「ん~……………」
睡眠中の頬に、ペロペロと撫でるような生暖かい感触を覚えて、北郷一刀は目を覚ます。
「セキトー……あと五分………」
「わうっ!」
往生際悪く枕に顔を埋めた父親の耳を、セキトは肉球で軽くはたいた。「わかったよ、もう……」と、一刀は目を擦りながらノロノロと起き上がる。
「お前は昼寝してるから朝辛くないんだろうけど、俺はこれでも忙しいんだからな?」
「くぅん?」
悩み一つ無さそうな小動物を脇下から抱え上げて睨んでみるも、当のセキトは可愛らしく首を傾げるだけだ。憎めない奴である。
「顔洗って来るから、先に庭に皆集めといて」
「わん!」
元気の良いセキトの返事を聞き、一刀は寝台に手をついて体を起こす。これから、朝練の前にセキトらに朝食を与えなければならないのだ。
「…………もう、半年か」
忘れる事などあり得ない想いを握り締めて、一刀は静かに自分の剣………その柄を見た。
セキトらの朝食の最中、音も無く一刀の背後に影が降り立つ。
「一刀様」
『ッッ!!?』
その呼び掛けに、一刀とセキトらはビクッと背中を震わせた。ここは長安の恋の屋敷。城と違っていつも誰かが居るわけではない。
振り向けばそこに、褐色の肌と長い黒髪を持つ少女。
「みっ、明命? 相変わらずの忍者っぷりだなぁ」
「……にんじゃというのは良く判りませんが、城ではなくこんな屋敷に忍び込むくらい、盗人にだって出来ますよ。私が言うのも僭越に過ぎますが、一刀様は少し無用心過ぎです」
「ははっ、よく言われる。……でも、俺がここに出入りしてなかったら人和と会う機会も無かったかも知れないし、結果オーライでいいじゃん」
耳に痛い忠告を苦し紛れに誤魔化して、一刀は未だに石化している動物たち……の、先頭にいたセキトにデコピンを張る。
「って言うか、お前らは野生の本能忘れ過ぎだからな」
明命の能力を差し引いても頼りない獣たちに、一刀は落胆を禁じ得ない。仮に泥棒が侵入して来ても、平気な顔して戯れつきかねないから始末が悪い。
「この子たち皆、一刀様が飼っているんですか?」
「飼ってるってより、家族だよ。俺はこいつらの父親みたいなもんだから」
お父さん、いつかそう呼ばれた事を思い出して、一刀は眼を細めた。その横顔に、何か立ち入り難いものを感じて、明命も口をつぐむ。
そんな明命の様子に気付いているのかいないのか、一刀は何気なく重要な話を始めた。
「人和たちは、やっぱり?」
「はい……。一月ほど前から河北の公演に従事しているようです」
「……そっか。なら、やっぱり綱渡りになるんだろうね」
たったそれだけ、短い確認だけで話は終わり、一刀は剣の柄に眼を向ける。釣られて、明命もそれを見つけた。
「戦場に持ち出す剣に、子犬の人形を付けているんですか?」
「うん、可愛いストラップだろ? あげないけど」
彼を守って散っていった少女がそうしていたように、そこにはセキトの人形が結びつけられていた。
これから始めるもののために、今在る全てを噛み締めるように、一刀は長安を練り歩く。
まず目についたのは、祭りのような賑わいを見せている演習場。ふらりと足を向けて見る。
「一刀やーん♪ どないしたん?」
「ちょっと散歩ってトコ。霞たちも、随分賑やかだな」
そこに居たのは、霞、散、そして白蓮。兵たちに酒と牛肉を大盤振る舞いし、飲んで騒いでのお祭り騒ぎである。
「平たく言うと、最期の晩餐かな、と」
「縁起でも無い事言うなよ!」
「おや、そうやって過剰反応するって事は、また随分と怯えてるようで。縞無し」
「縞無しって言うな!」
相変わらずの散と白蓮のやり取りを聞き流せずに、一刀は散の手首を掴み、そのまま抱き寄せた。
「冗談でも、そういう事言わないでくれよ」
縋るような懇願を受けて、二人の時が数秒止まり、また弾けたように動き出す。
「ごふっ!?」
「所構わず発情しないでください……と言うか、あなたの態度の方がよっぽど死亡ふらぐになってるんじゃないかな、と」
一刀の鳩尾にめり込む、散の鉄拳によって。
「オ……オーケー、それがお前だ……」
「何も殴る事ないだろ……いや、今のは北郷も悪いけど」
腹を押さえて地に伏す一刀を、かがみ込んだ白蓮が指先でつつく。せっかくの穏やかな緊張感を台無しにされて眉をしかめた霞は、溜め息混じりに一刀を助け起こす。
「ま、最期の晩餐ってわけやないけど、これからこいつらには大仕事してもらうわけやん? 美味い肉と酒で騒ぐくらいさしたっても、罰当たらんと思ったんよ」
「確かにね………」
今度の相手は、大陸の半分を手中に治めた曹魏。誰も彼もが命懸けで戦いに臨む事になる。その中でも、霞たちの部隊は一際危険な役割を担うのだ。
立ち上がる頃にはけろっと回復していた一刀は…………
「(ありがとう……)」
宴の妨げにならないように心の中で礼を告げて、小さく頭を下げた。
一刀の徘徊は続く。町中を歩いていたら、見知った顔が三つ並んでいたのを幸いにと、甘味処に誘う事にする。
「珍しいですね、一刀殿の奢りとは」
「あ、あの……わたしは自分で……」
「雛ちゃんも気にしないでいいのですよ? あれなら、風がお兄さんの来月のお小遣いに少し色つけときますからー」
稟、雛里、風。北郷軍の誇る三軍師である。
「いいっていいって。三人は軍略の本とかで金使うだろ? 俺は食い物以外で金掛ける事ほとんど無いし、たまには持たせてよ」
少ない小遣いで背伸びしてみる一刀。三人とも一刀にとっては恋人でもあるのだ。男として、小さな見栄の一つも張りたい所であった。
「ホントに色欲以外は無欲だよなー、兄ちゃん」
「……いちいち人をスケベ扱いしないと気が済まんのかね、風さんや」
「風は何も言ってないですよ?」
悪口を宝慧のせいにしてすっとぼける風の頬っぺたを、一刀は軽くつまんで伸ばす。そんな一刀に、稟は醒めた視線を向けるばかりである。
「事実ではありませんか。これだけ見境無しに手を出しておいて、まさか自分が女好きではないとでも思っているのですか」
「うっ……そりゃ確かにちょっと気が多いのは認めるけど、見境無しってのは心外だぞ。誰でも好きになるわけじゃないんだから」
「………ちょっと…………」
風がからかい、稟が呆れ、一刀がいじけて、雛里が庇い……きれない。他愛ない会話がしばらく続き、ほどほどに和んだ後……雛里が、不安を抑え切れないように真面目な話題を持ち出した。
「……“曹軍百万”、勝てるでしょうか……」
『……………………』
静寂が、場を支配する。雛里は自分の失言に気付いて口を押さえるが、既に遅い。
しかし……それはそもそも失言ではない。
「勝てるよ」
現実に迫る脅威から目を背けるのは逃避でしかない。一刀は不安に揺れた表情で……しかしはっきりと断言する。
「桃香がいて…雪蓮がいて…皆がいる。俺さ……今なら、どんな事だって出来るような気がする」
強がりでは決してない。馬鹿がつくほどの信頼が生み出す心強さ。
「そんな事を言いながら、自分も限界以上に頑張ってしまうのがお兄さんがお兄さんたる所以なのです。………風はまだ納得してないのですよ?」
承諾はしたが納得はしてない。そんな風の膨れっ面に、一刀はバツの悪い苦笑いを返すしかない。無茶も無謀も百も承知で、それでもやると決めた事だったから。
「けど……正直もっと反対されると思ったんだけどなぁ」
「一番大切な時に貴殿を信じる事が出来ないなら、私たちは今ここには居ませんよ」
止めて欲しいのか欲しくないのか判らない。複雑で自分勝手な一刀の愚痴を、稟は可笑しそうに笑う。
「……英雄と夢想家の違いは一つ。遠大な言葉を現実のものとするか否か、です。ご主人様がわたし達を信じて決断して下さったように、わたし達もご主人様を信じています。ご主人様が、この大陸の未来を切り開く方なのだと」
「それは…………」
雛里の過ぎた言葉に、「俺は英雄なんかじゃない」と言い掛けた一刀は、その言葉を飲み込む。
事実はどうあれ、雛里の気持ちを否定する権利は無い。そして……懸けられた信頼から逃げずに、受け止めたい。そう思ったから。
その代わり、言葉は選ぶ。
「うん……皆で、勝とう」
どこまでいっても、王らしくはなれない一刀だった。
「うらぁあああ!!」
荒々しい轟音を響かせて、巨木がズルズルと崩れ落ちる。その凄まじい一撃を辛うじて避けた二つの巨影が、ドスンと音を立てて着地した。
「ぬぅ……! 漢女道を極めし我ら二人と互角に渡り合うとは、ぬしこそ真の武人……否、武士よ!」
「これで修行は間に合ったのかしらん、舞无ちゃん?」
「ああ……ひとまずこれで、“完成”した」
二つの巨影は………卑弥呼と貂蝉。そして、二人の前で戦斧を振るうのは北郷五虎将が一角……華雄こと、舞无。
「お疲れ」
「かっ、一刀!?」
そんな三人組に、林の影から静観していた一刀が声を掛ける。突然の恋人の登場に舞无は焦る。
「卑弥呼、いつ長安に来てたんだ?」
「うむ、近い内に大きな戦があると聞き、ダーリンが放っておけぬと言うのでな」
そんな会話の最中にも焦り、手拭いで必死に汗を拭き取り、焦れったくなって小川まで一直線に走りだす。
「………何やってんの、あの子」
「も~ご主人様ったらホントに無神経なんだから! 好きな人の前で汗だくなままなんて我慢出来ない、そんな繊細な漢女心がわからないのん!?」
「俺は汗くらい気にしないのに………」
「それでも漢女は気にしてしまう、気にしてしまうものなのだ!!」
「どーでもいいけど、さっきから微妙に字、違わないか?」
元々、化け物に会いに来たわけではない。一刀は小川に駆け出した舞无の後を追う。
「…………………………………すまん、またやった」
「それはいいけど、一人の時には気を付けろよ。助けが来なかったら洒落にならないし」
「…………うん」
汗を洗い流すため小川に飛び込み、そのまま溺れた舞无と、そんな舞无を救出した一刀。
冷えた体を寄せ合って、二人川辺に腰を下ろす。
「修行、随分頑張ってたみたいだけど……無理してない?」
高鳴る胸と火照る体を落ち着かせるように、舞无は川面に流れる紅い花弁を見つめていた。
その紅と、肩に触れ合うぬくもりが、固い決意を思い出させる。
「もう……恋に勝つ事は二度と出来ない。それでも私は……強くならなければならない」
ギリッと、拳が強く握り込まれる。
「……私が守る。恋の代わりに、私が一刀を守るんだ……!」
武人として、女として、決着をつける事が出来なくても負けられない。それは舞无の意地だった。
その固い左拳を、一刀の右手が柔らかく包む。
「誰にも、恋の代わりなんて出来ないよ」
「っ…………」
その一言に一刀が込めた、恋への愛情。それに鋭い胸の痛みを覚えて、そんな自分を嫌悪する。
しかし…………
「それは……舞无も同じだ。恋は恋しかいないし、舞无は舞无しかいない。誰かの代わりになんて、なれるはずがない」
そんな痛みも苦しみも、少年の一言一言が容易く解きほぐし、包み込んでいく。
「舞无は舞无として、生き方を選べばいいんだよ」
解は、とっくに出ていた。
「一刀を、守る」
愛のために。
―――ただそれだけで、命を懸けて戦える。