「ご、ごめんなさい星さん。お忙しいところをお手伝いして頂いて………」
「別に構わんよ。部屋で一人で呑む酒よりも、仲間と交わす月見酒の方が美味いものさ」
一刀たちが蜀の遠征に向かってしばらく経った今日、恋の“友達”の世話当番が回って来た雛里に助けを求められて、私と風は恋の屋敷を訪れていた。
訊けば、大型犬に餌をやるのが「一緒に食べられそう」で怖いらしい。狙っているのかと疑いたくなるほどこちらのツボを突いてくる。
いかん。可愛いものを見ると………ついついイジメたくなる。
「気持ちは解りますねー。風も前に一回やって、お兄さんに叱られました」
「うむ。是非涙目で恨めしげに見上げてもらいたくなる」
「えっと、あの……お二人は一体何の話をしてるんですか………?」
とはいえ、本当にイジメたら容易く傷ついてしまうだろう。仕方ないので、空想の内に止めておく。
そういうわけで、恋の友達に夕食を与えたついでに、私たち三人は恋の屋敷の庭を借りて月見酒に興じていた。
洛陽にあった物には劣るとはいえ、この屋敷もなかなかに広い。まったく、一刀の恋贔屓には呆れてものも言えん。
「……もう一月以上か。蜀の兵は戦の経験も浅く、霞たちを相手にすれば瞬く間に崩れるかと思っていたが……存外てこずっているようだな」
「思ったより強敵だった、と漢中戦の後で霞ちゃんも言ってましたしねー」
思えば、初めて出会ってからこれほど一刀と離れていた事は無い。あれは己の能力を過信しているわけでもないのに平然と無茶をするから………少し、落ち着かない。
「……やっぱり、わたしも行くべきだったでしょうか」
「そもそもお兄さんは、何であんなに必死に雛ちゃんの参戦に反対したのでしょうか?」
「あやつの言動が不可解なのは今に始まった事でもあるまい。推察するだけ徒労というものだ」
二人の疑問に私は早々に匙を投げる。あまりこの話題を蒸し返すと、雛里が『わたしは足手まといなのでしょうか』などと言いだしかねない。一刀の意図までは計りかねるが、少なくとも雛里を軽んじての判断ではないとは断言出来る。
「我らの使命は、主が不在の新都を覇王の手から守護する事。一刀の事は恋や稟たちを信じるしかなかろう」
こうして気を揉まれる事自体、彼女らからすれば不本意だろう。私が話を纏めて杯を持ち上げた―――その時。
「ウォオオーーン!」
「ニャァーー!!」
「ヒィイーーン!」
我らの周りで寛いでいた犬猫たちがいきなり騒ぎ始めた。その鳴き声はどこか悲しげで、聞いているこちらの胸が痛くなるような響きを持っている。
それらは皆、一様に南方の空を見ていた。
「っ………あれは」
それに釣られて目を向けた時、私たちの視線の先で一筋の流星が奔った。
………私も天文にまで明るくはないが、少なくとも良い予感はしない。
「………風、雛里。今の流星は?」
傍ら、北郷軍が誇る賢者たちに問い掛けてみれば、二人とも険しい顔で南方の空を睨んだまま。
その反応だけで、私が動くには十分だった。
「……雛里。主命に背く形になるが、付き合うか?」
「はいっ!」
いつも控え目な雛里が、力強く応えてくれる。それが私の不安を煽った。
「『判断は任せる』とも言われてますから軍令違反にはなりませんが……あんまり兵力は裂けないですよ?」
「なに、五千……いや、三千預けてくれれば十分だ。それで十分戦える」
不安を感じているのは同じだろうに、風は冷静に自分の役割に撤してくれる。
「願わくば、これがただの徒労に終わるように祈るとしよう」
不敵に笑って見せるものの、不安を感じる自身の心ばかりは誤魔化せそうになかった。
「………ここまでか」
諦観に満ちた溜め息が、槍を握る青年の口から漏れ出た。
濁流と化した河川によって分断された十軍前曲。背水の陣を強いられ孤立したその軍に対して勝負に出た蜀将張任の部隊は………激戦の果てに真っ向から打ち破られた。
多勢での機動に不自由な蜀の地形が、今度は霞たち前曲に味方した。埋めようのない“力の差”の前に蜀軍は敗れたのだ。
残るのは、「劉璋さまに危機を報せよ」と生き残った兵たちを逃がし、殿に残った張任ただ一人。
「いや、褒めてやる。正直ここまでやるとは思っていなかった」
「体張って兵を逃がす、か。ええなぁ自分、カッコええやん」
その前に立つのは、北郷五虎将に名を列ねる武人……霞と舞无だ。そして北郷軍前曲も被害こそ受けたが未だ健在。
張任にとっては絶望的……どころではない。“もう終わっていた”。
そんな張任に、霞は穏やかに声を掛ける。
「結果は敗けやけど、アンタはようやったで。これだけ戦えば、誰に恥じる事も無いんと違うか?」
「…………何が言いたい」
霞の不可解な問いに、張任は片方の眉を吊り上げる。そんな仕草に構わず、霞は続けた。
「そう怖い顔しなや。これでも認めとるんよ? “このまま死なすのは惜しい”てな」
そこで、張任も霞の言わんとする事を理解した。理解して………鼻で笑った。
「自軍に楯突き、大きな被害を与えた男が惜しいだと? 馬鹿も休み休み言え」
「そういう馬鹿なんよ、うちの大将は。あんたが望むなら、ウチから口利いたってもええで」
その反応を当然のものと流して、霞はさらに言葉を重ねる。
「貴様ほどの武人に惜しまれるのは光栄だ。……だが、俺はその提案を受け入れる事は出来ない」
霞と同じく穏やかな笑顔を浮かべて、張任はそれを拒絶した。
「……劉璋の器が判らんわけやないやろ。何でそこまで肩入れするんや」
「さあな……。だが俺は、勝敗によって主君を都合良く変えるほど器用じゃない」
霞の遠慮の無い問いに、この……どこまでも不器用な青年は薄く自重する。
張任は霞の言葉を肯定も否定もしない。そんな事は些事に過ぎない。確かに言える事は、彼にとって……それは命を懸けるに値するという事だけだ。
「俺は蜀に忠誠を誓った。これまでも、これからも、それが覆る事は無い」
そして、それだけで十分。
「本当の臣は二君に仕える事は無い。ここが俺の、死に場所だ」
その一言を合図に、張任は槍を突き付けて構える。その挙措から“戦う”という意志が言葉以上に明確に伝わって来た。
「………己の生き様を貫くか。いいだろう」
「舞无?」
感嘆にも似た呟きと共に、舞无が一歩進み出る。後ろ手に霞を制して、舞无は戦斧を軽く振るった。
「手を出すなよ霞、こいつは私が殺る」
その不器用な生き様に、舞无は僅か自分を重ねた。武人としての己を追い求めていた自分を。
「…………………」
「…………………」
これ以上の言葉は無粋。互いの間合いの僅か外で、張任と舞无は得物に誇りと喜悦を乗せる。
穂先を敵に向けて息を飲む張任。それに対して、舞无は刃先を下げ、相手に背中が見えるほどに戦斧を“溜めた”。隠す気など全くない……馬鹿正直なまでの必殺の構え。
「…………………」
「…………………」
空気が重く、張り詰めていく。技の応酬の中で隙を見つけた者が勝利する乱撃戦とは違う。
獣が獲物を狙うような剥き出しの殺意の交錯。派手な動きはまるで無い、だがこの硬直が動く時……一瞬でどちらかが獲物の喉笛を掻き斬る。
「(ただでは死なん)」
兵卒の槍衾に貫かれても仕方のない状況。張任は舞无に密かな感謝を捧げ………だからこそ全身全霊で挑む。
「(あの構え……威力は類を見ないだろうが、あれではどんな斬撃も大振りになってしまうはずだ)」
そして……硬直が解ける。
「(ならば……!)」
張任が大きく踏み出す。舞无のそれとは真逆の、構えた穂先を前進と共に突き出す小さく無駄の無い刺突。
舞无の一撃が繰り出されるより疾くその命ごと貫く槍の穂先。
だが――――――
「はあぁぁあーーー!!」
そんな張任の、間違いなく正解を選んだはずの一撃は……届かなかった。
「っ―――――」
小さく鋭く、大振りの構えを取る舞无に向かって伸ばしたはずの槍は、伸ばしたと同時に宙に舞う。
間違いなく大振り。しかし張任の常識を遥か越える速度で豪撃が弧を描き、小さく鋭く突き出した張任の槍を斬り飛ばしたのだ。
彼の両腕ごと、鎧ごと、身体ごと。
「がっ……あぐぅ……!」
肘から先を失い、腹部と口から夥しい血を撒き散らして、張任はその場に両膝を折る。
「礼を……言…う………」
「……お前は、間違いなく生粋の武人だった」
気高い魂を持つ者ならば、己が理想とする姿を追い求めるのは至極当然。
二人の間にある大きな差は……巡り合えた主君の違い。
「己を誇り、永の眠りに就け!!」
再び振りぬかれた戦斧の一撃が、最早苦しみの中で死を待つだけだった張任の首を刈り取る。
その一撃を以て、戦いの幕は下りた。
奇策と死力を尽くして北郷軍に一矢報いた蜀軍は、しかし力及ばず敗退。
この戦いによって蜀は主戦力の大半を失い、事実上の完全敗北を迎える。