「……お待ちしておりました。あなたが、北郷一刀様?」
「ああ、“はじめまして”」
蜀軍の降服を受け入れた北郷軍は、綿竹関より歩を進め、中枢たる成都へと入城した。
地獄の使者たる悪名によって人民に不安を与えないかという懸念はあったが、叛乱と同時に民衆を味方につけていた焔耶によって幾分かの風評操作が行われていた。
統治者が変わっても、今より悪くはならないだろう。そんな共通の意識が大きい。何より……主君たる劉璋よりも焔耶や紫苑の方が民の信望を集めていた。
そうして入城した成都にて、一刀らを出迎える紫の髪の女性……紫苑。
「……少し、やつれたね」
「え………?」
「いや、何でもないよ」
“初対面”のはずなのに妙な事を言いだす一刀に、紫苑は僅か眼を見開いた。
それを軽く首を振って否定して、一刀は既に決めていた言葉を告げる。
「魏延から話は聞いた。……それで、当面は君に蜀の統治を任せたいと思う」
「………はい?」
一刀にとっては当然の判断でも、紫苑にとってはそうではない。劉璋に降服を進言して投獄されていたとはいえ、降将にいきなり傘下に治めた都市の全てを任せるなど正気とは思えない。
「……どうして、そこまで私を見込んで下さるのですか?」
「俺たちは長くここに留まれない。そして……君になら任せられると思った」
刑罰を受けても仕方ない身の上で、あり得ないほどの待遇。それを素直に受け取るよりも、驚愕や困惑が先に立つ。
常の一刀なら、そんな紫苑の心情に気付いて安心させただろう。だが、今の一刀にそんな余裕は無い。紫苑もまた、桔梗という同胞を失っているという事実も、失念していた。
返す言葉も、質問の応えになっていない。
「……私には、荷が勝ちすぎる問題と思うのですけれど」
「もちろん、君に全てを背負わせるつもりは無いよ。だけど今は……この乱世が終わるまでは……君が蜀を支えて欲しい。魏延も力になってくれる」
温情と信頼の言葉を淡々と並べる一刀の裁量に………
「その事ですが、異論があります」
稟が、小さく口を挟んだ。
「一刀殿のやり方は既に理解していますし、その意思は尊重したい。一刀殿がそこまで見込まれるなら、私も黄忠に関して否はありません。……ですが、魏延だけは話が別です」
「それは…………」
“恋の仇だからか?”一刀はそう口に出そうとして、やめた。言葉にする事で自分の気持ちが揺れてしまうのが、怖かった。
しかし、そんな一刀の臆病な懸念は“当然”外れる。
「禍根などではありませんよ。ただ純粋に、“危険だ”と言っているんです」
言わんとしている事を掴みかねている一刀に構わず、稟は続ける。
「これまでは劉璋に仕えて禄を貰い、我が軍との戦にも参戦していたにも関わらず、一度蜀軍が劣勢になれば主君を斬って敵に降る。……こんな人間を内に引き込んでは、いつ寝首をかかれるかわかったものではありません」
「っ……!?」
まったく遠慮容赦のない稟の見立てに、少し離れた場所から会話を聞いていた焔耶が絶句する。
我が身可愛さに選んだ決断などでは決して無い。だが……彼女の決断が蜀軍が事実上の敗北を迎えた後である以上、そう取られても仕方ないのもまた事実。
だが…………
「……俺は信じるよ。それに、俺たちに力を貸して降服してきた魏延を斬れば、この先……誰も仲間になんてなってくれない」
一刀は、そんな稟の進言に首を振る。
「ですが……!」
「俺は魏延の気持ち、解るような気がするんだ」
珍しく声を荒げた雛里の抗議を遮って、一刀は薄く……微笑んだ。
弱々しい、触れたら壊れてしまいそうな……脆い笑顔で。
「…………………」
「…………………」
誰も、何も、言えなくなる。これまで朧気で掴みかねていた一刀の心に、皆が否応なしに気付かされる。
そもそも一刀の強がり程度で隠し通せるほど浅い関係でも、浅い傷でもなかったのだ。
しかし…………
「………やれやれ」
唯一人、星だけが……仕方ないと言わんばかりに溜め息を吐いた。
「稟も雛里も何を騒ぐ? 今さら驚くような光景でもあるまいに」
飄々と、この場に於いてはある種異様なまでに、星の態度はいつも通りだった。
「魏延よ、一刀の馬鹿さ加減に感謝するのだな。だが………」
その軽い仕草から、一転。舞うように回転させた『龍牙』の刃先が……焔耶の首に皮一枚埋まった。
「ゆめゆめ忘れるな。お前が再び主に牙を剥こうものなら、我が神槍が光より疾く貴様の喉笛を抉る」
氷より冷たく、刃より鋭く、星の眼光が焔耶を射抜く。
冷や汗が焔耶の頬を伝う。おとなしく受け入れたわけではない。不意の事とはいえ……“反応出来なかった”のだ。
「……言われるまでもない。そんな恥を重ねるくらいなら、ワタシは今ここで桔梗さまの後を追う」
「……ふむ、結構」
それに“怯えたわけではない”返事に満足したのか、星の殺気は嘘のように霧散する。
「さて、私も長旅で些か疲れた。戦後の処理は明日以降にして、今日はもうお開きとしようではないか」
どう見ても疲れてなどいない星は、身勝手に、強引に、皆を玉座の間から追い立ててる。
―――誰にとっても、時間が必要だった。
「「…………………」」
二人、墓石の前で黙祷を捧げていた焔耶と紫苑が、ほぼ同時に眼を開く。
友を守り、遺志を託して散っていった……桔梗の墓石。
「(これで良かったのでしょうか……桔梗さま)」
返るはずのない問いを心中で投げ掛けて、焔耶はじっと墓石を見つめる。
「不思議な方だったわね、私たちの新しいご主人様は……」
傍ら、紫苑は桔梗にか焔耶にか、感慨深い呟きを漏らす。
「………そうですね」
まだ北郷一刀という人間を理解したとは到底思えない。しかし不思議か、と問われれば全く同じ印象を持ったので、焔耶は一先ず肯定で返した。
初めて会った時の姿。今のどこか空虚な姿。どれが本来の北郷一刀なのかも解らない。
「御館は……ワタシの気持ちが解ると言った。あれはどういう意味なんでしょう」
わざわざご主人様と呼ばず御館、と言い直した焔耶が可笑しくて、紫苑は薄く微笑む。
「あなたが桔梗の遺志を継いだように、ご主人様にも守りたいものがあるのよ。……きっと」
「……随分、はっきりと言い切りますね。初対面ではなかったんですか」
「どうしてかしらねぇ……私にも解らないけど、そんな気がしたの」
紫苑の言い回しは曖昧模糊であるにも関わらず、どこか不思議な説得力がある。
年長者としての言葉に、重みが宿っている。
「………………」
まだ計りかねている。理解したなどとはとても言えない。
だが…………
「(北郷、一刀か……)」
桔梗が見たものの一端が、焔耶には見えた気がしていた。
「ふんっ! やあっ!」
成都の城内にも入らず、僅か離れた森の中で、一人の少女が一心不乱に戦斧を振り回す。
あれ以来、一刀の顔を見ようともしない舞无だった。
「(どうして………)」
無論、成都の軍議にも参加していない。黙々と荷物のように軍の隅について来て、今ここにいる。
「(どうして………!)」
これまで過ごした恋との日々、一刀の笑顔、それら大切な思い出が……あの時の一刀の人形のような顔に塗り潰される。
「(どうしてっ!)」
行き場の無い憤怒を樹木にぶつけ、戦斧の一撃で薙ぎ倒す。もう何本目か、巨木が音を立てて崩れ落ちた。
「はあっ……はあっ…………はぁ……」
しかし……いくら力任せに暴れたところで、気が晴れるわけもない。
虚しさと淋しさだけが残って、力の抜けた掌から戦斧が零れ落ちた。
「……気ぃ済んだか?」
「ダメだ、済まん………」
その背中に、半刻ばかり静観を貫いていた霞が声を掛ける。
「……自分も、一刀にとって恋が軽い存在やって、本気で思っとるわけやないやろ」
「…………………」
霞の確認にも、舞无は何も返さない。納得出来ない、したくないという剛情が誰の眼にも見て取れる。
「ったわ!?」
霞はそんな可哀想な肩を抱いて、自分もろとも無理矢理に座らせた。
互いが同じ方向を見ている、顔色を窺えない。話しにくい事を話すための体勢だった。
「一番辛いはずの一刀が、健気に歯ぁ食い縛って堪えとるのに……それでウチらが泣いとったら報われんやろ。一刀も……恋も」
「……………報われる、だと?」
宥めるようなその言葉が、舞无の神経を逆撫でる。
「死んだ人間が何をされれば報われると言うのだ! 恋は死んだ……もういない……っ……」
形相を変えて掴み掛かった舞无は……そのまま力無く崩れ落ちる。
「私……まだ一度も恋に勝ってないのに……っ……恋はもういないんだ……!」
「…………………」
胸に縋りついて泣きじゃくる舞无の背中を、霞は優しくさする。母が子供にするように、何度も何度も。
「一刀が一番辛いのだって解ってるもん……! でもっ……あんなのヤダァ……!」
「………ああ、そやな」
全く繕わない、剥き出しの悲哀。今の一刀とは真逆の姿。
「……ちょっとはアンタを見倣うくらいで、丁度ええのにな………」
純粋な心は傷つきやすい。現実を受け入れるのにも時間が掛かる。
そう出来る事に小さな羨望を覚えながら、霞は見守る立場に徹し続けた。
―――日が沈み、涙が枯れても、ずっと……。