「…………………」
自室の寝台の上に寝転がり、まだ幼い皇帝は指先で一つの金印を遊ばせる。
龍を模したその印は………玉璽。長らく皇族の手元から離れていた帝の証。
「(………本当に“これ”は、曹操の差し金ではないのか)」
洛陽の井戸で一刀が見つけたそれは、連合との戦いの渦中で雪蓮に渡り、さらにその後袁術に渡り、そして何故か劉璋の手に渡り、蜀制圧と共に協君の許に帰って来た。
後に紫苑に聞いた話によれば、己の安全が最優先で滅多に野心を抱く事のなかった劉璋が、漢中侵攻を決めたきっかけが“それ”だったらしい。
玉璽と共に劉璋に天命を授け、その野心を呼び起こさせた一人の占い師。最初は、それが姿を眩ました袁術の手の者ではないかという意見も出たのだが、相談を受けた雪蓮に「あの子にそんな知恵は無い」と断言されている。
『……やり方が“らしくない”んだ。それに曹操が新しい王朝を創ろうとしてるなら、簡単に玉璽を手放すとは思えない』
呉軍でも荊州軍でもない、ならば魏軍ではないか? そう訊いた協君に、一刀は躊躇いなく首を振った。
一刀本人には、そういった妖しい輩に心当たりがある。しかしそれは『前の世界』の話であり、この世界ではあり得ない……と、貂蝉からお墨付きも貰っていた。
未だに、その占い師の消息は掴めていない。そもそも『全身を外套で隠した青年』だけでは情報が少な過ぎるのだ。その占い師が外套一つ脱ぐだけで手掛かりが無くなってしまうのだから。
「(ならば……“勢力”と呼べる手合いではないのだろう。我らは劉璋とは違う。懲りもせずに世迷い事を吹いて回れば、即座に処断して終わりだ)」
兎にも角にも、それらは全て大事の前の小事として片付けられる。天下を分ける戦を前にして、占い師一人に気を懸けてなどいられない。
「…………………」
協君は徐に立ち上がり、部屋の壁に飾られていた宝剣を手に取る。
「(曹操が打倒せんと志すのが、腐敗しきった漢王朝だと言うのなら………朕も、向き合わねばなるまい)」
傷一つ無く、血の一滴も吸った事の無い細身の剣は………幼い少年の手には、十分過ぎるほど重かった。
「はっ! この! っりゃあ!」
「どうしたどうした! そんなんじゃご主人様にも勝てないぞ!」
「………そこで俺を引き合いに出すなよ」
城の中庭。二人の従姉妹が鍛練に励む姿を、一刀は和かにお茶をすすりながら眺めていた。
模擬槍が交叉し、金属音を響かせ、少女らの汗が飛び散る。
しかし、それも終わりを迎える。
「だッ!!」
「あっ!?」
乱舞の最中、一際鋭く奔った翠の一振りが、蒲公英の模擬槍を叩き落とした。これが……本日の十本目に当たる。
「はい、これで今日はおしまい! 段々よくなって来てるじゃんか、たんぽぽ」
「あ~あ、また一本も取れなかった~………」
快活に笑う翠の賛辞も余裕から来る嫌みにしか聞こえない。不貞腐れ気味にペッタンと座り込む蒲公英の肩を一刀は軽く叩き、ついでのように手拭いを掛けた。
「拗ねない拗ねない。たんぽぽの事も、頼りにしてるよ。もちろん、翠も」
「えへへ……♪」
褒められた途端に笑顔になる。一刀がこうする事まで計算づくだったのではないかと思うほど変わり身の早い蒲公英だった。
「あたしら新参の降将だけどさ。それでも……“ここ”は大好きなんだ。絶対に負けたくないって思うよ」
「ご主人様もいるし?」
「たたたたたんぽぽーー!!」
しんみりと眼を逸らしながらの翠の決意も、たんぽぽは軽く茶化して逃げ回る。頼もしい事この上無い。
「今さら隠してどうすんの? たんぽぽはご主人様大好きだよ♪」
「だからお前はどうしてそういう恥ずかしい事を大声で言えるんだよ!?」
「だって、お姉様みたいに騒ぐ方がよっぽど恥ずかしいもん」
「*Σ♪∇☆○♂!?」
ほどほどに翠を打ちのめしてから、蒲公英は軽い足取りで一刀に駆け寄って来た。からかいのタネにされた一刀としては、曖昧な苦笑いを見せるしかない。………というより、翠が過剰に恥ずかしがるせいで、一刀も妙に気恥ずかしい気持ちになってしまっていた。
「これが最後って言うなら、たんぽぽだって足手まといになりたくないしね。ご主人様や星姉様に、格好いいトコ見せなきゃだもん」
悪戯好きな笑顔に僅か、健気な覚悟が垣間見える。
「………ありがとな」
万感の想いを込めて、一刀はその一言を二人に贈る。
街から外れた一つの墓地、一つの墓石の前で……蒼い髪の少女が黙祷を捧げる。墓前に添えられているのは肉まんと……ここに眠る少女に良く栄える、深紅の花。
すぐ後ろで、同じように祈りを捧げる主の気配を感じながら、少女……星は、しばしの冥福を続ける。
「ここに、居たんだな」
「一刀が仲間の許を訪れ回っているのは聞いていたし、最後にここに来る事も解っていたからな。……少し、張り合いたくなった」
どこまで本気か解らない。相変わらず掴み所の無い空気を纏う、星。
「珍しいね、星がそういう事言うの」
「おや、らしくもなく感傷的になってしまったか」
寂しくて、どこか優しい。残された者だけが感じる風が、二人を肌寒く包み込む。
「……少しだけ……恋が羨ましい……」
零れるように、小さく、吐息と共に星の本心が紡がれる。愛する主と、尊敬する仲間の前だからこそ。
「私が消えたら………恋のように、主の心に居座る事ができますか……?」
冗談の中に一滴混ざる本心に、一刀は……胸を刺されるような恐怖を覚えた。その気配を感じて、星は満足そうに眼を伏せる。
「俺は……もう……」
一刀の脳裏に、決して忘れる事など出来ない姿が去来する。月、詠、そして恋。一刀が愛し、求め、失ってしまった……大切な人。
「誰一人、仲間を失いたくない……!」
身を切るような苦しみから絞り出された、強過ぎる切望。そんな痛みを感じる少年だからこそ、星は強く、愛しく想う。
「主にとって一番大切なのは、王朝の復興でも大陸の安寧でもなく、“我ら”ですからな」
魂の命ずるまま、言の葉を紡いでいく。
『俺が一国の主だから、皆が周りにいてくれるってのは解ってる。だから俺にとって、国なんてものは……みんなといるための道具でしかないんだ』
『みんなと一緒に幸せにやっていけるなら、屋台の親父だって国の王だって何だって構わないのさ。たまたま皆が一番幸せになれる手段が、一国の主だったってだけでね』
心の奥深くに眠る、言葉に出来ない確信に従って。
「こんな自分勝手な君主を、見限ったかい?」
そんな星に、一刀もまた……いつかと同じように訊き返した。いつかと同じ応えが返ると願って。
「………主は、ずるいですな」
その願いは、叶えられる。一刀と星、双方が望む事によって。
「そんな事を言われては、命を懸けてお仕えするしかないではありませんか」
過去をなぞるのはそこで終わり、一刀は再び願う。あの時よりずっと強く、ずっと強く想いを込めて。
「星は……死なないでくれよ……」
それは、星も同じ。
「言ったでしょう。貴方が望むなら……地獄の門番すらも、討ち倒してご覧に入れると」
自身どころか、少年の恐怖をも吹き飛ばしてしまうような不敵な笑みを浮かべて……星は静かに剣を抜いた。
「それほど不安に思うなら、一つ試してみましょうか?」
一刀に、そして恋の墓石に見せるようにして、星は一つの石塊に目を向ける。
そして、何のつもりか解らない一刀の前で、一閃―――鋭く石を断ち斬った。
「? 何を………」
「願を懸けたのですよ。我らが大望、もし叶うならばこの石よ斬れろ、と。見事に真っ二つですな」
子供騙しな安心のさせ方、でも……そんな心遣いが嬉しくて、一刀は頬笑む。
「では、主も。これから大陸の未来を切り開こうという御方が、石一つ斬れぬのでは話になりませんからな」
石など斬った事は無い。でも今はこんな子供騙しがどうしようもなく頼もしくて、一刀は勧められるままに剣を抜く。
「(恋………行って来るよ………)」
その柄頭に、形見の姿を認めて――――
「(きっと、勝つから―――――)」
一筋の光が、石を斬り裂く。
その“子供騙し”が残した軌跡は、一刀と星の思い出として刻まれ……後に十字紋石と呼ばれる事となる。
それぞれがそれぞれの想いを抱いて、己が背負うものを見つめて……乱世の終焉へと彼らはその足を進めて行く。