洛陽と長安。新旧二つの都の間で十と魏が天下の命運を懸けた決戦に臨んでいる。しかし曹魏に戦いを挑んでいるのは、何も北郷一刀率いる官軍のみではない。
時を同じくして、洛陽の南……宛からも、深緑の旗を掲げて劉備軍が立ち上がっていた。
「……あまり、ぐずぐずしてはいられんか」
主君から洛陽の全軍の指揮権を委ねられている秋蘭は、赤々と染まる東方の空を見て表情を苦くする。
今や北郷軍に属していると言っても過言ではない劉備勢はもちろん、同盟国たる孫呉もこの大戦に参加している。
東の空を照らす赤い光が、もし遠大な火計によるものだとするならば、それは………味方が生んだ炎ではない。
「劉備と孫策……いくら数で勝ろうと、英雄二人を相手取るのは流石に分が悪いのです。潰すなら今のうちかも知れませんなぁ」
参謀として付き従っている音々音も、同様に警戒の色を強める。眼前の劉備軍に押し勝っているとはいえ、決して楽観出来る相手ではない。
「しかし深追いは禁物なのです。兵力で劣ると解った上で、諸葛亮が何の対策も講じないとは思えません」
「解っているさ。だが………このまま長引かせる方がさらに厄介な事になりそうだ。それが敵の狙いという可能性も捨て切れん」
そんな事は百も承知で、秋蘭は敢えて音々音の意見と逆の可能性を口にする。
以前、王都から逃げ出す帝を追っていた音々音は、朱里の存在を警戒するあまりに追撃の手を止めた事がある。
後に調べてみれば、あの時点の劉備には軍と呼べる兵力は無く、伏兵を仕掛けるような真似は出来なかったはずだという。つまり音々音は、本来なら捕えられる帝をみすみす取り逃がしたという事になる。
再び、同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
「このままじゃやられちゃう……! 全軍退くのだぁー!!」
前線が崩れ、劉備軍が退いて行く。選択の時は来た。罠を怖れて後手に回るか、勝機に食い付いて痛手を被るか。どう転ぶにも危険が付き纏う決断に、しかし秋蘭は迷わない。
「追撃を掛ける! ここで劉備軍に壊滅的な打撃を与えるのだ!」
「待って下さい、あまりに引き際が良すぎるのです!」
「解っているさ」
音々音の進言に頷いて、しかし秋蘭は全軍を突撃させる。魏の大軍に追い立てられて逃げる劉備軍前曲は……“案の定”二つに割れて、割れたそこには弩を構えた部隊が迎撃の準備に移っていた。
「(構わん……!)」
秋蘭はそれで軍を止めない。それどころかさらに激しく攻めるよう檄を飛ばす。
元々、無傷で勝てるような相手ではない。多少の犠牲を払う事になろうとも、ここで劉備軍さえ再起不能にしておけば、後に来るだろう呉とも有利に戦える。
肉を斬らせて、骨を断つ。秋蘭がこの選択をしたのは、劉備軍が十軍より、呉軍より、遥かに弱いからだった。
一度徐州からの敗走で戦力を全て失い、荊州を手中に収めてからも日が浅い。数も練度も十分であるはずがない。
また、魏軍本隊を相手にしている北郷軍が劉備軍に兵を貸している可能性も低い。
「(鈍重な床子弩などを迎撃に持ち込んでいるのがその証拠……!)」
床子弩という兵器は強力な貫通力と飛距離を誇るが、連射性能は弓に劣り、その大きさ故に機動にも障る。
威力や精度が使い手の力量に依存し、長期間の訓練を要する弓と異なり、弩は誰が使っても短期間で同等の戦果が挙げられる。
それが、劉備軍が訓練不足な農兵を多数動員しているという事実を秋蘭に気付かせた。
もちろん、農兵の腕でも大威力を与えられるのが弩の特性である以上、多少の被害は覚悟しなければならないが、初撃を凌いで接近してしまえば、弩兵は逃げる事すら難しくなる。
「(あの程度の数ならむしろ、即断即決で突撃を掛けた方が被害は少なくなるはず)」
それら、己の知識と観察眼で導き出した秋蘭の選択は―――――
「な……………」
予想を越える光景によって、大きく裏切られる。
槍の様に太く、強く、そして……蝗の大群のような無数の矢の嵐。
「どういう事だ、これは………!」
一本一本の威力が高いのは解っていた。だが、この数はあり得ない。
目の前に見える弩兵部隊が放つだろうと秋蘭が想定していた数に数倍するほどの矢が、木の葉を攫う濁流の如く魏軍を貫いて行く。
しかも、連射に不便なはずの弩の猛撃が……いつまで経っても止まらない。
「河北での敗戦から半年と二月………」
劉備軍の弩兵部隊を率いて、朱里は自身が改良し、実戦に応用した“それ”の威力を誇る。
「あの頃のままのわたし達だと、思わないで下さい!」
振り上げた手を、魏軍に向かって振り下ろす。
「『連弩』!!」
盾も鎧もまるで効かず、長大な矢が魏兵を為す術もなく蹂躙していく。これでは完全にただの的だ。
近付けない。矢の差し合いに転じても分が悪い。
この難局を打破せんと―――――
「秋蘭さま、私達が行きます!」
「流琉、しっかりついて来なよー!」
流琉と、季衣。本来ならば華琳の親衛隊を勤める二人の豪傑が駆け出した。
魏の精兵らが近付く事すら許されない強力な矢の嵐を縫うように、小柄な影が劉備軍へと切り込んで行く。
そして……………
「“あれ”、吹っ飛ばせばいいんだよね」
「手加減要らないからね、季衣!」
「わかってるって!」
遂にその間合いに、連弩を捉えた。鉄球が唸りを上げ、円盤が風を裂いて、兵器ごと敵兵を薙ぎ倒さんと奔る。
大木をも小枝のようにへし折る超重の一撃は…………
「どっせぇーい!!」
「えやぁ!!」
届かなかった。鉄球は大槌によって大地に埋め込まれ、円盤は運悪く紐を巻く一番脆い部分に大剣を通された事で……真っ二つに割れて地に落ちる。
悠然と彼女らの前に立ちはだかるのは、今でも自分たちが何者なのかを示すように金の鎧を纏った袁家の二枚看板。
「へっへーん! 一発勝負であたいに勝とうなんざ百年早いってーの!」
「うぅ……手が痺れるよぉ……」
猪々子と、斗詩。
一縷の望みを懸けた季衣らの特攻が食い止められる様を見て、秋蘭は苦渋の選択を迫られる。
このままでは、ただ被害を拡大させる一方だ。季衣らと二枚看板の勝敗如何に関わらず、今もなお連弩の脅威は魏軍を蝕み続けている。悠長に決着を待つ余裕は無かった。
「季衣、流琉、一度退け! 体勢を立て直す!」
言うが早いか、魏軍は迅速に隊を反転させ始める。季衣と流琉の部隊を殿に、連弩の射程から一度逃れるために。
そうするしかない、せざるを得ない状況を作り出した劉備軍は、当然この背中を逃さない。
「(一刀さん………)」
この時のため、一軍を率いて待機していた桃香は、静かに眼を閉じ……また開いた。
「(絶対、この戦いで終わりにしようね)」
あまりに儚い命の散華を、自分の手がこれから生み出す地獄を思い……胸に張り裂けんばかりの痛みを抱いて。
「(“勝って”、終わりにしてみせる)」
それでも戦うと決めた。矛盾と偽善を背負って、それでも願いが届くと信じて、夢にまで見た未来のために。
強い、見違えるほど強くなったその横顔を見て………義妹たる軍神も何かを思う。
「この戦が未来を決める! 兵どもよ、我らの手に、大陸の平和が懸かっていると心得よ!!」
この戦が終われば、きっと……全てを笑顔で受け入れられる。そんな願望にも似た想いを乗せて。
「全軍っ、突撃ぃーーーー!!」
「………随分と遅かったですね。間に合わないかと思いましたよ」
魏の大軍相手にまるで怯む事なく奮戦を続ける前曲から目を離さないまま、稟は背後に声を投げる。
「ちょっと、そんな言い方ないんじゃないの。ちぃ達が今までどれだけ苦労して来たと思ってるわけ?」
「昼も夜も馬車で猛だっしゅだったもんね~………。お姉ちゃんもうヘトヘト……」
「姉さん達、文句言ってる暇は無いの。切り替えて」
「「はーい」」
そこにいた二人の少女が文句を並べ、一人の少女がそれを諫める。……が、そもそも稟が話し掛けた相手はその三人ではない。
「すいません。魏に悟られないように彼女たちを連れ出すには、開戦ギリギリまで動けなかったものですから」
この三人を河北から遥々抜け出させて来た、呉将・明命に対してだ。
「構いません。元々計算していなかった戦力ですし、間に合わなかった時は我々だけで戦っていただけです」
いくら大戦に意識が集中していたとはいえ、魏の監視を掻い潜って連絡を取るのは並大抵の事ではなかっただろう。
彼女だからこそ成し得た偉業。そんな明命に労いの言葉を掛けて、稟は今度こそ話題の三人……その三女へと目を向ける。
「正直に言えば、本当に来るとは思っていませんでした。貴殿方の立場を考えれば、曹魏の勝利をおとなしく待つ方が遥かに安全ですから」
当然と言えば当然の疑惑。おかしいのは一刀の方だと解っている少女は、特別腹を立てる事もない。
「武人や軍師に理解して欲しいとは思わないけど……歌姫には歌姫の誇りがあるの」
簡潔に、しかし強く、自分たちの意地だけを伝える。
稟も、今さら彼女らを疑っているわけではない。ここで彼女らが妙な気を起こせば、囲まれた十軍兵士に八つ裂きにされてしまうのだから。
「えらそーなクチ利いてられるのも今の内よ。魏軍なんて、ちぃの魅力で丸ごと骨抜きにしてあげるんだから」
「えー……みんながメロメロなのは、お姉ちゃんにだと思うんだけどなー?」
一刀と面識すら無い残り二人にはそこはかとなく不安も感じるものの、ここまで来たらやるしかない。
「? ………あれは、何のつもりかしら」
西涼騎馬隊の強襲を許し、局地戦ながらも押し込まれている前曲と前曲のぶつかり合いの向こう………北郷軍の中軍からゆっくりと進んで来る長大な影に、華琳は首を傾げる。
四輪によってジリジリと進んで来る塔とも見える木組みの兵器。井欄と呼ばれる、功城戦に於いて高さの優位を得るための物だ。
「あの高さから、我々に矢を射かけて来るつもりでしょうか」
「そのわりには、一向に矢が飛んで来る気配がないわ」
そもそも、機動力が命とも言える北郷軍が野戦で扱う兵器としては違和感がある。
井欄は相変わらず矢の一本も放つ事なく、ジリジリと前へ前へ進み………
そして―――――
「北郷軍が……退がった」
これまで魏の大軍相手に果敢に立ち向かい続けて来た北郷軍前曲が……唐突に軍を退げた。
押し込まれ、退がらされていた魏軍との間に、僅かな時間空白が出来る。
その空白に――――
「みんなーーーー!!」
井欄の上から、戦場の怒号にも負けない快活な大声が割り込んだ。
「……どうして、ここに………?」
その大声が響くよりも早く、華琳は井欄の上に並ぶ三つの影を確認していた。
居るはずのない人間が、あり得ない場所で、魏の大軍に手を振っている。
「もう少し、利口な子たちだと思っていたのだけどね」
白の舞台衣裳を揺らし、戦場を異質な空気に包み込む。その魅力で乱世の引き金にまでなった歌姫。
「わたしのために戦わないで! なんて言っちゃったりして~♪」
張三姉妹。又の名を………数え役萬☆しすたぁず。