「(寒い…………)」
じめじめと薄暗い地下牢の壁に背を凭れ、紫色の艶やかな髪の女性は身を震わせる。
「……やつれたな、紫苑」
「女としては、身が細くなった…って言って欲しいわ、桔梗」
そんな弱りきった紫苑に、格子の外から桔梗が話し掛けた。冗談を言える程度の気力がある、という事にまずは安堵する。
「ふん、そんな不健全な絞り方があるか。見ろ、肌は乾いて自慢の乳房まで萎んでおるわ」
「う……鏡を見るのが怖いかも」
肩を落とす紫苑を、桔梗は小さく鼻で笑った。それで軽い挨拶は終わり、桔梗は深く溜め息を吐く。
「もう一月以上か……。璃々に嘘を吐き続けねばならん儂の身にもなってみろ。幼子の淋しがる姿ほど胸の痛むものはない」
「頼りになる友達を持って幸せねぇ、私は……」
「ぬかせ」
桔梗がドスンと牢に背を向けて腰掛け、その格子越しに紫苑もまた背を預ける。
桔梗は仏頂面のままで、紫苑の方を見もせずに竹の水筒と握り飯を手渡した。今の状態は、“紫苑自身以上に”桔梗には納得出来ないものだからだ。
「……ぬしらしくもない。何故降服など進言した? こうなる事は判りきっておっただろうに。まだ謀反でも企てた方がマシな結果が得られたはずだ」
「……そんな事は出来ないわよ。確かに劉璋さまは名君とは呼べないけれど、あの方から“立場”を得られなければ、わたし達だって何も出来なかったかも知れないもの」
そう。漢中に侵攻した蜀軍が撃退されて程なくした頃、紫苑は主君・劉璋に十国への降服を進言した。
それが劉璋の不興を買い、以来紫苑はこの牢の中に閉じ込められている。桔梗や焔耶が取り成さなければ、処刑されていた可能性すらあった。
だからこそ桔梗は納得いかない。
「義理堅いのは“らしい”がな。だが、まだ理由を聞いておらんぞ。何故……降服などと言い出した?」
謀反を起こさなかった理由などさして気にもならない。母親に相応しい優しい気質を持つ彼女ならば当然の言葉。しかし……いずれ来るだろう敵と刃も交えず頭を垂れるなど、“黄漢升”としてはあり得ない。
紫苑はその問いに僅か間を置いてから、逆に桔梗へと問う。
「桔梗……あなたはおかしいとは思わないの? 本当に北郷一刀が噂通りの暴君なら、張文遠、呂奉先、華雄、張魯。元々北郷の部下でもなかった人間が、今も彼の力になっているはずがないわ」
霞たちと直接手を合わせ、“彼女らならば北郷の首など容易く獲れる”という認識を共有していると確信しているからこその言葉。
……だが、それで丸め込まれる桔梗ではない。
「魔王の下にいた方が美味い思いが出来る、という彼奴らなりの事情ではないのか。生憎と実力は認めても、人柄まで見極めた憶えはないぞ」
当然の事として返された応えに、紫苑も内心ではもっともだと思っている。しかし現に、彼女は罪人として獄中にいる。
「……実はね、あの戦いの渦中……張遼と話したの」
「っ……戦の最中にか?」
「……ええ、裏切り者と揶揄されても文句は言えないわね」
「………それで、どうじゃった」
予想外の紫苑の告白に驚くも数瞬、桔梗はすぐに続きを促す。そんな彼女に、紫苑は背を向けたまま微笑み掛けた。
「とても真っ直ぐな、熱くて強い眼をしていたわ。……彼女たち、北郷一刀が大好きなんですって」
相変わらずのその笑顔は………桔梗に、呆れを呼んだ。
「そんな理由で小僧に歯向かい、獄に繋がれ、璃々を泣かせる。……それが本当にぬしの望みなのか?」
「本当に、どうしてかしらね。でも……信じてみたくなってしまったのよ」
話が噛み合わない。否、話にならないと言う方が正確か。二人の会話は平行線を辿る。
「天より舞い降りた平和の使者、か? 何を夢見がちな小娘のような戯言をほざいている。これまで腐るほど“権力者”を見てきただろうが」
「そうよ桔梗……だからこそ、それを変えたいと願う者が現れても不思議じゃない」
「それが北郷一刀だと? 仮に噂通りの悪僧でなかったとしても、権力闘争のどさくさに乗じて覇権を握った成り上がりには変わりない」
紫苑には、その理由も判っていた。つまり……見ているものが違うという事。
「なぁ紫苑……儂らは劉璋という愚君の下で、それでも儂らなりに必死に戦ってこの蜀を守って来た。それをどこの馬の骨とも知れん輩に任せるなど我慢ならん」
話は終わり、そう示すように桔梗は腰を上げた。その背中に、紫苑は静かに語り掛ける。
「桔梗………この大陸は変わりつつある。権力の中で足掻き続ける時は終わりを迎え始めている。……私には、そう思えるの」
「全て憶測に過ぎんな。悪いが儂には、ぬしほど楽観的な選択は出来ん。何より………」
一度だけ振り返った桔梗の顔には――――
「最高の戦が、すぐそこに待っている」
獰猛で不敵な笑みが、貼りついていた。
「よしよし」
「ブルッ!」
頭を撫でながら人参を食わせてやると、嬉しそうに長い鼻を俺の顔に擦りつけてくる。……鼻水つくから正直やめて欲しいけど。
「でっかい馬だなー、ご主人様のか?」
「俺の……って言っていいのかなぁ」
もちろん、しきりに感心してる翠じゃない。俺が手綱を引いてる馬の話だ。
「? どういう意味だ?」
「いや、元々俺が乗ってた馬ってわけじゃないんだよ。成り行きで俺が世話してるけど」
そう、こいつはあの洛陽からの撤退戦で星が敵将から分捕った馬だ。俺と星の二人を乗せて敵軍のど真ん中から生還を果たしたパワフルなサラブレッドである。
こいつからすれば拉致されたような形になるんだろうけど、割とすんなり懐いてくれて一安心だ。
……なんて事を思ってたら、翠が何かウズウズした様子で俺を見てる。
「ならさ、この馬あたしに預けてくれないか? 絶対一流の名馬にしてご主人様に返すから!」
パンッと両手を合わせて「お願い!」する翠。どうやら、西涼魂に火が点いたらしい。……でもなぁ、せっかく今まで世話して来たのに、次会った時に「誰こいつ?」って顔されるの嫌だしなぁ。
そんな風に俺が渋っていると――――
「やめた方がいいと思うですよ?」
「ひゃ!?」
どこからともなく風が出た。
「何で?」
「四本全ての足が白いのを『四白』と言い、凶馬の証。おまけにこの子は額に白点があり、これは『的盧』と呼ばれる最凶のだーくほーすなのです」
「的盧………マジか」
「って言うかご主人様もちょっとは驚けよ! 今どっから出てきた!?」
興奮気味に話の腰を折る翠。風に関してはまあ、俺は今さらこんなんで驚かない。
……にしても、的盧か。三国志的には有名な名前だし、俺も名前くらい知ってたけど………
「お兄さんも、お乗り換えした方が良いと思うですよ?」
「いや、でも………」
それでもこいつは命の恩馬。窺うように顔を覗き込んでみたら、俺たちの会話が理解出来てるはずもないのに悲しげな顔してるように見えてしまう。
「いや、俺あんまりそういうの信じない質だから」
「でもよー兄ちゃん、そいつに乗った途端にブッスリ胸を射抜かれたんじゃねぇのかい?」
風の頭上から、宝慧が痛い所を突いて来る。何で見て来たみたいに解ってんのか激しく謎だ。
「だ、だからあれで不吉はラストなんだよ!」
「だといいけどな」
確かに胸射抜かれたのもこいつの上だけど、奇跡の生還を果たしたのもこいつのおかげだ。四足と額が白いってだけで放り出す気にはなれない。
「ヒヒンッ♪」
会話を解ってるはずもないけど、的盧は嬉しそうに啼いた。
「よしっ、準備完了!」
新しい天界の本も風ちゃんに貰ったし(まだ売られてないのも含む)、手荷物は完璧。他の必要な荷物も昨日の内に馬車に積んだ。よしよし。
「……長いようで短かったなぁ」
この部屋ともしばらくお別れ、かぁ。一刀さんが都を取り戻したらそっちに移る事になるだろうから、そんなに落ち込む事ないのかも知れないけど……やっぱりちょっと淋しいな。
「…………………」
一刀さんと一緒に、同じ城で過ごして、皆で笑って……夢みたいな時間だった。……でも、そんな夢をずっと見られるようにするために、今は行かなきゃ。
「よい、しょっ……!」
うっ……全巻入ると流石に重い。旅の合間に読もうと思ってたけど、ちょっと馬車に乗せようかな。
そんな事を考えながら部屋を出て、廊下の曲がり角に差し掛かった所で……
「あ、愛紗ちゃん」
「………お持ちします」
待ち伏せ(?)してた愛紗ちゃんが、青龍刀の柄でひょいっとわたしの荷物を拾い上げた。
「こんな所でどうしたの?」
「い、いえっ! たまたま通りかかっただけですから!」
嘘ばっかり。あんな何も無い回廊で立ってる理由なんて思いつかないもん。
「じ~…………」
「な、何でしょう……」
「じ~~…………」
「擬音を口で言わないで下さい!」
あいこんたくとで責めてみたら、愛紗ちゃん凄く嫌がってる。何を慌ててるんだろ?
「………………………桃香さま」
「ん、なーに?」
観念した愛紗ちゃんの前で、わたしは出来るだけ柔らかい態度になる。一応お義姉ちゃんなんだから、こういう時くらいしっかりしないと。
「此度の異動……まさか、私に気を遣っての事ですか?」
……………わたしが悩みの種だった。でも、ちょっとよく意味が判らない。
「? どういう事?」
「で、ですから……私がいつまでも北郷陣営と距離を取っているから、桃香さまが気を遣って異動を提案したのではと……!」
……考えてもみなかった。愛紗ちゃん、そんな風に思ってたんだ。……こういう時、ちょっぴり臆病な愛紗ちゃん。
「あはっ、そんなわけないよ。そういう理由ならわたし、一刀さん達から離れようなんて思わないもん。むしろ、一緒に遊ぼうとする!」
「そ……そうなのですか。……しかし、それなら何故……?」
愛紗ちゃんが不思議に思うのは、一応解るつもり。わたしだって、一刀さんと離れたくないって思うし、凄く淋しいのも本当。
だけど――――
「今のままじゃ、何もかも一刀さんに頼っちゃいそうだもん。全部背負わせたくない……だから、わたしに出来る事から始めたいって思ったの」
諦めない。もう一度頑張ろうって思った。……また絶望するかも知れない。また守れないかも知れない。
でも――――
『桃香が俺を信じてくれたように、俺も桃香を信じたい』
大好きな人が信じてくれる………それなら、叶えるしかないって思えるから。
「…………桃香さまは、本当に………」
「あ……あははは……♪」
わたしのそんな気持ちと原因に愛紗ちゃんが気付いてる。それが何だか気恥ずかしくて、とりあえず笑って誤魔化した。
「…………………」
愛紗ちゃんが苦しそうに唇を噛む。その仕草だけで、解るものがある。
「次に会う時は、ちゃんと一刀さんと仲直りしようね!」
「えっ? と、桃香さま………!」
わざと気になる言い方をして、わたしは先に走って行く。
城を抜け、街を抜け、門に辿り着く。そこに……大好きなあの人が待っていた。
「一刀さーん!」
離ればなれは辛いし、淋しい。それでも、きっとわたしは戦える。
気持ちが繋がっていれば、どれだけ離れていても勇気を貰える。
だから――――
「行ってきます!」
わたしは旅立つ。
―――胸を張って、貴方の隣に立てるわたしになるために。