「散!!」
何があったか解らない。俺は的盧から飛び下りて、地面に叩きつけられた散に駆け寄る。
「大丈夫か……!」
「受け身は取りました。……にしても、油断していたようで」
明らかに受け身なんて取れてない。震える体で、自力で起こそうとしている散の上体を抱き抱える。
「……油断?」
「っ………!」
俺の質問に応えず、散は横たわったままの姿勢から短戟を明後日の方向へと投げ放つ。
それが中空で弾け飛んで………短戟とは別の、重たい何かが雨で抜かるんだ地面に突き刺さる。
「これは………」
黒金の、杭。よく見れば、それと全く同じ物が散の……すでに絶命した縞馬の胴体にも突き刺さっていた。
「狙撃……?」
俺が気付いて、寒気を覚えるのを待っていたかのように、草の根を掻き分けて泥土を踏む足音がこっちに迫って来る。
でもまだ、距離がある。
「立てるか散、逃げるぞ!」
「ダメです。今背中を見せたら、さっきの杭で串刺しにされます」
らしくもない弱音を吐きながら、散は双鉄戟を杖代わりにして立ち上がる。………まさか……
「散、その足……!」
「馬の血です」
暗くて気付かなかったけど、散の脚衣にどんどん黒ずんだ染みが広がっていってる。
馬の血だけとは思えない。さっき馬に刺さった杭が、散の脚にも傷を与えてたんだ。
しかもこの様子だと………かなり深い。
「……やっぱりバレますか。そういうわけで、がら空きの背中くらいは守ってあげますから、さっさと行ってください」
流石に無理のある嘘だと観念して、散はそんな事を言った。けど………
「行けるわけないだろ!」
「足手纏いはごめんだと言ってるんです」
「そんな風に思わない!」
「あたしが思います。いいからさっさと行けってんですよ。殴られたいのかな、と」
そんなの聞けるわけがない。言い争ってる俺たちに、三度の狙撃が飛んで来た。
「邪魔すんな!」
今度は見える。俺は飛んで来た黒金の杭を抜き放った剣の一振りで叩き落とす。………と、
「ぐわっ!?」
それを見計らうように、左の頬に鈍い痛みが走る。ンのヤロ、ホントに殴りやがった。
「邪魔はあなたです。わかったら今すぐ消えて下さい」
「うるせー」
殴られたくらいで諦めるか。睨み殺さんばかりの散の視線を無視して、俺は散を的盧に乗せるべく無理矢理抱え上げた。
「……あーあ、アホな事やってる間に追い付かれた」
「……こっちの台詞かな、と。ここまで誰かに呆れたのは生まれて初めてですよ」
木々の生い茂る闇夜の奥から、蜀軍の鎧に身を包んだ兵士たちがわらわらと現れる。……正確な数が全然掴めない。
ただその筆頭に、明らかに将らしき二人がいる。
柔らかい銀髪の女傑に、不揃いな髪色の少女。………この二人が、厳顔と魏延ってわけか。
「この暗い中、あれだけ離れたあたしを射ますか。なかなか良い腕ですね」
「本当ならそっちの坊主を狙うべきだったのだがな。流石に暗くて見誤ったわ」
散が俺の胸を肘で強打して、片足で着地する。そして双鉄戟を女傑に向けて威嚇する。誰がどう見ても、戦える体じゃないのに……。
「さてどうする? この期に及んで悪あがきでもするか。それとも……」
銀髪の女傑が余裕綽々に俺たちに語り掛けて来る。その眼が一瞬、鋭い色を放ち――――
「部下を楯にして逃げるか!」
次の瞬間、大振りの刃が付いた奇妙な武器から、黒金の杭が撃ち出された。
標的は俺でも散でもなく………的盧。けど―――
「くっ!」
逃がさないために馬を狙う。それくらい俺にだって判る。杭は的盧に届く事なく、俺の剣に軌道を逸らされて的外れな方へと飛んだ。
散を見捨てて、俺だけ逃げる? …………はっ。
「冗談。死んでも御免だね」
俺は剣を正眼に構えて、少し前に出ていた散に並ぶ。横で散が、うんざりしきった、深い深い溜息を吐いた。
「……家臣の為に死を選ぶか。どのみち逃げられんと諦めておるのか、それとも桁外れの馬鹿なのか」
「超絶的な馬鹿ですよ。多分死んでも治りません」
僅か面白そうに眼を見開いた女傑に、何故か横から散が応えた。……はいはい、どーせ馬鹿ですよ。前の世界からさんざん言われてる事だ。今さらそれを反論する気もないけど……
「家臣じゃない、命より大切な俺の仲間だ。それに……死ぬつもりなんてないさ」
そこはキッチリ、否定しておいた。すると………
「この状況で勝てるとでも思っているのか!? 舐めるのも大概にしろ!」
今まで口を開かなかった、もう一方の敵将である少女が怒鳴った。
「さあね、戦ってみなくちゃわからないだろ」
強がりだって事は自覚してる。だけど……諦めるつもりはない。どうにか散を的盧に乗せて、二人乗りで逃げられないか? ……くそ、あいつら騎兵を連れてない。あれじゃ馬を奪えない。
「あたしも戦りますよ。今度こそ文句は言わせません」
「……ああ、一緒に戦おう。絶対生きて帰るんだ」
戦える体じゃない事は、俺にも散自身にも解ってる。だけど俺が我を通したのと同じように、散にも散の意志がある。
なら……一緒に戦う。俺は俺の、散は散の守りたいものを守って……皆の所に帰るんだ。
「……これが魔王の正体か。紫苑の見立ても案外馬鹿に出来んな」
紫苑……。その名前を女傑の口から聞いて、思う。彼女がこの場にいなくて良かった……戦う事にならなくて良かった、と。
「黄忠が俺を、どんな風に言ってた?」
「死にゆく貴公に話しても仕方あるまい。……それより、なぜ紫苑が黄忠だと知っている?」
「今から死ぬアンタに話しても、仕方ないだろ」
「ふっ、そうか」
逃げるにしろ、隠れるにしろ、この二人が敵に健在な限り不可能。俺は直感的にそう確信する。
だから紫苑がいなくて良かったと思った。……いや、紫苑なら仲裁でもしてくれたのかな。
益体もない仮定が浮かぶ自分の脳みそが、少し可笑しかった。
「その度胸と胆力だけは認めてやる。だが……この場から生きて去れるなどと思い上がるな!」
業を煮やした敵将の少女が、ごつい金棒を威嚇のように一振りして咆えた。
――――それに、
「………死なせない」
声が、返った。俺の………“後ろから”。
「―――――――」
聞き違えるはずのない、静かで心の和む声音。
「…………恋」
稟と一緒に激流に呑まれたはずの恋が、いつ現れたのか、拓けた絶壁の間道の真ん中に立っていた。
そう……確かに、立っている。
「恋……!」
生きてた! 生きててくれた! その事実に、熱い何かが込み上げて来て泣きそうになる。
「これでますます、逃げるわけにいかなくなったな」
恋は馬に乗っていない。あの怒涛に流されたんだろう。……これで徒歩が三人、馬一頭。でも俺は、この状況に絶望を感じない。むしろ、自然と口の端に笑みが浮かぶ。
「………恋が、守る」
「ああ、一緒に戦ってくれ!」
今なら、どんな事だって成し遂げられる気がする。恋が、敵将に向き直った俺の隣に並ぶ。
――――そして、次の瞬間。
「―――ッ!?」
鳩尾に、硬くて重い衝撃が走る。それが……恋の方天画戟の石突きだと、一瞬わからなかった。
「が……はあっ……」
肺の酸素が一気に叩き出されるような感覚。呼吸が出来ない、視界が霞む、気が遠くなる。
「れ……ん……?」
ここで気を失えば、何か掛け替えの無いものを失ってしまう。そう確信しているのに、暗闇が否応なく俺の意識を鎖す。
「どう…して………」
精一杯の力を振り絞って、何かを掴む。
―――俺には、たったそれだけの事しか出来なかった。
「………………」
「………………」
恋と、散。二人の間に、僅かな沈黙が下りる。
散には、今の恋の気持ちが痛いほどに解っていた。……当然、その行動の意味と、そこに示された意図にも。
「………いいんですか」
「………いい」
散の問いに小さく応えて、恋は気絶した一刀を的盧に乗せる。
一刀が気絶した事で、“一刀一人を逃がす”という選択肢は無くなった。……いや、一刀が起きていたとしても、その選択肢は無かっただろう。
二人を残して自分だけが逃げるという行動を一刀が採るはずがない事は、先のやり取りを見ても一目瞭然だ。
今の散では時間稼ぎすら出来はしない。そして………気絶した一刀を連れて逃げる“誰か”が必要だった。
「………また、泣かせる事になりますよ」
“一刀を連れて逃げろ”。言外に示した恋の意図を疾うに理解していながら、散は恋の心を揺さ振る。
彼女にしては歯切れの悪い、悪あがきにも似た行為。しかし恋は…………
「…………いい」
それを“笑顔で”受け入れた。
「……“泣ける”なら、その方が、いい」
その姿があまりに儚くて、今にも消えてしまいそうで……散は無用の言葉を重ねてしまう。
「二度と会えなくなりますよ。言葉も交わせない、触れ合う事も出来ない。………本当にそれで、満足ですか」
「………違う」
恋はそれさえも、穏やかに否定した。
「……この先に、稟がいる」
「…………………」
今度こそ散は、言葉を失った。同時に覚悟を決める。恋のそれに遥か及ばない、しかし残酷極まる覚悟を。
「……ずっと、一緒」
「…………………………………そう、伝えておきますよ」
―――散は的盧に跨がり、走りだす。一度も振り返る事なく、戦場から背を向けて。
水龍の顎門にその身を呑まれ、木の葉のように人の身を振り回す激流から抜け出し……恋の体力も既に限界を迎えていた。膝が揺れる、足元が覚束ない、しかし――――
「みすみす逃がすと思うか!」
駆け去る的盧の背中に、桔梗の豪天砲が咆える。空気を貫いて放たれた黒金の杭はしかし、中空で二つに断たれて弾け飛ぶ。
紅き鬼神が振るう、天下無双の斬撃によって。
「………指一本、触らせない」
少女はゆっくりと振り返る。その眼光が、蜀の誇る二人の猛将を捕えた。
「……ここから先は、誰も、何も、通さない」
空気が凍り付く。氷よりなお冷たい、無慈悲な深紅の炎によって。
愛しい少年を守るため、無垢なる少女は冷徹な紅蓮を燃え上がらせる。
「………死にたい奴から、かかって来い」
紅蓮の劫火は止まらない。
―――燃え尽き消える、その刻まで。