一刀ら北郷軍が大きな痛みと喪失と引き換えに蜀の地を制圧してほどなく、劉表の治める荊州にて内紛が勃発した。
その実体は、主君である劉表が重病を患った事によって浮き彫りとなった、後継者争いである。
劉表には二人の子供がいた。一人は、今は亡き先妻の娘・劉キ。もう一人は、今の妻が生んだ劉ソウ。
長女の劉キは聡明だが病弱。弟の劉ソウはまだ幼く、とても後継者など務まらない。悩んだ末、劉表は『家は長子が継ぐのが世の理』と、劉キを後継者に選んだ。
しかし、その決定に不満を持つ人間が二人いた。劉ソウの母である蔡夫人、そして……その兄に当たる蔡瑁だ。
蔡瑁は劉表が病死するや否や、劉表の遺言を揉み消して甥である劉ソウを王位に着かせようと画策した。
蔡瑁が元々位の高い将軍だった事もあり、荊州は乱れに乱れた。誰が敵で、誰が味方かも判らない。権力闘争の果てに謀殺される事を怖れた劉キは……内ではなく外に助けを求めた。
これまで度々劉表に同盟を働き掛けて来た、新野の劉玄徳。徐州から逃げ延び、北郷軍に匿われた桃香である。
桃香はすぐに立ち上がった。蔡瑁の行為を明確な反逆であると糾弾し、外部から積極的に介入したのだ。
元々、蔡瑁の立場を考えればこの内紛の発端が彼の恣意によるものだという事は誰にでも判る。劉キが桃香という味方を得た事で、これまで蔡瑁を怖れて頭を垂れていた旧臣たちは次々と劉ソウから離れて行った。
あっという間に内紛は終結し、捕えられた蔡瑁は位を剥がれて平民に落とされた。桃香の口添えもあり、自分の意思が介在する余地が無かっただろう劉ソウは罪を問われず、姉弟はその手を取り合う。
内紛は終結したが、今回の事で『自分では荊州を守れない』と痛感した劉キは、王として荊州の地を桃香に託す決断をする。
かくして天下は分かたれた。桃香と雪蓮に、一刀と争う意志は無い。西南の十呉と東北の曹魏………大陸の覇権を巡る最後の決戦が、すぐそこにまで迫っていた。
「…………………」
暗くて冷たい、沼のような場所に……私は一人立っている。
周りにいるのは、人間。少なくとも人間の形はしている。けれど……私には溝鼠か屍鳥にしか見えない。
「(醜い………)」
汚い泥の中で他の生き物を食い物にして、汚らしい我が身を浅ましく守ろうと足掻く畜生の群れ。
私は……そんな場所に立っている。
「(………普通なら、ここから逃げ出したいと願うのでしょうね)」
でも私はそうしなかった。こんな汚い泥の中でも懸命に生きて、そして……食い物にされてしまう哀れな生き物がいる事を、知っていたから。
「(私が、変えてあげる)」
ここから逃げ出す事は容易い。けれど、敢えて私はこの場所に留まる。穢れた沼から抜け出すのではなく、穢れた沼を清廉な泉に変えるために足掻く。
「(焦るな………)」
でも、まだ力が足りない。今、周りに犇めく畜生共を駆逐しようとすれば、逆に私が喰い散らされてしまうだろう。
何年も何年も、虫酸が走るこの世界で力を蓄え………そして私は立ち上がる。
手にした大鎌で人の皮を被った餓鬼畜生を斬り倒し、沼から穢れの源を断つ。
………思っていたほど、簡単な事ではなかった。背中を見せれば喰いつかれる。油断すれば引き裂かれる。両足にまとわりついた泥に体力を奪われる。
「(………半端な覚悟じゃ、何も変えられない)」
戒めて、歯を食い縛って、戦って、戦って、戦って、戦って、戦って………………沼に見えたはずのそこは、いつしか海ほど巨大に見えた。
「(…………なに?)」
がむしゃらに戦い続けていたら、目の前に………一羽の鳥が舞い降りた。
雲一つ無い青空から飛んで来た無邪気な鳥が、優しい音色で囀っている。そうしているだけで、世界は綺麗になれると言っている。
「(………笑わせないで)」
どこまでも綺麗な白い鳥。だけど………この世界には似合わない。
「(そんな事で変えられるなら、どうして私は戦ってると言うの……?)」
今は、貴女の姿が目障りで仕方ない。そんな思考に囚われて、不意に………私は止まってしまった。
振り返って、眼を向けて……漸く気付く。
「(………そんな事で変えられるなら、どうして…………)」
自分の周りに、血と屍しか無い事に。
「(私の手は、こんなに血に塗れているの……)」
……………………
「…………酷い夢」
寝汗の不快な湿り気に目を覚ます。たかが夢、と笑い飛ばしたいところだけれど、この時期にこんな夢を見る……という事自体が気に入らない。
迷いなんて、疾うの昔に捨てている。“こんな事”解りきっている。なのにこんな夢を見る、なのにこんなに汗をかく。自分が弱くなったような気がして気に入らない。
「もうすぐよ………」
夢などではなく、現実で血に塗れた掌を見つめ、それを誇らしく握り締める。
「………もうすぐ、新しい時代が始まる」
―――誇り高い覇王。いつだって、それが私なのだから。
「…………………」
城壁の縁から、遠く、北方の空を眺める。この先に……私たちの命運を分ける最後の戦いが待っている。
「(今度は、私たちがお前を助ける番だ)」
心の中で自分に言い聞かせても、虚しさが残る。あの時のように、私は何も守れないのではないか。まして………
「(だから、なのかしら)」
まだ今一つ馴染まない額の刻印に触れて、思う。私がこれを受け継いだ意味を。
「……ねぇ、思春。姉様はどうして、こんな時節に王位を継承させたのかしら」
後ろも向かずに、そこにいるはずの親友に相談してみる。打てば響くように応えが返って来た。
「……こんな時節だからこそ、ではないでしょうか。蓮華様は万一にも失ってはならない呉の珠玉。その戒めとして」
「………私が珠玉、か………」
思春の応えに、胸に小さな痛みが走る。姉様は昔からそうだ。何かにつけて私に玉を任せて、自分は平然と死地に飛び込む。
『蓮華さえ生きていれば、自分に“万一”があっても構わない』。姉様の行動の端々からそんな思惑が見えて………そういう所が昔から嫌いだった。
これから始まる大戦も………王位を明け渡した姉様は、唯一人の孫伯符として先陣をきる。……私に、呉の未来を委ねて。
「蓮華様が待っていて下さるからこそ、我らは安心して戦いに行けるのです。貴女の存在そのものが、呉の礎なのですから」
「…………そう」
慰めではない、思春の心からの言葉もどこか複雑に思えてしまう。
出来る事なら―――
「(私も貴方と肩を並べて、未来を切り開きたかった………)」
―――せめて信じて待とう。今の私に許されているのは、それくらいしかないのだから。
「そこだー! 行けー! って言うか助けて~!」
地面に描かれた円の中から、桃香さまは一生懸命に何か叫んでいる。
見張りと思われる男児二人を警戒し、“味方”は桃香さまを助け出せずにいた。
『助け鬼』と呼ばれる天界の遊びらしいが、そんなに面白いのだろうか? 桃香さまはとても熱中している。
「…………………」
こんな時節だというのに、桃香さまは常と全く変わらない。明るく、元気で、町を歩けば子供に慕われ、一緒になって楽しく遊び、常に笑顔を絶やさない。
そう……こんな時だと言うのに………。
「あ~あ~、負けちゃったー」
「負けなければ、いつまで経っても終わりが来ないではありませんか。それにこの法則では、“鬼”の人数を少し減らさないと対等とは言えません」
「そうかなぁ?」
「そうです」
味方が全員捕まってしまった桃香さまが、嬉しそうに肩を落としてこちらにやって来た。捕まってからはおとなしく助けを待つしかなかったのに、どうしてあんなに熱中出来るのか。
「愛紗ちゃんも混ざれば良かったのに」
「走力に差がありすぎます。それに私は……上手く子供に合わせる自信がありません」
いくら桃香さまでも、子供より足が遅いわけがない。子供たちが遊びを楽しめるように加減して、そんな子供たちを見て自分も楽しむ。……私には真似出来ない。
「じゃあさじゃあさ! あんまり体力とか関係ない遊びならいいでしょ? かくれんぼとかならどうかな」
天下を分ける大戦を前に、穏やかな覚悟を決める器も、真似出来ない。
「………辛くは、ありませんか?」
「んー…………?」
気付けば、そんな質問を口にしていた。怖くないはずも、不安が無いはずもない。
ずっと夢見ていた平穏と、これまで育んで来た大切な全てが今、同じ秤の上に乗っているのだから。
桃香さまは少し白を切るように宙を仰いで、やはり……穏やかに頬笑んだ。
「……怖くない、なんて言ったら嘘になっちゃうね。本当なら、曹操さんとだって戦いたくないもん」
そう……桃香さまは、曹操を一人の王として認めている。……いや、敬っているとさえ言える。
勝敗如何に関わらず、この戦いは桃香さまにとって悲しみしか生まない。
私は、許せない。桃香さま自身が許されても、桃香さまの優しさを踏み躙る曹操を……私は許せない。
「でも……このまま何もしなかったら、いつまでも戦いは終わらない」
それでも、桃香さまの表情に悲痛の色は見えない。それどころか、何かを見つけたような晴れやかさまで垣間見れる。
「愛紗ちゃんや鈴々ちゃんと立ち上がった時と、同じだよ。目の前で誰かが傷つくのが解ってて、黙ってるなんて出来ないもん」
あの頃と同じ。そう告げる桃香さまの横顔は、あの頃とはまるで違って見えた。
「逃げたくない。わたしにだって、きっと出来る事があるはずだから」
「(ああ…………)」
明るく、強く、そして誰よりも優しい。見る者全てに力を与える、太陽のような方。
「(貴女を主と仰いで、良かった………)」
今までも、これからも、ずっと貴女について行く。私の主は、桃香さま唯ひと――――
「ッッ………!?」
不意に………頭が割れるように痛みだす。そしてそれ以上に……胸が、痛い。
「(……………っ馬鹿馬鹿しい!)」
その痛みに、私自身に、愕然とする。
たった今、桃香さまへの尊敬の念を強く抱いたというのに……私は………
「(今のは……一体………)」
“桃香さまの臣である私”に、強い胸の痛みを覚えていた。
「………愛紗ちゃん?」
気遣わしげに私を見て来る桃香さまの姿が………
『愛紗……?』
――――誰かと、重なって見えた。