成都の庭園の東屋。いつまでも泣き止まない雛里に付き添っていた稟の許に………今まで姿を見せなかった散がやって来た。
「空いてますか」
「……私は何も言っていませんが」
稟の返事も待たずに、散は稟の膝で眠る雛里の顔を覗き込む。泣き疲れて眠ったその目元は、涙で少し腫れていた。
「……こういう時、子供は損ですね。自分を誤魔化して受け流す事が出来ませんから」
「むしろ溜め込まずにわんわん泣いた方がいいって見方もあるかな、と思いますよ。良いすとれす発散になるらしいので」
机を挟んで向かい合わせに、稟と散は挨拶代わりの会話を交わす。おそらく、成都にいる北郷陣営で一番“大丈夫”なのはこの二人。
その片割れである散が、ドンッと机に酒壺を置いた。
「というわけで、呑りますか」
「……貴殿は酒は呑まないのでは無かったんですか」
「たまにはアリかな、と」
またも返事を聞かずに、散は酒を杯に注いで差し出す。勝手な行動に多少ムッとはするものの、稟はそれを素直に受け取った。
稟も……少し呑みたい気分だった。
「………………」
「………………」
二人、静かに杯を重ね続ける。
あの時……散が不覚を取らなければ、稟が敵の目論見を看破していれば、こんな事にはならなかったかも知れない。
しかし……誰もその事で二人を咎めない。いっそ罵声でも浴びせてくれた方が楽になるのかも知れないが、それは罪悪感を和らげるだけの自己欺瞞に過ぎないのだろう。
稟も、散も、それを解っている。だから互いに言及する事も無い。
不意に、散がぼんやりと口を挟んだ。
「何を考えてんですかね、あの大馬鹿は」
「一刀の事ですか」
「ええ」
稟の確認を肯定して、散はまた酒を呷る。胸の奥に靄が掛かったようにスッキリしない。
「それでもああいう馬鹿は嫌いじゃなかったんですけどね。今は……なに考えてんだかさっぱり解りません。あそこまで魏延を庇う理由があるのかな、と」
王のくせに、自分が犬死にすると判りきっている状況でさえ仲間を切り捨てない馬鹿な男。それが……仲間の仇を己を殺してまで許す。
二つの姿が散の中で一致しない。同一人物と思えない。
「………別に、魏延を庇ったわけではないと思いますよ」
「じゃ、別の理由が?」
しかし稟には、何となく解っていた。曖昧な感覚……しかし確信に近いそれを散にきっぱりと告げる。
「一刀殿が、今でも恋の事を好きだからです」
「……………………」
しばし呆気に取られていた散だが、ややあってから溜め息を吐いて椅子に座り直す。
「納得いきませんか」
「いえ……単純な理由で却ってスッキリしました。軍師さんみたいな知的たいぷが言うと、妙な説得力がありますね」
流石に一刀に直接問いただす気にはなれなかったが、一番一刀と付き合いの長い一人である稟の言葉で十分だった。
「普段ああでも、一刀殿は誰より強いですよ。こんな事で己を見失ったりはしない」
一杯。
「惚気にしか聞こえないかな、と。それに、“こんな事”って割りには壊れかけてるみたいですが?」
また一杯。
「勘違いしないで下さい。恋を軽んじているわけではありません。ただ、誰も報われない行為を追って、さらなる喪失を重ねる愚者ではないと言っているだけです」
さらに一杯。二人は次々に杯を重ねる。
「確かに、あれほど復讐って言葉が似合わない男も他にいませんけどね。…………にしても」
しかし…………
「……酔えませんね」
「………ええ、不味い酒です」
いくら呑んでも、二人は酒に溺れる事は出来なかった。
「…………………」
そんな稟の膝の上、微睡みの中で二人の会話を耳にしながら、雛里は思う。
「(……ご主人様は、優しいご主人様のまま……)」
だからこそ、悲しい。
「(……どんなに悲しくても、恋さんのためなら堪える事が出来る……)」
だからこそ、傷が癒える事もない。
「(……ご主人様が自分を見失うとすれば、それはきっと……)」
だからこそ、二度と繰り返してはならない。
成都の城壁。高い場所から北方の空を眺めていた少年の頬を、涼やかな風が優しく撫でる。
まるで慰められているかのような気分になって、少年……一刀は、頬を煩わしそうに擦った。
擦って……その後であまりの余裕の無さに落胆する。安定しない自分の心を嘲笑うように、渇いた吐息が漏れた。
「………やっぱり、上手く笑えてなかったかな」
「零点だ」
トン、と軽い音を立てて、一刀の背後に白い影が降り立つ。
鐘楼の上から一刀が気持ちの整理をするのを待っていた……星。
「そもそも慣れぬ事をしようとするのが間違いだ。感情を殺して仮面を被るなど、一刀には似合わんよ」
返す言葉もなく、一刀は苦笑いを浮かべるしかない。まったくいつも通りに振る舞っている上に、こうして他の誰かまで見守っている星に比べて、自分のなんと腑甲斐ない事か。
今も、まともに星の顔を見られない。
「……恋と、約束したんだ。強くなるって………」
「………左様か」
一刀に自分の顔は見えない。だから、あの時己がどんな笑顔を作っていたのか、本人にはわからない。でも……それを見た皆の顔ははっきりと見えていた。
「これで……よかったんだよな……」
胸の痛み、心の渇き、皆の悲しみ……堪えれば堪えるほど判らなくなる。自分らしい自分が、自分が何かを守れているのかが。
外壁も支柱も失い、脆さを弱さを隠しきれない一刀の独白を…………
「……ふぅ、呆れたな。全て承知の上で肩肘を張っているのかと思っていたのに、未だ迷っておいでか」
星が、どこまでも軽い嘆息で払う。払って、一刀の肩を掴み、強引に正面から向かい合った。
綺麗な紅の瞳が、一刀の瞳の奥の光を探す。
「顔を上げろ、胸を張れ。貴方は……天下無双が愛した男なのだから」
「…………!」
強い言葉が、優しい瞳が、空っぽになった胸の奥で限り無く鮮烈に響いた。
これ以上己が傷つく事を怖れて作った壁を砕いて、独り彷徨っていた一刀の迷いを打ち晴らして。
「……………そっか」
小さな、力の無い納得。しかしその中に“一刀”が居る事を確信して、星は穏やかに頬笑む。
俯いた顔を上げ、無限に広がる青空を見据える一刀の背中に、小さな重みが凭れ掛かった。
「情けなくてもいい、みっともなくてもいい。ただ……己一人で背負い込む事だけはやめてくだされ」
心地良い重みと穏やかな声音が教えてくれる。決して独りにはしないと。
「痛みを感じる事も、涙を流す事も、全て含めて貴方だ。そして……それこそが貴方の強さ」
背中合わせに、右手が左手に重ねられる。
「そんな北郷一刀を、我らは慕い、愛したのですから」
「………っ…………」
触れ合った掌から伝わる体温が……泣きたくなるほど暖かかった。
一粒。
一粒だけ……涙が一刀の頬を流れる。雫は緩やかに零れ落ちて……一刀の右手を濡らした。
その中に在るものを見つめて、一刀は思う。
「(恋…………)」
この痛みこそが、彼女との約束を果たせている証だと言われて……少し、救われた気がした。
でも…………
「(もう一つの約束は、また破っちゃったな………………)」
消えない傷と癒えない痛みを胸に刻み、それでも日々は巡り続ける。
半年の時を経て………覇王との最後の決戦へと繋がっていく。