「まさか、あなたと肩を並べて戦う日が来るなんてね。ちょっと信じられないわ」
見た事が無いくらい激しい戦場を二人で見ながら、孫策さんは可笑しそうに笑った。でもわたしは、そんな風に思われてたのが少し寂しい。
「わたしは信じてましたよ。いつかきっと、こんな日が来るって」
孫策さんや曹操さんみたいな強くて優しい人と、戦わなくちゃいけないって事の方がよっぽど変。
………そんなわたしの考えが簡単に通じないって解ってても、やっぱり悲しい。
でも……今はこうして、力を合わせて戦える。
「……本音を言っちゃうと、今でもあなたの事は危険だと思ってるのよ。内に引き込むには光が強すぎて、ね」
「そ……そうなんですか………」
と思った途端にそんな事を言われて結構しょっく。孫策さんの言いたい事は抽象的でよく解らないけど、完全に心を開いてくれたわけじゃないのは解った。
でも、解らない事もある。
「じゃあ……どうして一緒に来てくれたんですか?」
洛陽の戦いが大勢を喫した後、決着を待たずに兵力を割いてここに駆け付けたのはわたしの提案。それに賛成して、危険を承知で兵力を二分してくれたのが孫策さん。
信用してない相手と一緒に危ない橋を渡るなんて、普通は出来ないと思うのに。
そんな気持ちが顔に出ちゃってたのかも知れない。孫策さんはわたしの顔を横目に見て、クスッて笑った。
「勘違いしないでね、信用してないわけじゃない。むしろ私が想像する通りの“劉玄徳”だって信頼してるからこそ危ういの」
「えっ、と〜……?」
孫策さんの言い回しはやっぱり難しくて、喜んでいいのか悲しんでいいのか解らない。ただ、その横顔に悪い印象は受けなかった。
「でも……それももうどうでもいい事なんだけどね」
「どうでもいいん、ですか?」
「そ。だってあなたの危うさを受け止めるのは、私じゃなくて一刀だもの」
それだけ言って、孫策さんは先に歩き出す。言いたい事は言った、後ろ手に振られた掌から、そんなめっせーじを受け取る。
「さて、と。相変わらず派手にやってるわね、一刀は」
「にゃー……鈴々たちが来なくても勝ってたかも知れないのだ」
「四方から敵を裂くぞ。統率を完全に崩してしまえば、いくら曹操と言えどこの形勢を覆す事は出来まい」
「……ああ、決着をつけてやる!」
孫策さん、鈴々ちゃん、周瑜さん、愛紗ちゃん。皆との間の少しの距離が、何だかとても遠く感じた。
勇ましく戦える皆に対する引け目ってだけじゃない。この戦いに対する勝ち負けの意識が、わたしだけズレている気がする。
「(一刀さんは、どうなのかな………)」
この大戦に勝つ事が、本当に曹操さんに勝つ事になるのか……ずっとそれを考えて来た。
考えて……でも、戦わないと何も守れない現実に流されて来た。
“でも”――――
「…………朱里ちゃん」
「はい」
戦いに向かう皆の背中を見送りながら、わたしは朱里ちゃんに教えを乞う。
きっと……一刀さんも、同じ事を考えてると思うから。
「お前の野望も、ここまでだ!」
星、舞无、霞、散、翠、蒲公英、紫苑、焔耶に加えて、愛紗、鈴々、雪蓮、思春ら。戦乱に名を馳せた英雄たちが部隊を率いて、混迷を極めた魏の大軍を四方八方から分断して行く。
「身の程を弁えなさい。あなた如きに阻まれるほど、私の覇道は軽くないのよ」
もはや敵味方の区別すら困難なほどの大乱戦の中で、華琳は懸命に大鎌を振るっていた。
その命を狙うのは、白馬に跨がる秀才・白蓮。
「(劉備や孫策が西方から来たという事は……洛陽は、秋蘭はどうなった……?)」
刃を交える最中にも、華琳の思考は千々に乱れていた。
これ以上ないほど最悪の状況。僅か一つでも歯車が狂えば圧倒的な兵力に圧し潰されていた、奇跡にも近い綱渡りを……北郷軍は、その実力と天運で掴み取った。
「(侮っていたつもりは、無かったのだけどね……)」
絶望的な戦局。しかし華琳は歯を食い縛り、戦い続ける。誰が相手だろうと、どんな苦難だろうと、真っ向から打ち破って勝利してこその覇王。
「(そうでなければ、意味が無いのよ……!)」
だが、心意気だけで軍を立て直す事など出来はしない。華琳の奮闘を嘲笑うように一本の流れ矢が飛来し、その騎馬の後ろ足に突き刺さった。
「っ!?」
「もらった!」
軍馬が暴れ、華琳は体勢を崩す。その隙を逃さず振るった白蓮の剣を華琳は寸での所で躱し………そのまま落馬した。
地に投げ出された華琳に、白蓮はトドメを刺そうとして―――――
「させるかぁ!」
一人の将に食い止められる。白蓮は名も顔も知らぬ将ではあったが、流石に総勢百万にも上る魏軍。春蘭や秋蘭ばかりが将ではない。
「お逃げ下さい、華琳さま! このような状況では、いつ御身に危険が及ぶかわかりません!」
どこまでが敵でどこまでが味方か解らない。いつどこから凶刃が迫って来るか解らない。華琳の窮地を目の当たりにして、桂花は懇願に近い絶叫を上げた。
だが、華琳は聞き入れない。
「逃げろ? 冗談じゃないわ。ここで私までいなくなれば、一体誰が軍を立て直せると言うの」
誰に憚る事も無く、己の力と正義を大陸中に誇ったのだ。旧き時代を打ち壊し、誰もが認める大陸の覇者とならなければならない。
「私は逃げない。敗北して敵に背中を見せるなど、私の誇りが許さな……っ!」
噛み付くように前を見た華琳の視界が、頬に走る痛みと同時に…………横に“飛んだ”。
「…………ここで貴女が死ぬ事で、一体誰が報われるのですか」
横に向かされた顔を、華琳は緩慢な動作で前に戻す。
信じられなかった。“あの桂花が”、自分に手を上げたという事が。
「ここで背を向ける事で、華琳さまの覇道が潰えるわけではないはずです。貴女さえいれば、魏は何度でも立ち上がる事が出来る」
華琳を崇拝し、いつもその意向に沿うように尽力して来た桂花が、眼に涙を溜めて、声を震わせて、華琳を叱っている。
「生きて下さい、華琳さま。負ける事が許されないなら尚の事、生きて……必ず、勝って下さい」
「…………………」
華琳はしばし、大して痛くもない頬を確かめるように何度も何度擦りながら、泣きじゃくる桂花を見て………小さく、吹き出した。
「選びぬいた名器に叩かれたのは、生まれて初めてよ」
「どんな罰も甘んじて受けます。華琳さまが生きていてくれるなら」
「その言葉、よく憶えておきなさいよ。男の文官達に朝から晩まで弄ばせるくらいじゃ済ませないから」
「…………………」
途端に青ざめる桂花を意地悪く笑って、華琳は近くにいた兵士から馬の手綱を受け取る。
その笑顔に、先ほどまでの頑迷さは無い。
「この場は私が引き受けます。これほどの乱戦では、敵も戦場を把握しきれてはいないはず。この混乱を活かして、華琳さまは敵の眼を逃れて下さい」
「……私の許可無く死ぬ事は許さないわよ。覇道が続く以上、あなたにはまだやってもらう事が山ほど残っているのだから」
「……御武運を」
死ぬな、という命令に対する応えではない言葉を返して、桂花は自分が被っていた頭巾を外し、それを華琳に被せて豪奢な金髪を隠した。
「…………………」
耐え難いほどの屈辱、惨めなまでの敗北感、そして未だ戦い続ける部下たちに後ろ髪を引かれながら、華琳は乱戦の砂塵を抜け、戦場を外れた山間へと駆けて行く。
「(………無様ね、華琳)」
目深に被った頭巾の下で、華琳は己を嘲う。
あれから、華琳は逃げ込んだ山間で幾度となく敵の襲撃を受け、命からがら逃げ延びた。
戦場から逃げた華琳を、敵の部隊が追撃して来たわけではない。逃げる先逃げる先に伏兵部隊が現れ、待ち構えていたかのように食らい付いて来たのだ。
「(魏軍が瓦解する事も、私がこの場所に逃げ込む事も、全てはあの男の掌の上の出来事だったと言うの……?)」
そうでなければ、こんな場所に予め兵を伏せたりなどしない。
「(でも……私は生きている)」
その事に僅かな優越と、それより遥かに大きな空虚を覚えて、華琳は静かに眼を臥せた。
空虚を覚える事の意味に、華琳自身は気付かない。………否、気付いてはいけない。
「(立ち止まれない………)」
もはや周りには十数の兵しか残っていない。何かを求めるように見上げた空は、既に夕焼け色に染まっていた。
そして……もう一つ見つけたものがある。
「あれは……炊煙?」
兵糧を炊きだす際に上る白煙が、朱色の空に薄らと漂っていた。その煙は、華琳の眼前で二つに別れた道……その一方の先から上っている。
「………まだ、天は私を見放してはいなかったようね」
そう呟いて、華琳は“炊煙の上る左の道”へと歩を進める。
「曹操さま!? そちらの道には、また敵が待ち構えているのでは………煙が上がるという事は、敵がいるという事です!」
たまらず慌てた声を上げる女兵士に、華琳は呆れたように肩を竦めた。
「待ち伏せをするのに、わざわざ自分の位置を教えるはずがないでしょう。あれは炊煙を焚く事で左の道を警戒させ、右の道へと誘導させるための物。つまり……実際に手薄なのは、左の道の方なのよ」
これが凡百の相手ならば、炊き出しの煙で自分の位置を曝す愚昧な伏兵と侮っただろう。だが、華琳には北郷の将がそんな御粗末な失敗を冒すとはどうしても思えなかった。
逆に強く確信する。これは失敗ではなく、罠なのだと。
「(とは言っても、“どちらにも”伏兵はいるのでしょうけどね)」
覚悟を決めて、華琳は進む。たとえ兵は少なくとも、必ず突破してみせると。
何が待ち受けていようと怯まない。そう構えていた華琳の心は――――
「っ…………」
全く容易く、騒めいた。進む先に立っていた……一人の少年の姿によって。
「何故…………」
炊煙の元で待ち構えていた事に、驚いたのではない。今さら裏を掛かれようと驚きはしない。
「何故あなたが、ここにいるの………」
しかし、あり得ない。よりにもよって、彼がこんな所にいるという事があり得ない。
華琳の疑念、憤慨、軽蔑、それら全てを痛いほどに解った上で………
「相手が君じゃなかったら、俺もこんなやり方は選ばないんだけどね」
少年は…………
「終わりにしよう、曹操。俺とお前の……二人で」
―――北郷一刀は、剣を抜いた。