立たない。
互いに振り切った斬撃が激突し、二人弾かれるように距離を取った。
「最初っから言ってるだろ。俺が戦う理由は自己満足なんだって」
「理解不能よ。何でそんな人間が大陸を救おうとするの。貴方……要するに身内が好きなだけじゃない」
もうまともに相手をする事が疲れたとでも言うように、華琳は大きく脱力した。
対称的に、一刀は堂々としたものである。
「俺さ、人を見る眼にだけは自信があるんだ。どこかでたくさんの人が苦しんでるって解ってて、平気でいられる子なんて……俺の仲間にはいない」
そんな仲間を、そんな仲間を得た自分を誇って、一刀は不敵に笑う。
「そんな優しい皆と、“本当に”笑い合う為なら……この広い大陸だって救ってみせる」
いつか華琳が“小さい”と言った戦う理由。それは、大陸の命運を懸けたこの場に及んでも……変わる事は無かった。
「(成長したのに変わってない、か………)」
前の世界で星に言われた言葉を思い出して、一刀はこんな時だというのに小さく吹き出した。
「(やっぱり、よく解らない)」
言葉の意味も、そもそも自分が本当に成長出来たのかどうかさえ、一刀には今一つ実感が無い。
しかし……悪い気はしなかった。
「……………………」
やりたい事しかやっていない。本当に、呆れるくらい自分勝手な男。でも……その願いそのものは子供のように真っ直ぐだった。
あまりにも純朴に過ぎる、とても王とは思えない姿に、華琳は不覚にも僅かほだされて……だからこそ、再び冷厳な仮面を被る。
「やっぱり貴方は何も解っていない。理由が何であれ、永の平和を築くつもりならば……それ相応の覚悟が必要なのよ」
もはや怒りの感情は失せた。こんな馬鹿だからこそ多くの者が集まったのだろうと、半ば投げ遣り気味に納得も出来る。
しかし………それが戦いをやめる理由にはならない。
「戦う事でしか、平和な未来を得る事は出来ないのよ」
一刀が華琳を殺すつもりがないのならば、尚更。
仲間を誇る少年と、己を誇る少女。二つの信念が交錯するその場所に、三つの影が集結の兆を見せていた。