「くっ……兵の士気が下がって来ている」
大軍で以て攻め続けているにも関わらず、いつまで経っても押し切れない。全く自分たちの戦いをさせてくれない北郷軍の手腕に、凪は悔しげに拳を握り締める。
「どうして天和ちゃん達が………」
今も井欄の上で歌い続けている友達らを遠く見て、沙和も眉を八の字にして情けない声を漏らした。
先の戦いの失態で警備隊を外され、禄を落とされ、張三姉妹の世話役を任されていた沙和にとって、彼女らは気の合う友人だったのだ。
河北へ公演に向かう際に別れた天和たちと、こんな形で再会するとは思いもよらない。
……だが、今はそれを悲しんでいる余裕など無い。
「っく〜〜、やっぱ春蘭さま抜きやとキッツイわぁ……!」
神速白馬隊の奇襲を受けた中軍……そこにいる華琳を救うため、春蘭は前曲を三人に任せて後退してしまった。
魏武の大剣と謳われる最強の将がいない今、彼女ら三羽烏が前曲の砦なのだ。
「…………お?」
不意に、真桜は敵の隊列が組み変わるのに気付いた。正面からの突撃を隠そうともしない蜂矢の陣。
「! 今だ!」
その変化に、凪も気付く。真っ直ぐに突っ込んで来る相手ならば数の利を活かして迎え討てる。単純な戦力ならこちらが勝っているのだから。
素早く迎撃に移らんと身構える三羽烏の視線の先で……軍旗が一つ、翻る。
漆黒の中で武骨に光る、『華』一文字。
それが―――――
「うらぁぁーーーーー!!!」
地鳴りのような怒号と共に、砂塵を巻き上げて走りだした。
「行くぞお前ら! 愛のために!!」
『愛のために!!』
その先頭を走る銀髪の女戦士が、迎撃に転じた魏の精兵を…………蟻のように蹴散らして行く。倒すどころか、足止めすら出来ずに吹き飛んで行くのだ。
「っ……泣き言なんて言ってられない! 何がなんでも私たちが止めるぞ!」
凪が勇んで叫びを上げ、他の二人も竦む足を黙らせて首を縦に振った。
今にも逃げ出してしまいそうなほど震え上がっている魏兵の誰より前に立ち、三人は敵将………舞无に得物を向ける。
銀髪の武神が握っているのは、斧だった。重心が先端に偏っているため、普通なら両手でも扱いの難しい戦斧。それを“両手に一本ずつ”、片手で軽々と振り回している。
「唸れ『金剛双爆斧』! 今こそ修行の成果を見せる時だ!!」
琥珀の瞳をメラメラと燃やし、恐ろしい膂力を誇る武神が突撃して来る。
「一斉に行くぞ!」
「卑怯とか言ってられる相手やないしな……!」
「誰が死んでも……恨みっこ無しなの!!」
三人寄れば春蘭にも劣らぬ活躍を見せる三羽烏が、差し違える覚悟で同時に挑み掛かり――――
「雑魚は引っ込んでいろぉーーーーー!!!」
悲鳴を上げる事すら許されず蹴散らされ、宙を舞った。
「ふん、安心しろ……峰打ちだ」
得意気な舞无の決め台詞はもちろん三人に届く事はなく、魏軍前曲は蜘蛛の子を散らすように崩壊した。
「………馬鹿と鋏は使いようですね」
舞无の勇猛果敢な活躍を眺めながら、稟は額の汗の粒を拭う。直線的な陣を敷く事で敵将を呼び込んだのは稟の考えだが、まさか一瞬で三人まとめて片付けるとは思っていなかった。
「でも、ここで攻めない手はありません」
「怖いくらい思い通りに行きましたねー」
雛里と風の言葉が、勝負を決める時が来た事を教えてくれる。
どんなに頑丈な槍があっても、巨大な岩壁を粉砕する事は出来ない。でもそれが広大な湖を封じる“堰”だったとしたら? 舞无という最強の槍が開けた亀裂に、十文字軍という名の激流が流れ込み、それまで小揺るぎもしなかった堰も耐え切れず決壊してしまう。
今の両軍の状況がまさにそれだった。ただ、岩壁に亀裂を入れるための槍が………実際には岩をも断ち斬る金剛の斧だったというだけだ。
「ならば、我らも舞无に続くとするか」
『応!!』
星の言葉に、翠、蒲公英、紫苑、焔取が勇ましく応える。巨大な怪物を相手に、ただ力任せに挑んでも勝ち目は無い。だから、敵が喉元を曝け出すこの時まで強引な攻勢には移れなかった。
だが……今は違う。
「……必ず、生きてまた会おう」
仲間たち一人一人に眼を向け、ただそれだけを頼んだ一刀に……星もまた多くは語らず、一言のみを残す。
「御武運を」
この戦いに本当の意味で勝利するため、新しい時代を生きるため、一刀は仲間を信じ、託し、そして………自身の戦いに身を投じる。
気持ちは、痛いほど強く一つになっていた。言葉は多くは要らない。
先駆けた舞无を追うように、星は颯爽と一刀に背を向けた。貴方を信じている、心配などしていない。そう告げるかのような背中を。
「聞け、北郷の勇者たちよ! これが乱世の幕を引く最後の戦い! 我らの手で、泰平の未来を切り開くのだ!!」
十文字軍第一の将、趙子龍の号令が、長らく敵の猛攻を凌ぎ続けて来た北郷軍を奮い立たせる。
「我らは神に遣わされた天兵なり! 敵を恐れるな! 仲間を信じろ! さすれば道は開かれる!!」
それに目を細め、誇らしく見届けて、しかし一刀は共に戦えない事に胸を痛めたりはしない。戦う場所は違っても、一緒に戦っているのだと解っている。
「今こそ反撃の狼煙を上げる刻! 全軍っ……突撃ぃいーーーー!!」
それぞれがそれぞれの使命を帯びて今、十文字の逆撃が始まった。
「はあぁああぁあ!!」
「っりゃああぁ!!」
大剣と偃月刀が交叉し、火花を散らし、嵐にも似た斬撃が乱れ飛ぶ。
曹魏最強の夏侯元譲、北郷五虎将の張文遠。二人の豪傑が、昂揚と喜悦の中で互いの武を高め合う。
「ははっ、オモロイなぁ……! やっぱ戦はこうやないとあかんわ!」
「確かにな………だがっ、私はこれ以上お前と遊んでいる暇など無い!」
敵地の渦中に在って笑う霞とは対象的に、春蘭には焦りにも似た感情が見える。
ここで暴れる事が役割の一端である霞と、こうしている事自体が不本意な春蘭。流れを掴んでいる者と流れを掴んでいない者との違いである。
「ふぁーいと、おー」
「自分は何を遊んどんねん!」
「おや、横槍入れていいのかな、と」
「それはイヤや」
その近辺で、つい先ほど柳葉を倒した散が近辺の百の騎兵を統率している。すぐにでも華琳の許に駆け付けたい春蘭にとっては、看過出来ない状況だった。
そして、さらに戦局は動く。
「前曲が……!?」
「驚く事ないやろ。あんたが他人任せにしたトコなんやから」
先ほどまで春蘭を筆頭に数の利を活かして攻め続けていたはずの前曲が、恐慌に陥り、陣形を乱して崩れていく。こうなる事が解っていたと言わんばかりに、霞は口の端を意地悪く引き上げた。
敵の本隊が、華琳にも届きかねない。そう気付いた春蘭は――――
「くそっ!」
「あ! 逃げる気ぃか!?」
迷う事なく霞に背を向け、一目散に引き返す。前曲を突き崩した何者かをすぐに討ち取り、指揮系統を回復させるために。
馬術ならこちらが上、と春蘭を追おうとした霞の目に………映った。
魏の大軍を押し退けて雄々しく翻る、漆黒の華旗が。
「我が武、二天にして一流なり!」
その先頭を走る、銀髪の武神の姿もまた、同様に。
「我が武の前に仰天せよ!!」
呆れるほどの突撃力で魏の前曲をぶち抜き、そのまま中軍に突っ込もうとしていた。
「………ウザイくらい張り切っとんなぁ」
「なんか叫んでますね」
霞も散も、やや呆気に取られたように眺める。そして春蘭は……真っ直ぐに舞无に向かっていた。
「よくも華琳さまの軍を………誰だあれは」
二本の戦斧を振り回す、見た事もない豪傑を、春蘭は睨み殺さんばかりに見る。
出来の悪い記憶力で『華』の旗から連想しようとするも、出て来ない。
「誰だろうと関係ない、これ以上好き放題に暴れられてたまるか!」
怒りのままに叫び、真っ正面から舞无に対峙した春蘭は、何故か………失った左眼が疼いた。
向かい合う銀髪の武神の姿が……刹那、深紅の鬼神と重なった。
「うらああぁぁーーーーー!!」
一合。春蘭の大剣と左の戦斧がぶつかり………大剣が折れ飛んだ。春蘭がそう気付いた時には―――――
「デコはすっこんでろぉぉーーーーー!!」
右の戦斧が、鎧の上から春蘭を殴り飛ばしていた。薄れゆく意識と浮遊感の中で、春蘭は自らに勝った者の名を口に出す。
「華……雄………」
背後で地に落ちた春蘭の、擦れるような呟きを確かに聞いて、舞无は背中越しに言葉を贈る。
「華雄だと? 誰だそれは。これからは………」
戦斧を格好良く振って、首だけで振り返って、舞无は不敵な笑みを浮かべる。
「武蔵と呼べ!!」
高々と突き上げた戦斧が、陽光を受けて眩しく光り輝いていた。
「(これは……何……?)」
前曲が崩れ、敵の本隊が雪崩れ込み、戦場は統率も連携も無い大混戦に包まれていた。
……いや、統率が取れていないのは魏軍のみ。北郷軍は敵味方入り乱れるこの状況でも道標にして支柱たる名将の存在によって味方を見失わず戦っている。
本来ならば、魏の統率もちょっとやそっとの攻撃では崩れたりはしない。なのに、実際はこの有様だ。
「(凪、真桜、沙和、春蘭、柳葉………皆、どうなったの)」
北郷軍同様に将が健在ならば、ここまでの混乱状態には陥らない。この地獄が示す意味を悟って、華琳は血の気を引かせた。
いくら強大だとしても………今の魏軍は、首をもがれたトカゲと同じ。
「(有象無象の賊徒ではないのよ。数十万の兵力差を持つ魏の精兵を相手に、こんな事が出来るものなの……?)」
用兵も、武勇も、華琳の持つ常識の尺度を明らかに越えていた。開戦前は考えもしなかった未来が頭を過る。
「(負ける……?)」
ただでは済まないとは思っていた。大きな犠牲も覚悟した。だが……総勢百万の軍勢が敗北するなどと誰が思うというのか。
「(いや………)」
馬鹿馬鹿しい弱音を、華琳は頭を振って振り払う。今は敵の勢い任せの奮闘が功を奏しているだけ。未だ厳然たる兵力差は存在しているのだ。
この混乱を鎮圧して体勢さえ立て直す事が出来れば、もう北郷軍に余力は残らないだろう。
「(絶対に負けられない。私が選んだのはそういう道なのだから)」
志を新たに、右も左も解らない戦場を見渡した華琳の眼に……………
「え――――――」
遠く、劉と呉の旗が映った。