「…………………」
夜の闇も、ぬかるんだ地面もまるで関係なく、散は絶壁の間道を駆けて行く。
痛む足で凶馬の腹を蹴り、その腕に仲間が命を懸けて守った少年を抱いて。
「………………」
誰が見ているわけでもないのに、散は俯いて顔を隠す。
『あの娘たちを、守ってくれる?』
長めの前髪が顔に貼りつき、その無表情を上から隠した。
『先に行って、待ってるわよ』
その胸に、家族同然に育ったかつての主君の姿が去来する。
「……………はぁ」
疲れた。疲れきった、そんな溜息が零れる。
敵に背を向け、仲間を見捨てて、自分は戦場から逃げ出す。それはどれだけ残酷で、どれだけ惨めなものだろうか。
それでも散は立ち止まらない。振り返らない。歩を止める事もない。
「…………まったく」
ただ―――――
「………揃いも揃って、あたしに嫌な役を押し付けますね」
そんな……空虚な一言だけが漏れ出た。
「(何だ……これは……)」
目の前に映る光景、己の肉眼が見ているそれが、桔梗には信じられなかった。
津波のように押し寄せる蜀の精鋭たち、それが泡沫のように呆気なくその命を散らしていく。
ある者は胴を串刺しにされ、ある者は頭蓋を砕かれ、ある者は首を飛ばされ、ある者は脳天を唐竹のように割られ、血飛沫を上げて瞬く間に肉塊へと変えられていく。
どれほど腕の立つ武人でも、数の前には無力なものだ。絶え間無く襲い来る暴力の嵐に体力を削られ、自らが積み上げた屍によって動きを阻害され、いつしか力尽きる。
しかし目の前の少女は、斬り倒した死体を盾にも足場にもし、その技は今もなお精彩を欠く事なく振るわれていた。
激流に攫われ、戦う前から既に体力の限界を迎えていたにも関わらず。
「(これが、武の極みというものなのか……)」
前言に偽りは無い。誰一人その横を抜けられない……どころか、方天画戟の間合いに入った瞬間には絶命していた。
最早強いという言葉でも、恐ろしいという言葉でも形容出来ない。
研き抜かれた武人の技巧ではない、血に餓えた獣の暴威でもない。まさに鬼神と呼ぶに相応しい神懸かった『力』。
「(血雨を降らせ、屍を踏み躙る様の……なんと似合う娘か……)」
桔梗は既に、完全に魅せられていた。見ている内にどこまでも引き込まれていってしまうような、底の見えない天下無双の武に。
「(それほどの武を以て、只一人の男を守るか………)」
桔梗は本能的に悟る。目の前に在る力は、信念無き刃では決して辿り着く事の敵わない高みであると。
戦の享楽に酔うだけの自分には決して届かない極みなのだと。
「………素晴らしい」
思わず称賛が口から漏れ出る。これこそ、長らく武の道を歩いて来た桔梗が目指していた理想の姿。………否、想像した事すらなかった究極の姿。
ただの強さではない。“決してこの先に行かせない”という金鋼石よりも硬い執念が、その全身全霊の戦いぶりから伝わってくる。
「(そこまで………)」
桔梗は初めて目にする。誰かの為に、これほどまでに強くなれる人間を。
そんな桔梗の内心には気付かずに、焔耶は苛立ち混じりの怒声を上げる。
「たった一人を相手に何をやっている! ぐずぐずしていたら北郷一刀に逃げられるだろうが!」
その声で桔梗は正気に還る。しかし……僅かに遅かった。
「ワタシが片をつけてやる!」
「止せ焔耶! お前の勝てる相手ではないと解らんか!?」
「桔梗さま、将たる者が何を弱腰な事を言っているんですか!」
焔耶が巨大な金棒を振り上げて走りだす。桔梗の制止は、彼女を止める事は叶わなかった。
そして焔耶は――――
「……弱い奴は、死ね」
鬼神の間合いに、その足を踏み入れた。
弾け飛んだ松明が屍と化した人間の脂を燃やし、燃え広がった炎が戦場を照らす。
血と炎に彩られた地獄で一人、紅い少女は戦い続けていた。
『………一刀は不思議。一刀の周りには、たくさんの人が集まってる』
一振り、また一振りと戟を振るう度、深紅の華が血雨を降らせる。
『(一刀がいれば、恋は天下無双)』
降り注ぐ赫い雪が、少女の紅い髪をさらに濃い血の色へと染めていく。
『全部守れるわけじゃない。……でも一刀は、たくさんのものを守ってる』
絶命させた者を踏みつけ、しかし少女は体勢を崩さない。怯まない、退がらない。
『……みんなのことが、好き。でも、でもね?』
紛れもない天下無双。しかし鬼神の如き力を誇る彼女も、一人の人間。限界を越えて酷使し続けた手が、足が、体が動かなくなっていく。
『……一番好き』
稲妻のような剣閃は翳り、既に少女の斬撃は力任せに振り回すだけのものへと成り果てていた。
「(一刀………)」
それでも少女は、戦う事をやめない。命在る限り戦い続ける。
『……平和になっても、ここにいていいの?』
ずっと独りだと思っていた。自分は強いから、独りでも生きていけると思っていた。
『恋、ご主人様と一緒にいる』
そんな孤独から、救い上げてくれた男(ヒト)がいた。
『……それで、誰からも守ってあげる』
いつかのように、またいつかのように、少女は戦い続ける。
『約束する。平和になってもずっと、もし悪いヤツが来たら……恋が守るから』
大好きな少年を守るために、愛しい想いを力に変えて。
「(……一緒にいる)」
霞む視界の向こうから、無数の矢が飛んで来る。既にそれを捌ける体でも、避けられる数でもない。
『一緒にいさせて、ご主人様』
終端を迎える刹那。蘇る、大切な思い出の中に………
『恋!』
愛しい笑顔を、見つけた。
『―――ずっと、一緒………』