「桔梗さま……!」
届いているかも解らない叫びを、焔耶は何度も繰り返す。
「どうしてっ……どうしてワタシを……!」
その呼び掛けは……眼を閉じ、背中に受けた傷から血を流して横たわる桔梗へと向けられていた。
血気に逸って敵わぬ敵に挑み掛かった自分を庇った……桔梗へと。
「らしくないですよ……こんなの……どうして……!」
依然として眼を開かない桔梗を揺さ振りながら、焔耶は自分の周囲の異変に気付く。
鬼神・呂布へと攻撃を続けているはずの蜀兵たちの怒号……どころか、戦いの音すら消えていたのだ。
「何をしているお前たち! 敵を休ませるな!」
「し、しかし……」
一番至近にいた弓兵が、恐慌しきった声で返事にならない返事を返す。
あらゆる焦りと苛立ち、無力感を振り払うように、焔耶は顔を上げて………
「そんな……馬鹿な……」
そこに、あり得ないものを見た。
戦火と屍の山を背にし、血雨を浴びて紅く染まり………何より、その全身に数多の矢を受けながら……紅き鬼神は立っていた。
「………化け物」
「将軍! 鬼のように強い上に不死身では勝ち目がありません! ここは退きましょう!」
蜀兵どころか、焔耶まで……戦意を完全に喪失していた。
背後に回った蜀の部隊の兵数は万を越える。しかし今この場に生き残っている兵は最早百に満たない。
いくら強くとも数で押しまくれば勝てる。千載一遇の勝機を逃して蜀に未来は無いと息巻いた結果が、この地獄を生んだ。
戦意など、奮い立つわけがない。
「……お前の眼は節穴か、焔耶……」
「っ! 桔梗さま……!?」
助け起こした腕の中から声が聞こえて、焔耶は涙声でその名を呼ぶ。
呼ばれた桔梗は、まるで眩しいものを見るかのような瞳で恋を見ていた。
「死してなお……主の盾か。……本当に、最期の最期まで見事な娘よ……」
「死して、なお……?」
桔梗の言葉が少しずつ染み入り、それを理解した時……焔耶は気付いた。
「なんて………」
それはある意味、不死身などよりよほど畏敬の念を抱かされる姿。
「なんて、やつだ……」
一歩たりとも退かず、倒れる事も、戟を下げる事も……まぶたすら閉じる事なく……呂奉先はその生を鎖していた。
命が燃え尽き、体が屍となってもまだ……敵を睨み、恐れさせ、この道を守っているのだ。
「くくく、はははは…………!」
「桔梗、さま……?」
誰もが言葉を失うこの状況で、唐突に、抑えきれないように笑い出した桔梗を、焔耶は訝しげに見やる。
致命傷をその身に受けているはずなのに、焔耶を見返す桔梗の表情は穏やかですらあった。
「可笑しいな、焔耶。武に生きて幾星霜……よもやこんな年若い娘に“憧れ”を抱こうとは……これが笑わずにいられるか?」
「桔梗さま、もう喋らないで下さい……!」
「………喋らせてくれ、これが、最期だ……」
外気に触れ、雨に濡れて体が冷えているのは互いに同じ。それなのに……焔耶の手は、抱き抱えている桔梗の体が、どんどん冷たくなっていくのを感じていた。
「……だが、見たか? 儂はあの天下無双の斬撃から、友を一人守ってみせた……」
「命を縮めます! もう喋らないで下さい!!」
絶叫と呼べる懇願。それには応えず、桔梗は焔耶の手を握る。
「……死ぬ時は戦場と決めていた。そして……これ以上無い相手に斬られて終わる。……そんな湿っぽい顔を見せるな」
次いで、その目尻に溜まった雫を拭う。いつも豪快で放埒だった桔梗に似合わない優しい仕草が、焔耶の胸を引き裂かんほどに締め付ける。
「……なあ、焔耶……儂は今になって……紫苑の言葉を理解出来る……」
「紫苑の……言葉……?」
桔梗は横たわったまま空を仰ぐ。星空、月夜、青空、何でもいいから最期に拝みたかったが故の行為だったが……空は風情の欠片も無い曇天だった。
「……ああ、儂も………」
『家臣じゃない、命より大切な俺の仲間だ』
『………また、泣かせる事になりますよ』
『……ここから先は、誰も、何も、通さない』
「……儂も……新しい時代を、見てみたかった…………」
焔耶の顔に伸ばされていた手が……落ちる。静かに瞼が、瞳を鎖す。
「桔梗、さま……?」
焔は呼び掛け、揺する。それを何度も繰り返す。
「……桔梗さま……っ…起きて、ください……」
そうすれば、先ほどのように……あっさりと目を覚ましてくれると思ったから。
「見たいというなら……一緒に見ましょう……新しい…時代、を……一緒に………」
本当に、ただ寝ているように見えた。朝になれば当たり前のように目覚める、そんな眠りにしか見えなかった。
「だから……っ…起きて下さい……起きて…ください……」
信じられない、信じたくない。それでも……桔梗が目覚める事は二度と無い。
「桔梗さま………っ」
蜀の山嶺に、季節外れの雪が降る。
『―――一刀』
それは立ち込める血煙に触れて赫い雪を敷き、その上から純白を積もらせる。
白い光華が降り注ぐ。
『―――さよならじゃない』
穢れ一つ知らない、それでいて……罪も、痛みも、悲しみも、全て覆い隠してしまうような……
『―――恋は、ずっと、一緒』
どこまでも優しくて、どこまでも残酷な白雪が。
――――寒いと、そう思った。
歯の根が合わない。体が震える。雨の中に一人で立っているみたいに、冷たくて居心地が悪い。
「(……ああ、これ夢か)」
何の気なしにそう気付いて、自分の感覚が間違っている事にも気付く。
これは寒いんじゃなくて、悲しいんだと。
「(……何が、悲しいんだ?)」
解らない。でも悲しい。辛くて、寂しくて、情けなくて、体に力が入らない。
「(……どうして、悲しいんだ?)」
解らない。解りたくない。なのにどうして……こんなに心細いんだろう。
「(あ…………)」
俺の胸の真ん中に大きく昏い穴が空いた。両手でそれを塞ごうとしても、穴は一向に消えてくれない。
『消せるわけがないだろう』と突き付けるように俺の胸に居座っている。
「(嫌な夢だな……)」
夢だと判っているのに、平気な顔で笑い飛ばす事が出来ないのは、どうしてだろうか。
闇の中、それと同じく沈んだ気持ちで漂っていたら…………
『――――――――』
誰かに呼ばれた、気がした。
「…………………」
目を開けて最初に、薄汚い屋根の骨組みが映った。体を起こすと、欠伸もしていないのに目尻から一筋の水が流れる。
「………目が覚めましたか」
声がした方を見ると、俺には顔も向けずに囲炉裏で燃える火を静かに見つめてる、稟。
……………稟?
「稟っ! 無事だったのか!」
鈍器で叩き込まれたみたいに、今の状況を思い出す。
蜀を攻めてる最中、水攻めで中軍から分断されて、背後から奇襲を受けて逃げ回った。
その激流に飲み込まれたはずの稟が、無事にこうして俺の前にいる。
でも、稟は………
「…………ええ、恋に…………救けられました」
やけに感情を感じさせない声で、弱々しい返事を返した。
「そっか、恋に救けられ……て…………」
……………恋?
「……………俺、は」
思い出すな。思い出せ。二律背反する言葉が頭の中で馬鹿でかく響く。
『さてどうする? この期に及んで悪あがきでもするか』
『さあね、戦ってみなくちゃわからないだろ』
『この場から生きて去れるなどと思い上がるな!』
『………死なせない』
………………何で、稟しかいないんだよ?
「…………………………………恋は?」
口に出した瞬間、何故か後悔する。身体中の血が一気に引いていく。
「……………………」
稟が応えてくれない。ほんの数秒の沈黙さえ……今の俺には我慢出来ない。余裕が無い。
「っ! 一刀殿!?」
慌てる稟に返事もせずに立ち上がり、小屋の戸から外に出ようとして………
「………どこへ行くんですか」
両手を広げた稟に、道を塞がれた。
「決まってるだろ。恋を探しに行く」
「彼女がした事を、無駄にするつもりですか」
………何で、邪魔するんだよ。
「どいてくれ………」
「どきません」
「どけよ!」
「どきません!!」
埒が明かない。今はこんな所で稟と言い合いなんかしてる場合じゃないっていうのに……!
「……いいよ、勝手に通る」
「あっ……!?」
立ちふさがる稟の腕を掴んで、力任せに押し退ける。そのまま外に出ようとする俺の腕を、稟が体全体でぶら下がるように引き止めた。
「今から行って……何が出来ると言うのですか。一刀殿に何かあれば、恋を犬死にさせた事になるんですよ!」
…………………犬死に?
「勝手に決めつけんなよ! 恋が無事かどうかなんて、行ってみなくちゃ判らないだろ!?」
「“判らないから”! 行かせるわけにはいかないんですよ!!」
恋はきっと生きてる。今も苦しんでるかも知れないのに………何でわかってくれないんだよ!
もういい、このまま引き摺って……………
「ッ―――――!?」
漸く外に出たと思った瞬間………焼けるような痛みを感じて、視界がすっ飛んだ。
仰向けに倒れてから、顔面を思い切り殴られた事を知る。
「…………散?」
「…………恋から、伝言を預かっています」
殴り倒した俺の前にしゃがみ込み、散は目線を合わせて俺の眼を真っ直ぐに見た。
「『………ずっと、一緒』」
「っ………!?」
散の………いや、恋の言葉が……俺が眼を背けていたものを、否応なく気付かせる。
恋がその言葉を、どういうつもりで使ったのか…………解りたくないのに、解ってしまった。
『……強くなるよ』
そう約束したのに、俺は…………
「…………っ」
ちっぽけな自分の手に目が行って、俺はそこにあるものに気付いた。
知らずの内にずっと握り締めていた物。あの時………俺が唯一掴み取れた物。
「……………恋」
恋がいつも方天画戟の柄の先に付けている、小さなセキトの人形。
………………違う。
「……帰って来たじゃないか。濁流に呑まれても、恋はちゃんと帰って来た」
俺が助けたかったのは…………。
「恋は天下無双だろ? やられるわけないじゃないか………」
俺が本当に、守りたかったのは………。
「…………………」
「…………………」
稟も、散も、俺の言葉を肯定してくれない。何も言ってくれない。手の中の人形が……形見に見える。
「嘘だ…………」
誰か、嘘だって言ってくれ。悪い夢だって、悪夢の続きだって言ってくれ。
「ウソだぁああぁあああぁああ―――――!!!」
――――いくら叫んでも、いくら泣いても、何一つ変わってはくれなかった。